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日曜美術館「少年たちはローマを目指した~絵でたどる天正遣欧使節~」

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伊東マンショの肖像」伊 ドメニコ・ティントレット筆 1585年 ミラノ、トリヴルツィオ財団蔵 Fondazione Trivulzio - Milano *1は日本でも初めてその存在が知られた油彩の肖像画です。 

 

 

日曜美術館「少年たちはローマを目指した~絵でたどる天正遣欧使節~」

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4人の少年がローマ法王に謁見した天正遣欧使節。その正使、伊東マンショ*2肖像画が、 2016年の日伊国交樹立150周年を記念して、東京国立博物館で特別公開「新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」展覧会が開催されました。

天正遣欧使節の歴史的出来事を寺崎武男*3の絵画とともにたどります。

放送:2016年8月21日

キリシタン大名の名代として、4人の少年がはるばるヨーロッパに赴き、ローマ法王に謁見した天正遣欧使節。その正使だった伊東マンショ肖像画が、今年日本で初めてお披露目されることになった。この天正遣欧使節の歴史的快挙をライフワークとして描いた画家が寺崎武男である。番組では、天正遣欧使節という歴史的出来事を寺崎武男の絵画とともにたどりながら、幻の「安土城図屏風」や「南蛮屏風」を通して当時の南蛮ブームを描く。

【出演】東京大学名誉教授…五野井隆史,岡崎市美術博物館館長…榊原悟,早稲田大学教授…成澤勝嗣,長崎歴長崎歴史文化博物館研究員…五味俊晶,歌舞伎・オペレッタ演出家…寺崎裕則,イタリア・トリブルツィオ財団・資料館員…パオラ・ディ・リコ,大阪大学特任助教…パオラ・カヴァリエレ,【語り】伊東敏恵

av98ingram.wpblog.jp

 

番組内容

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伊東マンショの肖像」は、2014年3月にミラノで発行された学術誌に紹介され、日本でも初めてその存在が知られた油彩の肖像画です。1585年にヴェネツィアを訪問した天正遣欧少年使節の姿を、ルネサンスヴェネツィア派の大画家ヤコポ・ティントレットが発注を受け、その息子であるドメニコ・ティントレット(1560~1635)が後に完成させたとみられます。

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江戸時代から近代にかけての海外交流に関する資料を扱う長崎歴史文化博物館に、着物姿のマンショの肖像画がのこされています。

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スペイン風の衣装を身にまとった、まだ少年らしさが残る姿がいきいきと描かれています。当時、肖像画を描かれることは特別な扱いでした。なぜ4人の少年が片道2年半という時間をかけ、危険を冒してまで遠い欧州まで旅をしたのでしょうか。

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「南蛮屏風」(狩野内膳1570~1616画 16世紀末期頃 神戸市立博物館蔵)に当時の日本の様子が描かれています。

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異国から到着した南蛮船を迎える港は大勢の人であふれています。赤青黄と鮮やかな色彩で人物の衣装が描かれています。

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乗組員がまとったきらびやかな衣装は当時の日本人にとっては見たこともないデザインでした。絵を目にした人々は遠いヨーロッパの文化にあこがれを抱いたのです。

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貿易品の荷揚げ、上陸したカピタン一行、彼らを出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者たちが描かれている。唐物屋には虎や豹の毛皮、絹織物、陶磁器などの貿易品が扱われている。唐物屋の奥には南蛮寺があり、内部では救世主像の掲げられた祭壇の前で儀式が執り行われている。仲介貿易が主体で、貿易と布教が一体となっていた南蛮貿易の実状をよく表している。象、アラビア馬、グレイハウンド種の洋犬など、南蛮渡来の珍獣が多く描かれているのも特徴である。

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin_new/405.html

南蛮船の目的は、貿易と布教の二つのねらいがありました。

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南蛮船に同乗した黒衣の人物が宣教師です。当時ヨーロッパは宗教改革の最中でした。力をつけたプロテスタントに対抗すべく、旧勢力であるカトリックは、辺境の地に布教の足がかりをつくろうと模索していたのです。

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1579年に来日した、カトリック教会の司祭でイエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本語ができない宣教師たちに「郷に入れば郷に従え」とばかりに、日本語教育の下地をつくったことで知られています。

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ヴァリニャーノは大友宗麟高山右近などと会見したあと安土城織田信長と謁見したと言われています。

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信長は異国から来た一行の姿に関心をしめしました。奴隷として連れてこられた黒人を「弥助」として信長の直臣としたという記録も残されています。

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天正遣欧使節団は欧州に強い興味を持った信長がいて初めて実現したプロジェクトだったのです。

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使節団の消息に強い興味を抱いた画家がいます。版画家の寺崎武男は当時の農商務省の実業候補生としてイタリア留学した経験があります。天正遣欧使節団は歴史の中に埋もれた存在でしたが、寺崎はイタリアで使節団の存在に出会います。終戦後の焼け跡となった日本を元気づけるシンボルとして、海を越えて旅をした4人の少年たちの足跡を描こうと思い立ちました。

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船出を見送るのは少年の父母でしょうか。空には虹が架かり船旅の安全を祈る気持ちが伝わってきます。生きて帰れる保証がない旅でした。

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使節団は当時のローマ教皇に贈り物を携えていたことがわかっています。贈り物は屏風ということまではわかっていますが実物は発見されていません。今回発見された「伊東マンショの肖像」は、その屏風発見の手がかりとなるのではないかと期待されています。

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屏風に描かれていたものとは安土城でした。安土城は1582年におきた明智光秀による本能寺の変の後まもなく焼失。その姿を記録した証拠が絵に残されているとして、屏風の発見に力が注がれています。

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琵琶湖の東岸にこんもりとした姿を見せる山が安土山です。山頂付近には信長が築城した6階建ての独創的な意匠で絢爛豪華な城がそびえていたと推測されています。

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帰国した使節団の一行を待っていたのは残酷な運命でした。秀吉はキリスト教に対する厳しい姿勢を示します。ヴァリニャーノはマンショたちを伴い秀吉に面会を求めます。

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嘆願を聞いた秀吉は、伊東マンショに自分の家臣になる気はないかと話しかけます。マンショは秀吉の申し出を断ります。

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マンショはこのあと、長崎のコレジオで教えていましたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死しました。

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徳川幕府豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止しました。弾圧は過酷を極め、元和8年(1622年)には日本のキリシタン迫害の中でも最も多くの55人を同時に処刑する「元和の殉教」を起こします

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遣欧使節団は、欧州の文化を日本に伝えるという志は果たすことができませんでしたが、日本という国の存在を欧州に知らしめるという役割は十分に果たすことができたと番組では締めくくっています。

 

ディレクター 吉田道代

プロデューサー 橋本裕次

制作統括 村山淳、堀川篤志

制作 NHKエデュケーショナル

 

 

寺崎武男は明治40年東京美術学校卒業と同時にベニスに渡った版画家です。油絵や水彩はもとより、フレスコ、テンペラエッチング、パステル、建築などを学び、中でも壁画に強い関心を抱いたそうだ。帰国後は山本鼎などと日本創作版画協会を設立、美術の発展に寄与しました。武男は滞欧中、イタリア各地の寺院や石碑などを目にして、故国では詳細が知られていなかった「遣欧少年使節」の事績を発見し衝撃を受けました。使節団の功績を伝えるために、寺崎は生涯の目標として遣欧使節の事績の絵画化に取り組んだといわれます。

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屏風2点に描かれたテンペラの大作「遣欧少年使節 ヴァチカンへの行列」

 

取材先など

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia) 寺崎武男展(2014.10.02~11.16)

 

 

 

 

展覧会&ニュース

・「伊東マンショの肖像」は、長崎歴史文化博物館(7月22日~8月31日)、宮崎県立美術館(9月9日~10月16日)を巡回する予定です。

天正遣欧少年使節が、1585年に当時のローマ法王グレゴリオ13世(在位1572〜85年)に謁見した場面を描いた19世紀のフレスコ画が、ローマにある同法王の子孫宅で見つかった。

フレスコ画は、19世紀半ばの邸宅増築の際、一家の依頼で画家のピエトロ・ガリアルディ(1809〜90年)が食堂の天井画として制作。20世紀前半に食堂が寝室と衣装部屋に改築された際、新しい天井が造られ、フレスコ画は見えなくなっていた。一家の古文書を研究するコーリー・ブレナン米ラトガース大准教授が2012年、フレスコ画の全体像を収めた20世紀初頭の白黒写真を発見。6月、小型カメラで天井の向こう側の絵を確認した。(2016年8月13日毎日新聞

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この邸宅で暮らすニコロ・ボンコンパーニ・ルドビージ氏(75)は「謁見は一家にとって重要な出来事。この発見で日本人とさらに親密になれるよう望んでいる」と話している。

書籍 

戦国の少年外交団秘話―ポルトガルで発見された1584年の天正遣欧使節の記録

戦国の少年外交団秘話―ポルトガルで発見された1584年の天正遣欧使節の記録

 
クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国  (集英社文庫)

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天正遣欧使節 (講談社学術文庫)

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嵐に弄ばれた少年たち 「天正遣欧使節」の実像

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伊東マンショ~その生涯~

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少年が歴史を開いた―伊東マンショ・その時代と生涯 (みやざき文庫 51)

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*1:1585年にヴェネツィアを訪問した天正遣欧少年使節の姿を、ルネサンスヴェネツィア派の大画家ヤコポ・ティントレットが発注を受け、その息子であるドメニコ・ティントレット(1560~1635)が後に完成させたとみられます。2014年3月にミラノで発行された学術誌に紹介されました

*2:1570年ごろ、現在の宮崎県西都市に生まれた。キリシタン大名有馬晴信が島原に開いたセミナリヨ(神学校)で学び、天正遣欧少年使節の一員としてローマ法王に面会。帰国後に神父になり、キリシタン迫害が強まる中で布教を続け、1612年に長崎で死去した。

*3:明治16年生まれの版画家。40年農商務省実業講習生としてイタリアにわたり,エッチングをまなぶ。大正5年帰国し,7年山本鼎(かなえ)らと日本創作版画協会を設立。昭和6年日本版画協会の創立に参加する。エッチングの普及につくし