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響くアートの愛好家

日曜美術館「東京の原風景~夭折(ようせつ)の絵師・井上安治が描いた明治」

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日曜美術館「東京の原風景~夭折(ようせつ)の絵師・井上安治が描いた明治」

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明治10年代の東京の姿をリアルに描き出した、知られざる明治東京名所絵のシリーズがある。

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描いたのは、26歳で夭折した絵師、井上安治。

“光線画”で名高い小林清親に弟子入りし、江戸伝来の浮世絵とは全く異なる新時代の風景版画、134点のシリーズを生み出した。

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番組では、井上安治の明治東京名所絵を、現在の風景との比較や、明治の文豪の思い出の文章をまじえながら紹介し「東京の原風景」に思いを馳せる。

ドイツ文学者…池内紀,ガスミュージアム副館長…高橋豊,山口県立萩美術館・浦上記念館学芸員吉田洋子,名橋「日本橋」保存会副会長…細田安兵衛,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

 

放送日

2018年5月13日

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明治維新150年。大きな変貌を遂げてきた東京。

その原風景を描いた知られざる風景版画のシリーズがあります。

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明治という新時代の風景をありのままの姿で描いた「東京真画名所図解」。

134点の絵を描いた絵師の名は井上安治。

数え26歳で亡くなりましたが江戸伝来の浮世絵とは全く異なるリアルな風景版画を生み出しました。

井上安治が描いた風景はいまどのような姿になっているのでしょうか。

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旧新橋停車場。

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元の建物は関東大震災で焼け落ちましたが、平成15年に再現されました。

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当時の錦絵は、文明開化の象徴とも言える駅舎を華々しく描いています。

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安治はその新橋の駅を夜の中に沈めています。

駅舎には明かりが灯っていますが通りは暗く、通行く人は黒い影となっています。

侘しささえ漂う文明開化の風景です。

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新橋から横浜まで敷かれた日本で最初の鉄道。

安治は蒸気機関車の勇姿を描いています。

暮れなずむ空のもと煙を吐きながら汽車が疾走していきます。

 

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上野駅はレンガ造りの洋風建築。完成したのは明治17年でした。

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安治が描いたのはレンガの色が映える初代の駅舎。

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馬車や人力車も見え、大勢の人で賑わっています。

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上野駅の近くにある不忍池

ここでは明治の一時期だけ意外なことが行われていました。 

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池の周りを走る競馬が開かれていたのです。

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上野不忍池競馬(うえのしのばずのいけけいば)は1884年明治17年)から1892年(明治25年)まで東京上野不忍池で行われていた競馬。共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われていた。馬券は発売されずギャンブルとしての開催ではなく、屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催された。

安治はその競馬の様子を横長の画面に描いています。

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明治天皇が臨席したことがあるほどのほどの一大イベントで、

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紳士淑女が大勢詰めかけ競馬に熱狂したといいます。  

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明治10年ころの銀座の風景です。 

大火に見舞われたのをきっかけに銀座にはいち早く西洋風の煉瓦街が誕生しました。

安治は現在の銀座3丁目から四丁目にかけての風景を描きました。

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文明開化の象徴の一つだった時計塔があったのです。

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夜の銀座の煉瓦街。絵の中心に時計塔が高くそびえています。

通りにはレールが敷かれ、鉄道馬車が走っていました。

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東京日比谷。オフィスビルがそびえるこの場所には文明開化の象徴の一つ「鹿鳴館」が立っていました。

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明治16年。外務卿に就任して条約改正交渉に取り組んだ井上馨が外国の貴賓の接待、宿泊設として建設した建物です。

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制度、文物、習俗を欧風化して欧米諸国に日本の開花を認めさせ交渉を促進するためイギリス人のジョサイア・コンドル設計による明治初期の国際的社交機関として建てられた洋館です。

しかしやがて行き過ぎた欧化政策だと批判を浴び、鹿鳴館は歴史の表舞台から消えます。

 

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安治が描いた鹿鳴館は夜。

建物には高校と明かりが灯り、夜会でも開かれているのか人影も見えます。

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庭のベンチにはシルクハットをかぶった紳士が一人。

満月でも見ているのでしょうか。外は静けさが漂い、虫の音でも聞こえてきそうです。 

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富国強兵をうたっていた明治政府。

今の国会議事堂がある永田町辺りには陸軍参謀本部がありました。

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旧陸軍を率いた最高の統帥機関・ 参謀本部

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明治19年に建設された建物は昭和20年の戦災で消失。

軍の崩壊と運命をともにしました。

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緑に覆われた皇居のお堀越しに白い参謀本部の建物が見えます。 

遠目に眺めると建物の威圧感は消え、ホテルのような雰囲気さえあります。

 

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海軍発祥の地と言われるのは築地です。

かつてこの一体は海軍用地で、兵学校や軍医学校などが立ち並んでいました。

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暗い空。雪に覆われた築地の風景です。

赤レンガの洋館は当時の盲学校の建物。海軍の兵学校は右側の低い建物です。

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通りを行く人も見えますがひっそりとした雰囲気が漂います。

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富国強兵と並ぶ明治政府のスローガンが「殖産興業」。

その事業の一つが荒川区にありました。

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千住に残る「旧千住製絨所煉瓦塀」

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明治12年。政府の肝いりで作られたこの工場は、それまで輸入に頼っていた明治政府の制服や軍服を国内で賄うため建てられました。

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その最先端の工場が田んぼ越し、並木の向こうに見えます。

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近寄るといくつもの建物が連なり、工場の規模の大きさが伺えます。

 

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20代の青年が何を考えていたのかわからないですが、日本が体験した近代化を克明に描いています。浮世絵のように艶やかなものにしないで、ある通りに描いておこうというある種の使命感があったような気がします。*2

 

井上安治は明治維新を目前にした1864年、江戸・浅草で生まれました。

17歳の時、絵師としてデビュー。26歳の若さで亡くなるまでの9年間、東京の風景を中心に200点以上の絵を描きました。

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安治が絵師になれたのは師匠・小林清親のおかげでした。

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清親は文明開化で変貌する東京の姿を詩情豊かに描き出しました。

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清親の代表作の一つ。

華やかなイルミネーションが飾られた博覧会の会場です。

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光と影を駆使したその絵は「光線画」と呼ばれ人気を博しました。

安治が清親に弟子入りした時のエピソードが残っています。

ある雪の日、清親がスケッチをしていると、そこに少年が近づいてきて二時間あまりもじっと見つめていました。

その熱心な姿を見て清親が話しかけたのが弟子入りのきっかけでした。

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清親の陰に隠れ、ほとんど無名だった安治に着目したのが漫画家で、江戸風俗研究家でもあった杉浦日向子さんです。

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杉浦さんは安治をテーマにした漫画を残しました。その中で安治の絵の特徴を、広重や清親の絵と比べながら解き明かしています。

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広重描く「名所江戸百景」には、わくわくするような異郷の香りがする。 

ときには上空はるかから、あるいは地面に這って、ガリバー旅行記(おとぎばなし)のように町を見せる。

 

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清親や安治の描く東京を見ると、はじめて、自分が毎日踏んでいる地面を思い出す。清親らの視点は、いつも人間の目の高さだった。  

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清親が描いた日本橋の問屋の風景。 

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大勢の客で賑わう店の風景をごく普通の角度から見ています。 

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安治の絵は五重塔が遠くに見える谷中の様子。

こちらも目の高さから見た光景です。

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杉浦さんは清親と安治のよく似た絵を取り上げながら師と弟子の違いを解きます。

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安治の風景画の四分の一は師清親の画稿をなぞっている。

安治は清親のダミーだといわれるが、両者の資質の違いはあらわれている。 

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たとえば「江戸橋の景」

清親は手前に、走る車夫と、富士の横の入道雲を大きくとらえる。 

 

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安治はそのどちらをも描かない。

黄昏の画面は静まり返っている。 

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杉浦さんが比較している二点は、同じ場所。同じ構図の風景です。

人物と入道雲が加わると絵に動きが出るのがわかります。

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たとえば「厩橋

清親は夜空に一閃する稲光りと、傘をすぼめて家路を急ぐ人物を描く。 

 

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安治は暮れゆく町の、ゆったりとしたひと時を描く。

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これも、同じ場所。同じ構図ですが、清親のかみなりが光った瞬間の光景と、安治の穏やかな夕景では、絵から受ける印象はまるで異なります。

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二人の比較は安治が得意とした夜の表現にも及びます。 

たとえば夜。清親はわずかな光の中にも色を見出そうとする。安治の夜は他のどの絵師よりも暗い。

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満月の夜の情景ですが、安治の絵は実際に見たままの暗さを思わせます。 

総じて清親の絵は動きがあり劇的で

映画のワンシーンのように甘やかで切ない。

 

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安治のは拍子抜けするほど淡々とし

渋い色調にもかかわらず、画面は湿り気ない奇妙な明るさに満ちている。

 

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安治が対象に冷ややかだったのではなく、それが彼のやり方だった。

 

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清親は芸術家たらんと欲したが、安治はたぶん、自分のことを画工だと思っていただろう。

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「清親は自分は幕臣だったので、江戸をまだ引きずっていて」 

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第一国立銀行という新しい時代の建築物なのですが、

和服姿の傘を指した女性が意図的にだとは思いますが、佇んでいます」

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「新しい建築物と古いものを対比させて、江戸というものをどうしても強調したかったのだと思います」

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「安治は若いので江戸的なものが混ざっている今の東京を感情移入することなく淡々と、現実をそういうものだとして描くことができたと思います。

江戸的な感性を抜けて西洋が自分たちのものになっている。熟されている時代に一歩踏み出したのが安治だったのでしょう」

 

清親と安治の違い 

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「時代に対する両者の気持ちの持ち方が大きく違うということと。安治の余計なものを入れないスッキリした画風は若さの持つ力だと思います」

・・若いからこそ対象に対して残酷にもなれるし、距離を持つことができる。

「余計なもの。夢とか政府が囃し立てているものはすべて切り捨てて、自分が面白いと思うものだけに限るというのは若さの持つ力でしょうね」

・・師匠の方は絵の中に物語を作っているように思った。弟子の方は坦々と記述している。

「清親は華やぎがあります。安治のは若さの持つ酷薄さといいましたが、同時に優しさがあるのです。華やぎはだんだん飽きてくるのです。仕掛けをしている分だけ、古びるのが早いですけど、仕掛けがなく対象に性格な姿勢をとっている方が、作品とすれば残ってほしいと思います」

・・そうですね。下手に技巧を凝らしたり、ひねりを加えたりしようとすると 早く古びてしまう。

食べ物で言えば"甘み"でね、甘さのところから・・・腐っていく」 

 

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かつて東京は水の都でした。

江戸時代交通の中心は水運で川や堀が縦横に巡っていました。

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明治に入り次第に陸運へと切り替わっていきますが、

安治が描いた東京は水辺の光景にあふれています。

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 隅田川にかかる両国橋。木造の橋でした。

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かつて両国橋の辺りは水流が激しく、流れを和らげ川岸を守るため数多くの杭が打たれました。いつしかそれは百本杭*3と呼ばれるようになりました。

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夕暮れ時の隅田川。百本杭の無効に両国橋が見えます。

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隅田川下流。広々とした水面に大小の帆船などが浮かんでいます。

遠くに洋館が並び、永代橋などが見えます。

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隅田川に合流する日本橋川。高度経済成長の時期に高速道路が作られ、今はその高架下を流れています。

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文明開化のシンボルの一つだった鉄橋。

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鎧橋*4の近くには煌々と明かりが灯る洋館が建っています。明治の財界の指導者。渋沢栄一の邸宅です。

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鎧橋の上流には「日本橋」があります。

江戸開闢以来、五街道の起点として栄えてきました。

明治になってからも日本橋は東京のシンボルの一つでした。

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安治の描いた日本橋川には数多くの船で賑わっています。

向こうには、まだ木の橋だった日本橋が見えます。

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川沿いには魚河岸*5がありました。f:id:tanazashi:20180513202801p:plaina0277742_10385310.png

江戸時代から続いた日本橋魚市場は、明治10年(1877)4月14日に日本橋魚市場組合を設けた。江戸東京の食品流通を担って300年続いた日本橋魚市場は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で壊滅した。

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満月に照らされた日本橋です。

洋館には明かりが灯り、橋の上を大勢の人々が通り過ぎています。

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日本橋が木の橋から石の橋に作り変えられたのは明治44年になってからでした。

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その端は関東大震災や戦災をくぐり抜け今もその姿を留めています。

ただ、東京オリンピックを機に作られた高速道路の下になってしまいました。 

今、高速道路を取り払い日本橋川の風景を取り戻そうという動きが出ています。

 

まとめ

26歳で夭折した安治は「井上探景」と号しました。

風景は人間の情緒に働きかけます。

風景を自分なりに探し出し、絵に留める役割を安治は感じていたのかもしれません。

今、安治の描いた風景画を見ることによって、ちょっと不便だけど、安治が感じていた思いにソウゾウを巡らすのもいいかもしれません。

 

井上安治が描いた明治

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1864(元治元)年に生まれた井上安治(いのうえやすじ)は、15歳で「光線画」の作品で人気を博していた小林清親(こばやしきよちか)へ入門しました。
翌年の1880(明治13)年には早くも作品を発表し、以後、師の清親の作風を模倣しつつも、自身の感性で捉えた東京風景を描きました。
中でも四ッ切り判サイズを中心とした134点からなる一連の作品は、現在「東京真画名所図解」(とうきょうしんがめいしょずかい)と通称され、1881(明治14)年頃から亡くなる1889(明治22)年まで、井上安治の活動期ほぼ全般にわたって手がけた代表作になります。

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取材先など

 

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍・資料

*1:荒川区登録有形文化財明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。

*2:みづゑ(904)1980年 美術出版社 遠眼鏡の風景--井上安治・東京真画名所図解展(MIZUE JOURNAL) / 池内紀 / p62~63 (0072.jp2)<2137561>遠眼鏡の風景--井上安治・東京真画名所図解展(MIZUE JOURNAL) / 池内紀 / p62~63 (0072.jp2)<2137561>

*3:所在地 墨田区両国1丁目~横網1丁目

*4:東京都中央区日本橋川に架かる橋である。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、同下流側は日本橋茅場町となり、東京証券取引所も近い。上空は首都高速の高架橋に覆われている

*5:日本橋と江戸橋との間の北河岸一帯には魚問屋・魚仲買・汐待茶屋・飲食店などが軒を並べていた。向いの南河岸の四日市には干魚や塩魚を扱う問屋があった。さらに、上総や安房の外房や伊豆半島紀伊など関西方面から画期的に進んだ網漁法をもつ漁民が進出してきた。寛永6年(1629)には、伊勢の海士船の鮑漁や承応年間(1652~54)紀州の漁民が房州の浦々に出漁した記録が残されている。

無意味、のようなもの

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無意味、のようなもの

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一見意味のないように思える行動やその痕跡。

そういったものに出会うときあなたは、驚いたり、戸惑ったり、不快に思ったり、見てみぬふりをしたりしていないでしょうか。また、特定の行動を何度も繰り返したり、過剰ともいえるこだわりに執着している人がいたとしても、身近で接しているうちにだんだん気にとめなくなることも多いように思います。

しかし、無意味に思えるかもしれない行動や行為の裏には、実は大切な意味や伝えたいことがあり、それはその人のひとつの表現だったりするのではないでしょうか?

本展では、「意味があるのだろうか」と考えてしまう行為をしたり、作品を制作する作家をご紹介します。その表現は祈りのようなものもあれば、強いこだわりから生まれたもの、そして我々に考えさせるためのメッセージを込めたものなど様々です。

本展が、「無意味」のようなものについて考え、思いを巡らすきっかけになれば幸いです。

 

hajimari-ac.com

会場:はじまりの美術館

会期:2018年4月14日~7月16日

特別展 江戸の戯画 鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで

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特別展 江戸の戯画
鳥羽絵から北斎国芳暁斎まで

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太平の世が続いた江戸時代には、多くの戯画(ぎが)が描かれました。一口に戯画といっても多種多様なものがありますが、本展では「鳥羽絵」をキーワードに江戸時代の戯画をご紹介します。

鳥羽絵は、広く戯画や漫画を指す言葉として使われることもありますが、より限られた意味では、18世紀に大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画を指します。そこに描かれる人物は、目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由来するものとされます。

鳥羽絵は、18世紀の大坂で鳥羽絵本として出版され、その人気は明治にまで及びました。また、上方に留まらず、江戸の浮世絵などにも影響を与えています。鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の「耳鳥斎(にちょうさい)」はもちろん、鳥羽絵本の影響を受けたと考えられる江戸の「北斎(ほくさい)」や「国芳(くによし)」、そしてその流れをくむ「暁斎(きょうさい)」など、時代や地域により変化しながらも、笑いの感覚は脈々と受け継がれてきました。

本展では、そのような流れを追いつつ江戸時代の戯画のエッセンスをご覧いただきます。

 

www.osaka-art-museum.jp

会場:大阪市立美術館

会期:2018年4月17日~6月10日

宋磁 神秘のやきもの

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宋磁 神秘のやきもの

 

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悠久の歴史を有する中国陶磁の中で、宋時代(960 - 1279)にはその美しさが頂点に達したとも評されます。
宋時代の陶磁器である「宋磁」は、官窯(かんよう)、景徳鎮窯(けいとくちんよう)、定窯(ていよう)などに見られるように青磁白磁・黒釉磁(こくゆうじ)などの単色の釉薬(ゆうやく)をまとい、非常にシンプルかつ研ぎ澄まされた造形性が美しく、格調高き陶磁器です。北宋時代末期から南宋時代にかけては絵画の世界で文芸復興運動がおこりました。この頃宋磁においても、中国古代の王朝が祭祀で用いた青銅器に倣った陶磁器がつくられており、古典へのまなざしを「やきもの」という立体造形で象っています。そこには皇帝や士大夫といった文人達の高貴かつ清逸な美意識が表わされているのです。その一方で磁州窯(じしゅうよう)、吉州窯(きっしゅうよう)などの搔き落としや鉄絵、さらには五彩(宋赤絵)などの色彩に変化を凝らした絵付陶磁も生み出され、それらには一般庶民の生活に根ざした活気に溢れる、ユーモラスなデザインも展開されています。
明時代の『格古要論』や清時代の『年窯墨注歌』などの文献にも宋磁の素晴らしさは語りつがれています。宋時代から長い年月を経た後世の人々もまた、宋磁に畏敬の念を抱き続けていたのです。さらに日本でも古くから唐物として知られる作品があり、近代以降には「鑑賞陶器」としても宋磁が愛でられてきました。
このように宋磁は同時代の人々にとっても、後世の人々にとっても魅力的で、神秘的なものであったといえます。本展覧会では、優雅な美、また親しみ溢れる多様な「宋磁」の世界を、宋時代前後のやきものの様相とあわせてご紹介いたします。

 

最新の展覧会|展覧会情報|出光美術館

会場:出光美術館

会期:2018年4月21日~6月1日

戦後美術の現在形 池田龍雄展-楕円幻想

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戦後美術の現在形
池田龍雄展-楕円幻想

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1928年に佐賀県伊万里市に生まれた池田龍雄は、特攻隊員として訓練中に敗戦を迎えます。占領期に故郷の師範学校編入しますが、軍国主義者の烙印をおされ追放にあいました。戦中から戦後の大きな価値の転回に立ち会い、国家権力に振り回され続けたこの体験が、池田の原点を形作りました。
1948年、画家を目指して上京した池田は、岡本太郎花田清輝らによる〈アヴァンギャルド芸術研究会〉に飛び込みます。以後、文学、演劇、映像とジャンル横断的に繰り広げられる戦後美術のなかで、多彩な芸術家や美術批評家と交わりながら、自らの制作活動を展開していきます。
個人として厳しく社会と向き合いながら、一個の生命として宇宙の成り立ちを想像する。90歳を目前に控えたいまもなお歩み続ける彼の画業は、時代と切り結び思考する苦闘の足跡であり、戦後から現在にいたる日本の美術や社会のありようを映し出しています。
練馬区立美術館では1997年に「池田龍雄中村宏」展を開催しており、今回は練馬では20年ぶりの池田龍雄回顧展となります。本展では、50年代から第一線で活躍し続ける池田の作品に息づく、戦後美術の現在形に迫ります。

www.neribun.or.jp

会場:練馬区立美術館

会期:2018年4月26日~6月17日

香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~

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香水瓶の至宝
~祈りとメッセージ~

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本展覧会は、香りが信仰と結びついていたことを示す古代エジプトの器から、現代の高級香水瓶に至るまで、香水瓶の至宝ともいえる名品を時代とともに辿り、そこに込められたメッセージを読み解いていこうとするものです。古代祭祀のための香油瓶、病魔から身を守るために使用された中世のポマンダー、ヨーロッパ宮廷文化が生んだ、マイセンをはじめとする各国の磁器製の香水瓶、はたまた舞踏会用の指輪つき香水瓶、さらには近年まで王室に伝承されていた宝飾細工の香水瓶、そして広く世界中の人々に愛された有名ブランドの名香の容器等、当館の香水瓶コレクションから厳選された名品が一堂に会する展覧会です。

 いつの世にも人々の生活の中で大切にされてきた香水瓶は、その時代ごとの思想や社会、そして個人の美意識を映し出しています。時代と地域を越えて慈しまれてきた小さな器にまなざしを向けることで、香りの文化が、豊かな風土や文化交流、そして人々の美を希求する心から生まれてきたことを感じていただけることでしょう。

 

www.umam.jp

 

会場:海の見える杜美術館

会期:2018年3月17日~7月8日

人間・高山辰雄展 森羅万象への道

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人間・高山辰雄
森羅万象への道

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宇宙を視野に入れた壮大なスケールで人間存在の神秘や生と死の矛盾を問い、現代社会に生きる人間を描いた日本画家・髙山辰雄(1912-2007)。1951年より終生、世田谷の地を創作の拠点とし、戦後の日本画壇の最高峰として杉山寧、東山魁夷ともに「日展三山」と称されました。1982年に文化勲章を受章、没後10年を経た今日もなお、その深い精神性を湛えた絵画表現は高く評価され続けています。

本展は、大分県立美術館の所蔵作品を核とし、大分市美術館ならびに各所蔵者のご協力のもと、過去最大規模の約120点を集め、70余年にわたる髙山辰雄の画業を回顧します。貴重な学生時代のスケッチから、亡くなる前年の94歳にして初めて手がけた自画像まで、各時代の代表作を通じて、人間の本質を掴もうとした人間・髙山辰雄の芸術世界に触れていただければと思います。

www.setagayaartmuseum.or.jp

 

会場:世田谷美術館

会期:2018年4月14日~6月17日

荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋

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国立美術館で開催される漫画家の個展としては、手塚治虫氏以来28年ぶり2人目であり、これまでの歴史の集大成となるジョジョ史上最大規模の原画展が2018年の夏に開催されます‼ 

 

荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋

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漫画家・荒木飛呂彦*1 さんの展覧会が東京・国立新美術館で開催されます。

 

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会場は、歴代『ジョジョ』の「運命の物語」を振り返る「ジョジョクロニクル」、主人公とライバルをカラー原画やセリフと共に紹介する「宿命の星 因縁の血」、スタンドとキャラクターが集結する「スタンド使いはひかれ合う」、カラー原画が並ぶ「JOJO's Design」、第7部までの主人公とライバルのバトルシーンを一挙展示する「ハイ・ヴォルテージ」、荒木の創作の秘密に迫る「ジョジョリロン」といったコーナーで構成予定。ãã¹ã¿ã³ã使ãã¯ã²ããåããã¤ã¡ã¼ã¸ãã¸ã¥ã¢ã«

JOJO派」としてコラボする作家には、彫刻家の小谷元彦、デザイナーの森永邦彦(ANREALAGE)、ビジュアルデザインスタジオWOWが名を連ねる。今後も展示内容は随時発表。会場ではオリジナルグッズの販売も行なわれる。

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「グッズ付先行予約券」はオリジナルグッズ「JOJO's Sketch Stickers(専用ケース付)」が付いた入場予約チケットです。

 

JOJO x GUCCI Produced by SPUR 新聞広告(2011)。

*1:(あらき ひろひこ、1960年6月7日 - )宮城県仙台市若林区出身。東北学院榴ヶ岡高等学校卒、宮城教育大学中退、仙台デザイン専門学校卒。身長169.5cm、体重(2007年現在)61kg、血液型はB型。既婚者で二女の父。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2号から連載開始された『ジョジョの奇妙な冒険』。20年にわたって連載され続けており、シリーズ総計106巻(2012年8月現在)、発行部数は7000万部に及ぶ。