チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「シーボルト 幻の”日本”展」

日本人は広々とした自然にひたって

楽しむことを心から愛している

シーボルト『江戸参府紀行』) 

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日曜美術館シーボルト 幻の”日本”展」

ごく普通の日本人にとって、シーボルトとは歴史教科書に出てくる物好きな外国人でしょう。「ユーはなにしに日本に来たの」という問いかけに、シーボルトはどう答えたのでしょうか。しかし、この男。ただの物好きドイツ人ではありませんでした。

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ドイツ、ビュルツブルグの古城とミュンヘンの倉庫に、6千点に及ぶ日本の美術品や民俗資料が未整理のまま眠っていた。フランツ・フォン・シーボルトの収集品である。著名な「シーボルト事件」で日本を追放されたシーボルトだが、1859年~ 62年に二度目の来日を果たし幕府の外交顧問などを務めた。この時持ち帰ったコレクションが子孫の家などに埋もれていた。国立歴史民俗博物館国立民族学博物館などが調査を続けた結果、意外な事実が発掘された。

シーボルトは晩年ドイツで日本を紹介する「日本博物館」を開催していました。数多くの収集品はシーボルトの死去とともに保存され、長く日の目を見ることはありませんでした。最近になって日独の学術機関が関心を持ち、9年間かけて調査を続けてきました。

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シーボルトは長崎・出島の鳴滝塾蘭学を教えた"先生"です。しかし、幕府禁制の地図を持ち出そうとして追放された(いわゆるシーボルト事件)裏の顔も持っています。

シーボルトのコレクションにある伊能忠敬の日本地図を見ると当時の海岸線が描かれていることがわかります。国防という視点に立つと、シーボルトの行為が持つ意味とその重大性がわかります。

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今改めてシーボルトの行動を振り返ると不思議な現代性を発見します。外交と情報収集(インテリジェンス)という現代のキーワードを重ねると、とたんに生き生きと人物像が蘇ってくるから不思議です。

シーボルトは当時としては計算高い抜け目のない青年だったと思われる.いくぶん滑稽なところさえあるといってもよい.彼はどうすれば鎖国下にある日本から最大限の資料と情報を入手できるかを周到に考え,それを実行に移していったといえる.最先端の西洋医学の知識と技術の伝授は,必要な資料と情報収集にとって,最大の武器になることを知って行動したのはいうまでもない.まずシーボルトは日本人の間で関心の高い西洋医学に関して,それまでに習得した最新の医学知識と技術を伝授することで彼らとの交流を深めていった.交流を深めていく中で,彼らから資料や情報を得ようとを考えたわけである.これは鎖国下で行動がきびしく制約された日本で,必要かつ質の高い資料・情報を得るのにもっとも効果的な方法であっただろう.巧妙に隠匿された真の目的に気付いた日本人はいたかも知れない.しかし,気付いたところでそれはとくに問題ともならなかっただろう.日本ではわずかに葵の紋章の付いた衣裳や器物,それに地図などが持ち出されるのを禁じられているだけだった.多くの重要な資料・情報の持ち出しに関しては日本人も当の幕府も何も問題は感じていなかった.

大 場 秀 章「シーボルトの21世紀」

シーボルトの21世紀

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」ということわざがあります。来日したシーボルトは27歳。異国の情報に興味を抱く野心家だったと推測されます。ですから、シーボルトが西洋医術を惜しげもなく当時の日本社会に伝授したのは当然下心があったという話は納得できます。 

しかし、1200点近くのコレクションを見ると、野心だけではなく、シーボルトが彼にとっての異文化である日本の自然や人々の暮らしに触れ、様々な発見や気づきを遂げていったことがわかります。

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シーボルトが収集したのは地図のような情報ばかりではありませんでした。収集品は植物の記録から当時の日本人の生活まで広く及んでいたことがわかります。

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幻の「日本」展でシーボルトが展示しようとしたのは、江戸時代の美しい漆工芸、仏像や神像、職人の姿や風俗を映した絵画など300点でした。選ばれた作品からは、シーボルト独特の「日本」観が浮かび上がってきます。 

日本へ行くに当たってシーボルト自身が期待したものは何だったのだろう.

そこで日本の文化が多様で豊かな植物相に大きく依存していることを知る.それを具体的に示すものは什器などの文明の産物であり,これも文明の産物といえる園芸であった.

シーボルトは自然ばかりでなくそれらにも深い関心を示した.これは日本の自然と文化を総合的に調査し研究のための資料を収集するというカペレンから与えられた任務の内といってもよい.繰り返すが植物は特別だった.こうした多様な文明の産物の素材となったのは植物だからである.植物を育む日本の地形,気象,地質などにも関心は広がっていく.シーボルトは一人で日本研究のための博物館を生み出すつもりで,あらゆるモノを集めまくったといえる.

シーボルトの21世紀

シーボルトが集めたのは植物だけではありませんでした。シーボルトが注目したのが日本人の暮らしでした。祝い事などの食卓を飾る漆器のコレクション。さらにはわら細工などの素朴な工芸品にシーボルトは関心を示しました。

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シーボルトがめざしたのは美術品の収集ではありませんでした。シーボルトの試みは、「世界初めての民族学博物館としての価値」があると調査に当たった研究者はいいます。シーボルトは日本人の生活文化の隅々まで関心を持ち、生活の知恵や、日本人の美意識を記録してまわりました。

シーボルトは日本人の絵師を雇って描かせたのが、生活の様子を切り取った風景画や、さまざまな職業の日本人の姿でした。 

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人物画のなかでも貴重なのが当時の職業を描いた「仕事人図鑑」です。

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働く庶民の姿が生き生きと蘇ってくるようです。当時の人々はどんな会話を交わしていたのでしょうか。この絵を裏書きする解説が入っただけで入門者向けの民俗資料として出版できそうな気がしてなりません。

 

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シーボルトが生きたヨーロッパは、ナポレオンが登場する戦乱の時代にありました。訪れた日本は鎖国の中200年近く続いた平和な暮らしがありました。日本人と家庭を持ったシーボルトはひょっとしたら、穏やかな日本に理想の姿を見いだしたのかもしれません。  

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東洋の島国を訪れた青年シーボルト。こよなく愛した植物を育んだ日本の風土やその多様性に目を開き、自然が作り上げた日本文化に触発されていく。彼が残した膨大なコレクションを読み解くと、私たち日本人がなくしてはいけない精神というものに出会えるような気がします。

ディレクター 岩井優介

制作協力(プロダクション)グループ現代

 

 

◇「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」

国立歴史民俗博物館 2016年7月12日(火)~9月4日(日)

シーボルトの死の直前にミュンヘンで開催された「最後の日本展示」を、シーボルトの長男アレクサンダーが残したリストをもとに復元的に紹介し、シーボルトの描いた日本像に迫ります。

企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館

siebold-150.jp

シーボルト日記については

八シーボルト日記 坂書房:書籍詳細:シーボルト日記