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日曜美術館「利休の志を受け継ぐ」樂家の茶碗づくり

 

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樂家は京都の真ん中、御所のほど近くにあります。お茶碗屋。江戸初期の文化人で、樂家の親戚筋に当たる本阿弥光悦の書。その樂家の茶室で初代長次郎の茶碗を見せていただくことに。

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もともと利休が所持。その後利休の娘が嫁いだ茶人・万代屋宗安*1に受け継がれた黒茶碗ということから万代屋黒と呼ばれています。
「表立った強さはこの茶碗ではすべて消されている。そういう意味では長次郎自身の個性も消されている。そこがすごいのですね。ある意味で恐ろしい。そしてこの黒の一色。高台も黒く塗りつぶしてあるでしょ。普通、織部茶碗にしても篠茶碗にしても、全部ここに土が見えてくるのですね。土の味わいというのは日本人の心を打ちますよね。そこに水に浸されて、水分をもって、土が本当に生き生きとした潤いを持っていく。そういう良さと、良ささえも長次郎茶碗というのは全部黒で塗りつぶしている。これは尋常ならざるものがありますよね。はっきりとここに利休の意思がある」
茶人・千利休豊臣秀吉の下で権力の中枢に身を置きました。秀吉好みの黄金の茶室の設計にも携わったとされます。絢爛豪華を美とし、舶来の品を貴ぶ桃山時代。いっぽうで利休は小さな躙り口から身をかがめてはいる僅か二畳の茶室を作ります。藁がむき出しの土壁の空間に身を置き、「詫び」の心で一服する茶を理想としたのです。

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「利休の茶は黒のそのさらにその奥。黒という一つの色ではなく、時間と空間みたいなものかな。そういう薄闇が何十にも重なっていくという気がするのですね。だから利休の茶室の”待庵”と長次郎の茶碗はまるで双子の兄弟のような、相似形のような感じがする」

そもそも、なぜ利休は長次郎に茶碗づくりを頼んだのでしょうか。
手掛かりはこの獅子の焼き物。この獅子は長次郎が茶碗を手掛ける前につくったものです。
「非常に強いリアリティがある。それは桃山独特の生命感ですね。前足を伏せるようにして、後ろ足を立てて威嚇しているような。だから長次郎の個性というものはまさにあの獅子にあるなあと思うのです。こちらではなく。こちらはそれも消されてしまって。ああいう激しい獅子を・・彫刻を作りうる職人だったから、アーティストだったから、自分の茶碗の、思っている茶碗の制作を依頼したいと、心からそう思ったのでしょうね。だから、決してこの茶碗はただ静かなものだけではないということがそこでも言えるかなと思うのですね」

 

樂家の土小屋。茶碗にとって土は命です。ここに蓄えられた樂歴代の土。それを砕き茶碗にあった粗さにします。樂家では祖先から子孫に受け継がれるのは唯一土だけ。ゆえに土への思いは深いものがあります。
「土というものは人間が立っている一番下のラインです。ここに座っていれば、立っていれば、耕していれば大丈夫だという人間の原点が土。ここに座って先祖のことも感じますしね。自分ひとりで仕事しているのではなくて、先祖の恩恵を得て自分がこうして仕事をできているわけですから、ここに先祖の霊がいるかもしれない」
土は「手びねり」呼ばれる手だけで形作られる独自の技で茶碗の姿になります。まるで粘土細工。手の形がそのまま自然に茶碗になっていくのです。
形が生まれると、今度はヘラで削ります。
「削るっていうのは、自分の意識というものが確実に走るんだよね。それを作為というなら作為、表現と呼ぶなら表現。そういうものが如実に出てくる世界。手びねりが”自然”だとすれば自然と意識みたいなもの。その工程の二つの落差が非常に大きい。で、その中で一つの造形が出来上がる。」

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赤と黒。楽茶碗には大きく二つの茶碗があります。

黒茶碗の「大黒」。その名の通り黒の塊のような茶碗。長治郎の代表作です。

こちらは赤茶碗の「一文字」。茶碗を覗くと、見込みには一の文字が。利休の書き付けといわれています。

長治郎の茶碗は樂家の礎です。

樂家の歴史。それは450年に及びます。歴代はそれぞれの作風を追求してきました。

三台目道入は、長治郎の黒に光沢を加え、さらに白を浮かべました。

このモダンな茶碗の誕生に大きな影響を与えた人物がいます。江戸時代初期の文化人本阿弥光悦です。

楽家に残る光悦の手紙。

茶碗四つ分の白土と赤土を届けてください。

還暦を過ぎた光悦がのめり込んだのは茶碗でした。

赤樂茶碗「乙御前」。お多福顔を彷彿とさせる茶碗は長治郎の造形を覆しました。

割れてもかまわんとばかりに薄く薄く削られ、茶碗を支える高台も、めり込むように低い。

光悦のこの遊び心に道入は心底驚いたことでしょう。

「花のつぼみが開いてくる力みたいなものが、手の中から花が開いてくる優しさ。頭ではなく目をつむっていても触覚として感じている世界です。見えなくても」

光悦の茶碗は、その後の樂歴代の意識を変えます。それは自らと向き合う、何物にもとらわれない姿勢でした。

 様々な表情を見せる樂歴代の茶碗は「不連続の連続」と形容されてきました。

十五代吉左衛門。ゆがんだ形。激しい色彩。これまで見たこともない。約束事をひっくり返した茶碗。

「これすごいでしょ。いいかどうかわからないけど、これは木でぶったたいているんですよ。そのとき、土はぐにゃっと曲がっていて。破綻はあるんです。破綻はいっぱいある姿なんですが、でもその破綻という物は紙一重で、破綻がないものってつまらないんですよね。内からバッとつきつけて、突き抜けていくエネルギーってものかな。生きているっていうことはそういうことですから」

二十代半ばまで家業の茶碗作りに背を向け逃げていた吉左衞門。

この窯と対峙したのは27歳の時。茶碗について先代の父は一切息子に教えませんでした。吉左衞門の手は自分の茶碗を求め続けます。

手がかりをつかんだのは樂家を次いで七年後。初代長治郎の茶碗と向き合ったときのことでした。

長治郎の没後400年を記念に開かれた展覧会。一堂に会した茶碗を前に吉左衞門は言葉を失いました。

「長治郎がずらっと並んでいて、皆さんが帰られたら僕はいつも空っぽになった美術館を点検がてらにガードマンしてたんです。そうすると、数椀のある茶碗の前でピタッと足が止まるんです。見ているとどっと鳥肌が立つような感覚に襲われる。それはね、この茶碗が利休さんの死まで、死を背負っていると思ったんですね。たぶんそのとき」

静かなる茶碗の内なる激しさ。長治郎が極限まで引くことで激しい表現を獲得したのなら、その対極にある激しい色と形の茶碗をつくろう。徹底的に火にさらし、高い温度で焼き貫く。「焼貫茶碗」という独自の茶碗を吉左衞門は生み出します。

時には激しくゆがみ、時には激しく金や銀で彩りました。

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十五代吉左衞門の長男篤人(35)。11月中旬の黒茶碗を焼く窯に向け、釉薬を塗る釉掛けという作業に入っていました。

「この釉薬は加茂川石を砕いた物なのでどうしても重くて加茂川石は下にたまってしまうんですね。なので通常、父がしていたときは母がこれを回して。一人で窯を背負うとなると量もちらな多くなるので、どなたかが回して攪拌してくれるとすごくスムーズですね」

「息子は、いずれお嫁ちゃんが来てくれたら、お嫁ちゃんがかき混ぜてくれるのだろうと思います。それを楽しみに待っているんです」

釉掛けは茶碗の色や表情を左右する大事な工程です。独自に配合した様々な釉薬を数十回も重ねて行きます。十種類以上の釉薬を試そうという篤人。今回の窯は父ではなく自分で指揮するはじめての窯。

窯は真夜中0時過ぎに始まります。父・吉左衞門を先頭に窯に入り、無言の中窯に火が入れられます。内窯と呼ばれるこの小さな窯で一つずつ茶碗を焼く樂焼。鞴の風が窯をどんどん熱くして行きます。

思いを巡らし作り上げた茶碗。仕上げは火の神に託すしかありません。

四時間後。最初の茶碗。緊張が張り詰めます。

樂の窯は火との格闘です。炭を突き風を送り、窯は一気に熱くなります。

火の表情から茶碗を引き出すタイミングを見極めます。

樂家の窯は一人の作り手を中心に代々楽家とつきあいのある人が力を合わせ、連綿と続けられてきました。

思い描いた姿ではなかったようです。

めげている暇はありません。18時間の長丁場。二十以上の茶碗を焼き上げます。

窯の温度が上がり、茶碗の表情に変化が。

窯の終盤。父・吉左衞門の番です。黒茶碗よりさらに高い温度で焼く「焼貫茶碗」。

その激しい茶碗が最近変わり始めています。色が遠のき、形も静かなものに。

「巌石茶碗」です。

「ものを作るということは自分との対話です。自分と対話して自分の中を探っていくという感じ。67歳になったけど 、50歳の時に67歳の自分が見えますか。見えませんよね。常に老いもまた新しい発見だし、老いることは楽しいことだし、新しい自分がそこに見えてくるし・・・」

不連続の連続と形容される樂の茶碗。それは代が変わるたびに茶碗が生まれ変わること。変化を恐れず新たな発見をしていくこと。それこそが、利休と長治郎が茶碗に込めた志です。

*1:安土桃山時代の茶人。堺の人。万代屋宗二の子、千利休の女婿。姓は渡辺、名は新太朗、別号に竹渓・一咄斎。利休門下で傑出し、豊臣秀吉の茶頭・御伽衆を務めた。利休没後は孫の千宗旦の庇護に努めた