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チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「祭りの水墨画」 傅益瑤

なぜ祭りを描き始めたのか。そのには父と娘の悲劇の物語が関わっていました。

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傅益瑤さんは1947年、中国・南京で生まれます。父は20世紀中国水墨画の巨人といわれた傅抱石。

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父から水墨画を学びます。父は北京の人民大会堂の壁画を描くほどの腕前でした。

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これは戦後中国を代表する水墨画とたたえられている代表作「江山多嬌」。伝統的が第を繰り返し描いてきた中国水墨画で写実的でダイナミックな表現を打ち出しました。

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しかし、悲劇がおこります。1960年代中ばからはじまった文化大革命です。古い文化や伝統は否定され、水墨画や祭りさえも消滅の危機を迎えました。傅抱石は文革の嵐が近づく中61歳で心労でなくなりました。

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傅益瑤さんも文革の渦に巻き込まれて行きます。当時、黒いものは悪とされ、水墨画はその最たるものとして筆を持つこともはばかられました。著名な水墨画家を父に持つ傅益瑤さんも反革命分子とされました。中国南西部の農村に追いやられ過酷な労働を課されます。父から教わった水墨画でいつかは画家になろうという夢を抱きながら耐えました。

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文化大革命が終わったのは1976年。その3年後、日本で絵を学び直そうと留学します。平山郁夫などに師事し水墨画日本画を学びました。

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1996年比叡山延暦寺に奉納した「仏教東漸」です。仏教画や山水画を得意として、永平寺三千院などの壁画も描いて行きました。

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しばしば絵にしてきたのが中国の黄山

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仙南が住むという幻想的な風景です。「たとえ石でも絵にするなら必ず生命を宿すこと」という父の教えが息づいています。さらに、父から受け継いだ早い筆遣い。迷わず走る線が生命観をあふれさせています。父から学んでいたことをもっと生かしたいと悩んでいたとき、運命的な出会いがありました。それが日本の祭りです。

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傅益瑤さんが初めて水墨画にした山形の花笠祭。傅益瑤さんの家庭は節句などの伝統行事をとくに大切にする家でした。それが失われた悲しさの中で出会った花笠祭です。

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ふだんは物静かな日本人が熱く祭りにのめり込むさまに、傅益瑤さんは驚愕します。この時の発見きが「日本の祭」シリーズの創作のきっかけとなりました。

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各地を訪ね始めた傅益瑤さんは祭りがいかに独特の気配に包まれるか気づきます。諏訪大社御柱祭。7年に一度の聖なる儀式。神が宿り降るといわれる巨木の先頭で滑り降りることは、この上ない栄誉です。

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傅益瑤さんは御柱に立ち向かう男たちに神の気配を感じ1100人をすべて違う動作で描き上げました。父から学んだダイナミックな筆遣いがエネルギッシュな祭りの場面を捉えています。

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やがて祭りの水墨画に転機が訪れます。青森ねぶた祭です。花笠をつけ着物を着て、若者たちと一緒に跳ねました。すると祭りのエネルギーをさらに感じたのです。以来参加できる祭りには必ず参加して描いています。

 

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傅 益瑶の世界 - 日本祭礼文化の会

 

父・傅抱石の著作

栄宝齋画譜104 人物部分 (栄宝齋画譜)

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傅抱石年譜(増訂本)(書画名家年譜大系)(中国語)

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傅抱石篆刻印論(中国語)

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傅抱石篆刻印論(中国語)

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