チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「山口蓬春 絵に年をとらせるな」

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日曜美術館「山口蓬春 絵に年をとらせるな」

「蓬春モダニズム」と呼ばれる洗練された日本画で戦後画壇のスターとなった山口蓬春。近年人と作品の調査が進み、常に新しい表現を模索し続けた生き方が注目されている。

昭和を代表する日本画家・山口蓬春。近年、葉山にある記念館で日記や手紙などの整理が進み、人と作品に新しい光が当たろうとしている。注目されるのは「絵に年をとらせるな」という言葉。蓬春は常に新しい表現を模索し続けた。大和絵で華やかなデビューを飾るが、戦争中藤田嗣治とともに新しい表現を模索する。戦後、「蓬春モダニズム」と呼ばれる絵で画壇のスターとなるが、それにも飽き足らず事物の本質を描こうと変わっていく…

【出演】山口蓬春記念館学芸員…岡田修子,画家…千住博,【司会】井浦新,高橋美鈴

放送日

2017年2月4日 

内容など

逢春が画壇にデビューしたのは1926年。ヨーロッパから印象派などの新しい絵画が次々と入ってきた時代でした。

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33歳の若き逢春が描いた「三熊野の那智の御山」。
この作品は帝展に出品されるや、特選と同時に帝国美術院賞を受賞。
逢春は画壇に鮮烈なデビューを飾りました。

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滝をご神体とする熊野那智大社を中心に熊野の霊場を描いています。
中央の那智大社は繊細な線で丁寧に描かれています。
大和絵の伝統的な技法です。

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その一方、背景には深い奥行きが感じられます。
洋画の遠近法を巧みに取り入れているのです。
この作品が画壇に与えた衝撃はどれほどのものだったのか。

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長年逢春を研究する神奈川県立美術館館長の水沢勉さんです。
「本物を見ると驚くんですがね一番画面の下のところの飛沫の白さのところが、

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普通の日本画でこの白さでこの明るさはないかなと。むしろヨーロッパの絵画などが持っている白が放つ光みたいなものと似ているようなのが、この絵の大きな魅力なのではないかと思います。ただ逢春という人は、自分の代表的な絵を描く時に、それに負けないような光の効果を作り出したいという野心を持っていた絵描きさんじゃないかなと思います」
 

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逢春は日本画と洋画、両方の技法を学んだ画家でした。
1893年。北海道松前町に生まれた逢春。
父は日本銀行の行員でした。

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幼い頃から絵が好きだった逢春は、21歳で念願の東京美術学校西洋画科に入学します。

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逢春が学生時代に描いた油絵。
色使い、筆の荒々しいタッチなど、ゴーギャンなどの後期印象派に強く傾倒していたことがわかります。
ところが、一人の人物との出会いで逢春の画家人生は大きく代わることになります。

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日本画家・松岡映丘です。
逢春は三年生のときに日本画科に転科し、松岡に学ぶようになりました。

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卒業後も松岡が顧問を務める「新興大和絵会」に参加。画壇にデビューするのです。

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華やかなデビューを飾った翌年の作品です。
二年連続で帝展特選を受賞しました。

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季節は初夏。
木々の緑が鮮やかです。

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平安時代の貴族が使った網代車。雅な色彩が印象的です。
逢春はこの作品でも西洋画の技法を取り入れ、
木々に差し込む自然の光を巧みに描いています。
池の水面にも光は降り注ぎます。

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逢春は金泥を用いてその輝きを表現してみせました。
大和絵に近代的な感覚を取り入れることは「新興大和絵会」が目指すものの一つでした。
逢春は三十代の若さで会の中心的な存在となっていきました。

 

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昭和の初めは日本が侵略戦争への傾斜を強めた時代。
満州事変で加速した大陸への侵攻。
時代の中、逢春の人生は大きく変わることになりました。

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きっかけは帝展改組。
美術界を揺るがせた大きな事件でした。
時の文部大臣松田源治が突如美術界の組織をガラリと変えようとしたのです。
当時、美術界の中心にあったのは国が組織する帝国美術院。
逢春の師・松岡映丘も帝展の審査員でした。
いっぽう在野では横山大観率いる日本美術院や、川端龍子が率いる青龍社などが独自の活動をしていました。
松田文部大臣は帝国美術院の力を強め、すべての組織をひとつにまとめようとしたのです。

昭和十年以後、帝国美術院改革のことが問題となり、まず、十年は帝国美術院規程を廃して新たに帝国美術院官制を制定し、会員定数を三〇人から五〇人に増員し、在野美術団体の代表をあげて美術家の全員一致の体制を実現しようとした。松田文相によるいわゆる松田改組である。この新帝展の制度は美術家の間に不満を呼び、十一年、平生文相は再改組を試みたが、さらに紛糾は続いた。そうした中で、政府は、美術だけでなく文芸・音楽その他の分野の芸術についてもその発達に寄与する機関を設けることの必要を痛感し、十二年六月、新たに帝国芸術院官制を定め、芸術に関する重要な事項を審議し、その発達に必要な事業を行ない、文部大臣に建議することのできる機関として、帝国芸術院を設立することとなった。

一 芸術文化の行政:文部科学省

その狙いは何なのか。

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帝展改組について研究する野地耕一郎さんです。
「政府による美術団体の統制といえると思います。つまり政治による挙国一致体制を作ろうという、そういう考えでおこったのがこの帝展改組事件なんです」

この時、新興大和絵会の看板画家だった逢春は帝国美術院の参与という高い地位につくことを要請されます。
ところがこの改組には賛否の声が巻き起こり、画壇は大きく揺らぎます。
大観たちは合流するものの、川端龍子は反対。
松岡も反発して新たに在野の団体「国画院」をつくるのです。
「師匠の松岡映丘は様々な団体が入ることでごちゃごちゃになってしまう。純粋性がなくなると感ずるわけです。それで国画会という門下生たちを集めた団体をつくってそこで大和絵の振興をさらに進めていくわけです」

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逢春は悩みます。帝展に参加するのか。それとも師の松岡に従うのか・・・
この時下した決断は大きな反響を呼びました。

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逢春は帝展の参与を辞退すると同時に、松岡の国画院からも脱退します。
どのような団体にも属さず、一人で絵を描いていくことを決断したのです。
逢春はどのような気持ちで決断を下したのか。

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山口蓬春記念館で日記の整理が進んでいます。
そこに決断を下した日の記述がありました。

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12月28日小雪。参与を辞し、国画院等の浮世の義理を捨て申し候
温かき夜にて眠り難くおぼえ申し候

師と決別した逢春の絵は変わり始めます。

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帝展参与を辞退してから5年後。1940年の作品です。
絵の舞台は当時植民地だった台湾です。

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中国服に身を包んだ女性。
生まれてくる子どものためにか、編み物をしています。
日本画の伝統的な画題を離れ、現実の風景を描くようになっていました。
このころの逢春の言葉です。

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(王朝時代の)大和絵は、その時代の感覚なり、趣味なりを通じての写実であったし、

ある思潮の中心に触れていたと思う。
しかし、(今の大和絵で王朝時代)そのままの形式を今日の感情なり思想なりを
一致させることは困難だと思う。

大和絵に描かれた王朝時代の歴史的な題材も当時は同じ時代を写し取ったもの。
したがって今の時代であれば、今を映す絵でなければならないというのです。

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「非常にモダンですよね。伝統的な絵画という風には見えない。非常に整理されたムダのない画面ができていて、当然新興大和絵などの渦中にあるときは牛車ひとつとっても精密に正確に描くということに情熱を注いでいたと思うのだけど、もうちよっとおおらかになっているように思いますね」

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1940年。太平洋戦争が開戦。戦争とともに画家たちの立場も大きく変わっていました。軍部の要請で戦地に派遣され、戦争画を描くことを求められたのです。

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描かれた戦争画は日本各地をて巡回する美術展で展示され、多くの人の目に触れることになりました。当時著名な画家ほとんどが戦争画を描きました。
その絵は戦意高揚のためのプロパガンダなのか。そうではないのか。
今日まで評価は定まっていません。

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逢春は太平洋戦争開戦直後にセンチに派遣され戦争画を残しています。

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イギリスが支配していた香港を日本軍が攻略した時の様子を描いています。
香港島の夜の街。爆撃を受けて燃え上がる炎と、幾筋もの黒煙。
群青の深い青が画面を覆っています。
どのような気持ちで戦争画を描いたのか。
逢春はなにも書き残していません。
この絵で何を表現しようとしたのでしょうか。

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近年、山口蓬春記念館で一枚のハガキが発見されました。
洋画家・藤田嗣治からのものでした。
当時の藤田は戦争画を描く画家たちのリーダーでした。f:id:tanazashi:20180211211033p:plain
藤田と逢春の二人は中国広東省の広州や台湾など同じ場所に従軍し、
絵を描いたことが分かっています。
藤田からこんな手紙も届いています。

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「戦争展の道場は一番怖いものじゃ」

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「大家なんて祭られちゃもう駄目だ」
「一ツそのうちお手並み拝見」
「藤田という人は日本画家の山口蓬春を意識していた。戦争記録画を描く画家同士の競争心・ライバル心のようなものを藤田は大変強く持っていたことが手紙から生々しく伝わると思います」

逢春とともに切磋琢磨した藤田。
彼の戦争画は長い間タブーとされてきました。

※注:昭和二十一年六月に、日本美術会が日本民主主義文化連盟に提出した「美術界に於て戦争責任を負うべき者のリスト」に二人の文化官僚、二人の軍人、二人の軍人、とともに、八人の美術家が「自粛を求める者」として〝罪状〟つきでリストアップされています。
その美術家とは、横山大観、児玉希望、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、長谷川春子中村直人川端龍子です。

藤田嗣治は「創作活動に於て最も活発に積極的に軍に協力した。又文筆に於ても軍国主義的言論をもって活躍した。その画壇的社会的名声は軍国主義的運動の大きな力となり、国民一般に与えて影響は極めて大である」という〝罪状〟で糾弾されました。戦争画リターンズ

 


最近日本やフランスで研究が進んでいます。

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「ソロモン海域における米兵の末路」

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この絵をデュケン教授は19世紀の巨匠・ドラクロアの作品と比較します。

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「ドン・ジュアンの難船」
この絵はバイロンの詩を下敷きにしています。
船が難破し、上に苛まれた人々は、誰を殺して食べるかをくじを引いて選びます。
ドラクロアの絵は、船に乗る人にやがて訪れるであろう悲劇すら予感させます。

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「構図がよく似ているだけではありません。2つの作品にある劇的な緊張感がとても良く似ているのです」

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藤田の絵には左上に獰猛なサメの姿が描かれています。
漂流する疲れ果てたアメリカ兵。
見るものにこのあと訪れるであろう悲劇を重く感じさせます。
藤田はヨーロッパの巨匠ドラクロアとおなじように、目に見える出来事だけでなく、その奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとしています。
「藤田はその戦争画の描き方からして、日本的な画家とはいえないでしょう。むしろヨーロッパの戦争画の偉大な後継者だったのです」

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そして逢春の戦争画
藤田がヨーロッパの伝統的な戦争画を描こうとした一方で
逢春が目指したものは何だったのでしょうか。
この絵には、戦争を描いたものでありながら叙情性すら感じさせます。
「日本の古典的な絵画というか、絵巻などに描かれているような、

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伴大納言絵巻などに描がかれているような、語弊がありますが、美しい戦乱の姿を、近代画としてこの絵の中に描くことができないかと、挑戦してみたというのがこの香港島最後の攻撃図なのではないかと思っています」

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伴大納言絵巻とは平安時代前期に起こった応天門の変を題材にした歴史画です。
逢春は日本の伝統的な歴史画を目指していたのではないか。
水沢さんは考えています。
「彼にとってこれだけの規模の夜景の戦闘シーンを描くことはこのモチーフ以外にはあり得なかったと思います。彼の戦前の総決算の作品で代表作であるというべき完成度をもった作品だと思います」

 

 

f:id:tanazashi:20180211200022p:plain1945年終戦

戦後の開放感の中、逢春は新たな画風で人々を驚かせます。
横長の画面いっぱいに広がった日本の自然。

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山の緑、湖の青、雲の白。
空に浮かぶ雲や森の木々には従来の日本画のような輪郭線がありません。

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色と形だけで単純化された表現です。
新しい逢春の始まりを告げる明快な作品です。
新しい絵のアイデアはいつ生まれたのか。

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残された日記にヒントがありました。
1941年9月1日。戦争中の日記にある画家の名前が登場します。

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19世紀末に活躍したホドラーです。

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逢春が持っていた画集です。
戦争中もホドラーの画集を大切にしていました。

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ホドラーはスイス生まれの画家。
描いた山や湖は日常から離れた精神性の高い風景と評価されています。
ホドラーの作品から得た発想を逢春は戦争中ずっと温め続けていたのです。
この作品を描いたときに残した逢春の言葉です。

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「かねてから明朗で潤然とひらけた、そしてまた総体的に近代的な色調を持つ自然界の一部を表現したいと考えていた」

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逢春は次々と斬新な日本画を発表します。

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朝顔に縁取られた画面。
貝殻や麦わら帽子が明るい色調で描かれています。f:id:tanazashi:20180211201037p:plain
下図と見比べるとこの絵の特徴がわかります。
下図では朝顔の花が丁寧に線で描かれています。

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これが、本画になると線が省略され、色と形だけに単純化されているのです。

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葉を見ると、葉の輪郭線と緑の色がズレています。
こうすることで朝顔の葉が、海風に揺れているような印象を与えます。
リズミカルな色彩感覚が新鮮です。

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どこか遠くを見つめるような白熊。
後ろにいる二羽のペンギンは空を見ています。
逢春が戦後追求してきた色と形の単純化を極めた作品です。
この絵はどこか不思議です。
北極にいる白熊と南極に住むペンギンが同居する、実際にはない風景。
空には日食を思わせる太陽。
そして望郷とつけられた画題。
こうした作品は逢春モダニズムと呼ばれ、高い評価を受けました。

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日本画が古色蒼然たる世界ではなく、こんなにフレッシュなものになりうるという一つのお手本だった。日本画が生まれ変われると思っていた時期だったのではないかと思います」

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神奈川県葉山町にある山口蓬春記念館。
戦後の方旬はこここの居を構え絵筆をとっていました。
逢春モダニズムで人気を集め、花々に囲まれて絵を描く日々。
しかし、そのなかにあっても逢春は絵を変えていきます。

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ひと枝の琵琶と古九谷の器。
逢春は対話をするかのように、その本質を描こうとしています。

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逢春が晩年に取り組んだのはモダニズムの世界とは異なる徹底した写実でした。
逢春晩年の創作の秘密に接した人がいます。
山口家で11年にわたって住み込みで働いていた安藤一コさんです。

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「洗面所の窓越しに見える裏山の土手の甘草の話が一つ思い出に残っています。甘草の蕾が少しずつ出てきて三分咲きほどになったところで私が切って一輪挿しに生けていしまいました。f:id:tanazashi:20180211202008p:plainそしたら「あの甘草はどこにいったんだろう。僕は楽しみにしていたのに、窓越しに額縁の中の作品のように僕は眺めていたんだよ、これは日常生活の中で美的感覚、美意識をもってものごとを見ないとだめだよ」という感じであとでお話をいただきました、ああ申し訳ないことをしたと思った思い出があります」

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「とにかく物事をよく見つめ突き進んでいくと物事の真髄が見えてくる。それは絵に限らずいろいろなことに通じることだと思うよ・・・ということをよく仰ってくださいました」

 

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浜木綿を描いた夏。
庭に咲く花を何枚も写真に撮り、観察を重ねた末に完成した作品です。

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「最初は見たままの写生。次いで感じたままの写生が、それからさらに進んで知ったままの写生に至る」
見たままだけでなく、感じたままだけでなく、本質を見極める。
これが逢春の到達した境地でした。
昭和の初めから戦後にかけて活躍した日本画家・山口蓬春。
時代とともに大きく画風を変えました。
絵かきになることをこころざし、その出発点となった大和絵

激動の時代に新しい歴史画を描いて見せた戦争画

戦後の開放感の中で色と形を洗練させた逢春モダニズム

晩年にはものの本質に迫ろうと写実に徹しました。

逢春が変わり続けた理由は何なのか。

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画家としての生き方を語る肉声が残っています。

「絵描きになりたいということはそもそも絵描きになりたいのであって、なになに画家になりたいのではなかった。

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ところがいつのまにかだんだん専門家していく。職人芸になってしまう。ですから絶えず自分が絵描きになりたかったんだ。絵描きになるんだということを忘れないように自己を反省していくには、心の中の未開拓の部分に鍬を入れていかなければならない。自分はこころがけながらやっています」
絵に年を取らせるなと常々語っていた
山口蓬春。自分の中の未開拓の部分に鍬を入れ、耕し続けた画家でした。

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍

 

展覧会

 

山口蓬春記念館

美輪明宏 ヨイトマケの唄 その愛と秘密

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美輪明宏の伝説の名曲「ヨイトマケの唄」。

この歌が人々に愛されるまでには数々のドラマがあった。

その謎をひもとく未公開テープが作曲家・中村八大の遺品に残されていた。

そこには若き日の美輪の肉声が。

美輪が自らの人生を投影し、底辺で精一杯生きる人々の姿に心を動かされ、書き上げたこの曲は数奇な運命をたどりながら時代を越えて歌い継がれていく。

美輪本人や関係者の証言からこの歌が人々の心をとらえ続ける秘密に迫る。

美輪明宏 ヨイトマケの唄 その愛と秘密」

【出演】シャンソン歌手…美輪明宏,【語り】石澤典夫,久保田祐佳

 

日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ クリムト」

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日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ クリムト

今年没後百年を迎えるオーストリアの画家・クリムト。あでやかな金を使った表現で知られる。スタジオにクリムト好きの各界の著名人が集結、その魅力を語る。

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ファッションデザイナーのコシノヒロコクリムトの世界観に魅了され、仕事に影響を受けた。華道家假屋崎省吾は反骨精神で革新的な作品を生み続けるクリムトに勇気をもらった。広島県立美術館館長の千足伸行は、現実の世界にとらわれない妖しい美にひかれるという。生前、自分の作品についてほとんど語ることのなかったクリムト。その真意や魅力を三者三様で選んだ傑作をもとに語り尽くす。

【ゲスト】ファッションデザイナー…コシノヒロコ,華道家假屋崎省吾,広島県立美術館館長…千足伸行,【司会】井浦新,高橋美鈴

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ウィーンの人々の精神状態を男女の愛に置き換えて視覚的に表現したものでもあるといわれる「接吻」 

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クリムトはファッション・デザイナーのエミーリエのためにドレスをデザインした。

放送日

2018年1月28日

 

クリムトの生い立ち

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19世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を示した街・オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンです。

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1862年クリムトオーストリア郊外の金細工職人の家に生まれました。

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14歳で工芸学校に入学。

建築装飾などを手がける職人を目指します。

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クリムトが若き日に手掛けた壁画装飾がウイーンの美術史美術館に残されています。

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正面の中央階段を上がると広いホールの向かい側にアーチ部分が見えます。その上部に描かれた二人の女性像。

美術館が一般公開される1年前(1890年)にクリムトが弟のエルンストや友人のアーティストと描いたものです。全部で11枚の壁画装飾です。

ウィーン美術史美術館③「クリムトの壁画」 : イ課長ブログ

美術館の特徴である古代エジプトから18世紀後期に至る多種多様なコレクション内容を象徴的に描写しています。

 

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向かって右に立つのは赤の衣装をまとったアテネの守護神。「古代ギリシャ

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右側に立つのは古代エジプトの女性です。「古代エジプト

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その描写力の高さで、無名だったクリムトは一躍世に知られます。

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ところが、順風満帆だったクリムトはある大スキャンダルを巻き起こします。

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1894年。政府からウイーン大学に学問をテーマとした天井画を描いてくれと頼まれます。

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ウィーンのリンクシュトラーセ(環状道路)に面してウィーン大学が建っています。クリムトは1894年にマッチュとともに、そこの講堂天井画の依頼を受けます。

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この注文に対し、クリムトは型破りな表現で応じました。

クリムトが担当したのは《哲学》《医学》《法学》です。それらは1900年から1903年にかけて分離派展で順次公開され、大論争を引き起こしました。

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医学をテーマにした作品では、宙を舞う病的な裸の人間と、死を意味する頭蓋骨を描いたのです。

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医学そのものを否定するかのような死を描いた表現はウイーンの中心的画壇から大きな批判を受けます。*1

 

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「検閲はたくさんだ。誰にも隷属するわけにはいかない。私は戦わなければならない」

反骨精神に燃えるクリムトは1897年。芸術家団体「ウイーン分離派*2」を結成。

保守的な画壇からの独立をはかり、新しい画風を追求していきます。

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分離派の拠点となった建物にはこんなスローガンが掲げられています。

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「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」

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そんな反骨精神の中で生まれたのが「接吻」でした。

花々が咲き乱れる断崖絶壁で、恍惚の表情を浮かべる女性。

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彼女を抱きすくめ、頬にキスをする男性。

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この作品でクリムトが特にこだわったのが金でした。

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男女にまばゆいばかりの金の服をまとわせています。

いったいなぜこのような表現をしたのでしょうか。

 

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色彩が人の心理に働く効果を研究する坂田勝亮さんはこう考えます。

「金というのは光り輝くので私たちの注意を引きつける効果があるのです。光り輝く二人。この二人が愛し合っているということを金を使った表現でより強く我々に訴えかけているように感じられます」

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実はこの時代、愛というテーマは神話の一場面として描かれることが多く、人間の性愛を赤裸々に描くことはタブーとされていました。

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それを金を使って描こうとしたのがクリムトの「接吻」だといいます。

「自由に好きな相手を決めてその人と結婚するということは誰も考えていなかった時代。クリムトの前に愛し合う二人を描いた作品は全然ない。非常に衝撃的だった作品だと思います」

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「今までの美術の世界を打破して新しい描き方で新しい内容を描くというクリムトの革新的な姿勢がよく現れていると思います」

実はクリムトは私生活においても結婚せず型破りな生き方を貫いていました。

アトリエには裸同然なモデルを何人も待機させ、 彼女たちの間に少なくとも14人もの子どもをもうけたのです。

愛や性は隠すべきだという保守的な社会に反抗するかのように行きたクリムト

そんな彼だからこそ誰も描けなかった愛の表現を生み出せたのかもしれません。

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仮屋崎「光を強く感じました。突き刺すような光に衝撃を受けたのです。真ん中のふたりに金を使って男女の愛ですよね。これを象徴的にあらわしていること。それから断崖絶壁のような、足が今にも崩れ落ちる雰囲気のところですが、永遠というものを感じ取ったのです。永遠の愛、それにエロスを封じ込めた傑作と思います」

千足「一つ間違えば奈落の底。だけど美しい花が咲いている。極楽浄土みたいなイメージもある。現実的にありえない。むき身の人間は顔と手と足の部分だけ。来ているところは金で埋め尽くされている」

仮屋崎「束縛されていた時代でしょ。芸術家は自分の表現したい者を自由にあらわすことが大事なのにそれができない世の中に対してのアンチテーゼみたいなものもこの絵から読み取れる気がします。生花の世界では生の花を使うんです。私は枯れた枝なと、流木などに色を塗る。人工的な色と自然の色の対比がダイナミックさも生むし、時間の経過だとかを考えて使うようになったのですが、その当時は色を塗るなんてタブーであるという攻撃もあったわけです。でも自分の信念に基づいてこれか本物であると、良い表現だったんだと」

コシノ「美しいものを発見していくのが我々の仕事なのよ

仮屋崎「美しいものに古いとか新しいというのは一切ない。これが美しいというものを追求してクリムトもそうだと思います。自分と共通するところが実はあったので、そういうのが魅力の一つなのではないかと思います」

コシノ「性欲も強い。エロティシズムに対して全然興味のない人は絵なんて描けませんよ。そういう情熱をたくさん持っているからこそ自分の中で持っているものを表現したくなっちゃうんです」

仮屋崎「端からだう見られるかを気にしながら生きているのが普通の人生だけど、クリムトは気にしない」

 

クリムトと金

男女の愛を描いた「接吻」。

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この傑作が誕生した裏には日本の伝統工芸に通じる金箔の技が関係しているのではないか。 そう考える人が京都にいます。

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金箔や銀箔を装飾する箔屋と呼ばれる店の五代目、野口琢郎さんです。

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伝統的な金箔の技法を用いた作品を発表しています。

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「箔の使い方が日本の昔からの表現に近い。人物の付近が強く輝くように箔が押してある。キラッと輝くように箔を押す。

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それに比べて背景は反射の弱い処理をする。背景と人物の箔の押し方を変えて遠近感を出して、

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抱き合ってキスをする二人を強調するために金の表現を変えている。上手だなあと思いました」

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野口さんによれば金箔は貼り方によってその輝きに差をつけることができるといいます。

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金箔は平面のまま貼ると光が当たった時最も強く輝きます。

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一方細かくすればするほどその輝きは弱まります。

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粉末状にした金箔・砂子を散らす日本の伝統技法です。

クリムトは手前の人物が際立つように、最も反射の強い貼り方を。

一方背景は砂子を巻くことで輝きを押さえ、霞がかったような遠近感を作ったのではと、野口さんはいいます。

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金一色で絵の中に無限の広がりを生み出したクリムト

そこには日本の伝統技法にも通じる巧みな表現が汲み取れます。

仮屋崎「ミステリアスであり、日本というものを感じました。それか゜金箔の四角い正方形をつなげる手法」

千足「金箔は、そもそも父親が金細工をやっていた。日本の金箔のような薄さのものはできなかったが、もう少し厚みのあるもの。ヨーロッパでは中世などでいろいろなところで使われていた。古い美術は紙とか聖人のような神聖な者を称えるために金を使うわけです。もう一つ重要なのは背景の金。見方次第でずっと奥までつながっている。どこで始まってどこで終わるかわからない宇宙空間みたいなあいまいな空間です」

仮屋崎「二人の愛を象徴させるために他のものをすべて取り除いて金を浮かび上がらせる」

(余白が日本的ですね)

コシノ「色のセンスがすごくいい。ファッションに通じるというか、テクスチャです。やっぱり布としか見えない」

 

コシノヒロコが選んだ傑作

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愛知県豊田市

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クリムトが描いた肖像画があります。

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真っ直ぐに前を見据える女性の眼差し。

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血管が透ける手首。 女性は西洋の伝統的なドレスから開放され、斬新な服に身を包んでいます。

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描かれているのは銀行家の妻。

いわば信仰の富裕層。ブルジョアでした。

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近代化が進むウィーンで王侯貴族に変わって台頭したブルジョワたち。

新たな時代を築こうと伝統的な文化に対抗。

新進の芸術家を支援していました。

新しい時代の新しい表現を作り出すクリムトのもとには そんなブルジョワたちから妻の肖像画の依頼が寄せられます。

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そこでクリムトは斬新なドレスで着飾った女性たちの姿を次々と描いたのです。

クリムトは実際にドレスのデザインもしていたのです。

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当時上流階級の女性の多くはウェストを極端に締め、胸とヒップを強調するドレスを着用していました。

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そんな中、クリムトは窮屈なドレスから体を開放させ、個性を自由に発揮できる服を考案しました。

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そのよきパートナーとなったのがエミーリエ・フレーゲ

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ブティックを経営する、当時としては珍しい女性実業家で、 時代の先端を行くファッションデザイナーでもありました。

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1907年1月。彼女とともにクリムトがデザインしたドレス10点が雑誌に掲載。

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体の線を強調した従来のものとは一線を画し、体型を覆い隠すようなゆったりとしたものでした。

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撮影したのはクリムト自身。

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ファツション写真という概念が確立されていない当時としては珍しい写真家でもあったのです。

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新しい女性像をファッションの世界からも発信しようとしたクリムト

そんなデザイナーとしての才能が随所に見られる作品があります。

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「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」

頬を赤らめた女性。

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顔と手首以外はすべて金の衣装に覆い隠されています。

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ドレスには日本やエジブトから発想を得たと言われる文様や、

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クリムトが習得したデザインが余すところなく描かれています。

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その才能に惚れ込んだのがファッションデザイナーのコシノ・ヒロコさん。

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10年前にこの作品を目にし、オマージュ作品を描くほどに感銘をうけました。

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アデーレで描かれていたドレスの幾何学模様をコシノさんなりの感性で布を貼って表現しました。

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「テキスタイル的な図案的なものと、非常に具象のきちっとしたものがミックスして、ぜんぜん違う世界のものをミックスしている。もっともっと違うものを求めたいという気持ちがそのまま表現できているのがクリムトの絵で、だから憧れる」

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アデーレの肖像にはデザイナーとして学ぶべきことがたくさん詰まっているとコシノさんは考えています。

コシノ「この絵はファッションデザイナーとして一番魅力のある絵です。構図がまず非常に面白い。これを見た時ショックで、西洋人がこんな絵を描くんだと思った。シルエットが洋服なのに富士山みたいで、山水画のよう。その中にちょこんと上の方に顔がある。着物のように見える」

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仮屋崎「打ち掛けのよう。金襴緞子をいっぱい使った意識する」

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コシノ「細かいパターンが面白い。バリエーションがすごいのです。エジプトの影響や日本の家紋だとか更紗だとかものすごいバリエーションの図案なんです。工芸をやってきた人の強さみたいなものがここで発揮されていて、工芸というのは普通の芸術、アートから見るとちょっと格が下とか見られがちなんだけど、工芸を完全にアートとして成立させた人だと思う」

千足「この絵の中で生身の人間という感じは顔と手だけ。それ以外は美しい甲冑のような衣で体中を固めたもの。陶磁のオーストリアの批評家はのの絵を見て、

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この絵はブロッホというより、プレッヒだと。ブロッホは彼女の名前。プレッヒとはブリキです。つまり金属板。生きた人間を描いているというよりブリキを重ねたような印象があると皮肉ったわけです。ヨーロッパでは職人はちょっと低く見られたようなところがある。工芸もね。日本と違って。画家のほうが偉いみたいな変な偏見があって。ところがクリムトはもともとは工芸的な世界に生きて、学校も工芸学校だし、というような変な偏見はなかったりで」

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コシノ「工芸はこう、アートはこう、ファッションはこうと何も分野を分けることはないんです。ファッションがこの中にあったっていいし、テキスタイルがあったっていい。今の時代はいろんな要素を持ちながら自分のものを作ればいい。私は絵を見て、クリムトはその時代にもうやっていたんだ」

(ファッションデザイナーとしてのクリムトについて)

コシノ「夫人たちの肖像を並べてみるとすばらしいスタイルのイラストレーション。ファッションの写真。最初見たときに着物からのイメージが強いて思った。体のきれいな曲線をまともに見せるのではなくて想像させる美しさというか、

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そこはかとなく動くときに出る女性の美しさを求める。だからウェストは締めない。完全にストーンとした洋服。

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だけど歩くときにきれいなお尻がユラユラユラユラ・・・あー、想像するほうがずっとセクシーじゃないですか。日本の着物そうですよね。全部見せないで襟足だけ美しい。ちょっと裾から出す足がとてもセクシーだ。そういう服が彼の服なんですよね」

仮屋崎「もしかするとクリムトは女性にみんな着せているけど自分も着たかったのじゃないかと思いますね」

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コシノ「彼も着てるもの。あれって造形的に動くと面白い形が出てくるんです。動いて面白い服というのは非常にアートです」

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千足「革新的なことをやってますよね。その時の実験台役をしたのがエミーリエ・フレーゲなんです。彼女は3人姉妹でしかも三人ともファッションブティック経営で、当時の社会で男に頼らず経済的に自立していた開放された女性の典型だった」

仮屋崎「クリムトの周りには自立心が強く生きていく人が集まってきたようです」

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千足「彼はフレーゲと半分同棲していて、夏は避暑地に行くんです。そこにクリムトのガールフレンドから手紙が来る。フレーゲが手紙を読むといけないので彼は一人だけ早く起きてというエピソードがある」

 

新たな表現に挑んだクリムト

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女性たちからの熱烈な支持で一世を風靡したクリムト

その後はどのような人生を歩んだのでしょうか。 晩年の心境を物語る言葉が残っています。

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若い人たちはもはや私を理解していない」

「彼らは別の方向に進んでいる」

「彼らがそもそも私を評価しているかどうかも分からない」

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ヨーロッパではすでに抽象絵画が生まれていた時代。

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ピカソカンディンスキー、マルクなど新進気鋭の画家たちが独創的な作品を発表。 注目を集めていました。

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金によって新しい世界を開拓したクリムトもいつの間にか 時代から取り残されたと思い悩むようになったと言われています。

そんなクリムトは50歳に差し掛かる頃から、金に代わる新たな表現を模索し始めます。

その頃描かれた「死と生」。

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千足伸行さんが選んだ晩年の傑作です。

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花畑のような空間で、幼児から老年に至る人間が群れになってまどろんでいます。

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そこに近づくのは十字架の衣服をまとった死神。

背景にはこれまでにない暗い色が使われています。

じつはもともとはクリムトの代名詞でもあった金色で描かれていました。

それをクリムトはあえて塗り替えたのです。

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彼が言いたいのは生を描く。

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生きていることの素晴らしさを描くということが大事だと思うのです。

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周りが金だと「死」の方が強いコントラストを持って現れてくるので、むしろこちらが主役になってしまう。

だから彼が描きたい「生」の方を、周りを黒い色にすることによって、よりいっそう引き立って我々の絵に飛び込んでくる効果があります。

「死」を脇に置くことによってより強調化される強い対比として我々に示されるのです。

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我々の背後には常に死があるのだけど、それがあるからこそ我々の生はすばらしい。

死を迎えるまで我々は生を謳歌できるんだということを多分伝えようとしていると思うのです。

クリムトが背景の色を変えたのは1915年。第一次世界大戦のさなかでした。

ブルジョアが台頭した華やかな時代から、混沌とした死と隣り合わせの時代へ。

クリムトはそんなときだからこそ、生きる尊さを描こうとしたのかもしれません。

新たな表現を模索する中、クリムトは急に病に倒れこの世を去ります。 55歳でした。

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今、私たちがこの画家の真意を知るすべはありません。

「私のことが知りたいと思う人は、私の絵を丹念に注意深く見てほしい」

「私が何者で何を求めているのか絵から知るように努めてほしい」

 

「死と生」を読み解く

千足「塗りつぶした背景は黒というよりはダークブルーです。遠い宇宙の空間を暗示するような・・・。独特なのは大勢の人。星雲のようなところにまとめている。無限空間の中を漂っているのは、誰かのマネをしたと言えないようなオリジナリティがある。その宇宙の一角でドラマが生まれている。死神が人々を見ているのは、いずれ死ぬこと、逃れられない宿命ですが、その脇に一人だけ目を開けている女性がいる。彼女に向かって死神がお前さんまだ死んでないんだね、そろそろ目を閉じてご覧よ、すると意外に美しい夢が見られるかもしれないよと、彼女に向かって言っているように」

仮屋崎「クリムトの過去・現在・未来を感じました。55歳近くになっていつ死ぬかわからないな。でも希望みたいなものがこの中に描かれていて、新しい何かを打ち破って生み出したいという葛藤がこの絵から読み取れたのです」

(若い人は自分を理解していない。評価していないんじゃないか)

仮屋崎「一時代を築くとどんどん前に進めばいいが、頂点を維持し続けるのは難しい」

コシノ「世の中から置き去りにされていくという気持ちよりも、むしろ自分のための絵を描きたい。そういう気持ちを「生と死」に感じる。たくさんの客がいて絵を描く。そんなことから逃れて自分の中で今感じている精神をそのまま表現したい。だから金を捨ててもいいじゃないか。流行がどうであれ、自分は自分なんだ」

仮屋崎「クリムトの一抹の寂しさみたいなものも感じますよね」

 

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍

展覧会

2018年のテーマ展覧会「混沌の時代の美。クリムト.シーレ.ワーグナー. モーザー」 - ウィーン – 今。いつまでも

*1:クリムトは1905年に《哲学》《医学》《法学》の3点を買い戻すことになります。しかし、それらは第二次世界大戦中に疎開先の戦災で焼失してしまい、現在ではモノクロの画像しか残されていません。講堂の天井には現在、所定の場所にモノクロの画像がはめ込まれています。

*2:ウィーン分離派は1897年4月3日にグスタフ・クリムト、コロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマン、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ、マックス・クルツヴァイル、ヴィルヘルム・ベルナツクをはじめ多数の芸術家によって創設された。のちに参加した芸術家にエゴン・シーレオスカー・ココシュカがいる。オットー・ワーグナーウィーン分離派の重要メンバーとして見なされることがあるが、創設メンバーではない。

体験!錯覚!気づき!金沢「スイミング・プール」エルリッヒ

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今も現役で活躍する現代アーティスト、レアンドロ・エルリッヒ。

金沢21世紀美術館にある「スイミング・プール」。

縦7m横4mの何の変哲もないプールに見えますが、覗くと中には服を着た人が…。

仕掛けは極めて簡単ですが、鑑賞者が参加してこそ完成する、既成概念を打ち砕いた作品なのです。

今回はそんなエルリッヒ作品3つの楽しみ方をご紹介します。

1つ目は「体験して楽しむ」。エルリッヒ作品最大の特徴は鑑賞者が作品を体験できること。そこにはどんな意味が?

2つ目は「錯覚を楽しむ」。視覚を惑わせ異世界へ誘う現代アート…しかも21世紀のアートでありながら、ダ・ヴィンチやベラスケスとも共通点が!ヒントは鏡って…!?

3つ目は「気付きを楽しむ」。アルゼンチン国中を驚がくさせた大胆な仕掛けの裏に秘めたメッセージにあなたは気付けるか!

美の巨人たち 体験!錯覚!気づき!金沢「スイミング・プール」エルリッヒの魔術

放送:2018年1月27日

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小村雪岱「雪岱調」のできるまで

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小村雪岱「雪岱調」のできるまで

 

小村雪岱(1887〜1940)は川越に生まの画家です。

東京美術学校日本画科選科で下村観山に就いて基礎を学び、

卒業後は国華社、資生堂意匠部を経て、本の装幀や舞台装置の世界で活動しました。

 

雪岱を一躍有名にしたのは、1933年に朝日新聞に連載された邦枝完二作「おせん」の挿絵。華奢な人物像、極細の線による無駄のない描写、余白を活かした画面構成、白黒二階調の明快な配色を特徴とする絵画スタイルで大衆を魅了した。

本展では、雪岱の多岐にわたる画業から、挿絵の仕事と、その中で育まれた「雪岱調」と呼ばれる独自のスタイルに注目する。

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彼が着想を得たであろう先行作品との比較を交え、そのスタイルの誕生に至るまでの過程を考察。さらに、その画業をたどることで雪岱の持つ繊細なセンスや確かな描写技術を明らかにしていく。

bijutsutecho.com

 

 

会場:川越市立美術館 

会期:2018年1月20日(土)~2018年3月11日(日)

特別展最新情報/川越市

遊べる浮世絵展

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恐ろしい形相の猫の顔。

よく見るとたくさんの猫が集まっています。

江戸時代後期。こうしたユーモアに満ちた浮世絵が人気を呼びました。

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くもんの子ども浮世絵コレクション 遊べる浮世絵展 江戸の子ども絵・おもちゃ絵大集合!

役者絵や美人画で知られる浮世絵ですが、実は子どもの姿を描いたものが数多く存在します。本展では、歌川国芳歌川広重などの「子ども絵」や親子の情愛を描く風俗画・物語絵、「おもちゃ絵」などをご紹介します。

会期:2018年1月5日(金) ~2018年2月12日(月)

子どもを題材とした作品をはじめ遊び心あふれる浮世絵が大集合。

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母親の耳元でビードロを吹く男の子。

無邪気な子どもの一瞬を捉えています。

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宝とされた子どもたち。浮世絵に多く絵描がかれました。

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激流の中。巨大な鯉をがっちり捉えたのは、ご存知金太郎。

心身ともに健やかな、当時の理想の子どもでした。

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マスの中に「あがり」の文字。

人気小説を題材にしたすごろくです。

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現代にも通じる様々な遊びが、こうした浮世絵で広まりました。

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くもんの子ども浮世絵コレクション 遊べる浮世絵展 江戸の子ども絵・おもちゃ絵大集合!|広島県立美術館 Hiroshima Prefectural Art Museum