チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

これぞ暁斎! 世界が認めたその画力

日本人の名匠が鍛え上げた名鏡から強烈な光線が発せられます。光を浴びてのたうつのは洋服を着た悪魔外道たちです。この絵は明治の初めに描かれたもの。急速に西洋化する当時を風刺した作品です。

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「名鏡倭魂 新板」(1874年:明治7年) 

幕末から明治にかけて大変な人気を博しながら、戦後すっかり忘れ去られていた絵師がいます・河鍋暁斎(1831~1889)です。世界有数の質量をほこる暁斎コレクション、イスラエル・ゴールドマンコレクションの展覧会が2月22日からはじまります。

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師匠であった前村洞和が「画鬼」と賞した絵師・河鍋暁斎は幕末の下総国古河に生まれました。幼い頃から絵を好み、7歳で人気浮世絵師・歌川国芳に入門します。10歳の頃、駿河狩野派の絵師・前村洞和愛徳*1に入門先を変え研鑽を積みます。

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1957年暁斎は「朝顔図屏風」で知られる江戸琳派の絵師・鈴木其一の次女と結婚。絵師として独立します。 1868年幕府は瓦解。当時、武家社会に依存していた多くの狩野派の絵師たちが路頭に迷う中、暁斎は歌川派仕込みの反骨精神とアイデア力、あらゆるタッチで描き分ける確かな技術力で時代を生き延びます。

 

幕末から明治にかけての時代は、欧米ではジャポニズムの旋風が巻き起こった時代でした。開国間もない日本には多くの外国人が訪れ、中でも、美術に興味ある人の目に留まったのが人気作家となっていた暁斎でした。

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鹿鳴館三菱一号館の建築家としても知られるジョサイア・コンダーは、暁斎の弟子になり日本画を学びました。後に「暁英」の豪を受けたコンダーは、暁斎の絵日記に登場しています。 明治期の三大英字新聞のひとつ「ジャパン・ウィークリー・メール」の経営者兼主筆のフランシス・プリンクリーも暁斎から日本画を学びました。ドイツ人医師ベルツは暁斎を「日本最大の画家」と評しています。パリにあるギメ美術館の創設者として知られるエミール・ギメが東洋の宗教調査・宗教美術品収集のため来日した際、暁斎はギメと交流します。同行していた画家のフェリックス・レガメーはお互いの絵を写生し合いました。 伝統的な画題にひねりを加えては、楽しい会がを生み出す暁斎の才能は、歌川派の浮世絵が持つ庶民的な精神を狩野派的な確かな技法に支えられていました。

 

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「動物の曲芸」(1871–89:明治4–22年)

曲芸をする動物たちや、シルクハットをかぶり洋服を着た三味線を弾く骸骨など、漫画のキャラクターのような作品からは、暁斎の鋭い観察眼や時代感覚が感じられます。

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「三味線を弾く洋装の骸骨と、踊る妖怪」(1881-89:明治14-22年)

暁斎は伝統的な狩野派の技法も駆使して依頼者の期待に応えあらゆる手法とサービス精神で描き分けました。

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「鬼を蹴り上げる鍾馗」 (1871–89:明治4–22年)

正義の象徴でもあるはずの鍾馗が、鬼を力任せに蹴り飛ばす姿からは、暁斎の逆転の発想と最大の魅力でもある諧謔の精神をうかがい知ることができます。死の直前まで300点近くの注文が集まるほどだったと言われています。

 

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「枯木寒鴉図」(1881年:明治14年)

明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」に暁斎は破格の100円という売価をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えた(当時、東京の青山の土地が千坪で15円だった)

画鬼と呼ばれた天才絵師、河鍋暁斎の絵にぶったまげる - NAVER まとめ

売れっ子絵師として作品を作り続けた暁斎は実力も兼ね備えた作家でした。1881年に開催された第二回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」は妙技2等賞牌(日本画の最高賞)を受賞します。山岡鉄舟河竹黙阿弥尾上菊五郎など暁斎の人気は内外に響き渡りました。

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百鬼夜行図屏風」(1871-89:明治4-22年)

百鬼夜行絵巻」とは、妖怪たちが行列をする「百鬼夜行」(ひゃっきやぎょう、ひゃっきやこう)のさまを描いたとされる複数の絵巻物の総称である。室町時代から明治・大正年間頃まで数多く制作された。

仮名垣魯文が歌舞伎役者・守田勘弥へ幅17メートル、高さ4メートルの大きな引幕を贈呈したのですが、暁斎はこの引幕に人気役者を「百鬼夜行絵巻」の一場面としてわずか4時間で描き上げたのですが、やはりお酒を飲んでかなり酔っぱらった勢いで描いたと云います。 

徒然に文明開化の奇想絵師『河鍋 暁斎(きょうさい)』: 賢者の石ころ

 

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地獄太夫と一休」 (1871–89:明治4–22年)

室町時代泉州堺の伝説的遊女。堺高須町珠名長者の囲いものといわれる。山賊にかどわかされ、美貌ゆえに遊女として売り飛ばされる。現世の不幸は前世の戒行のつたなさゆえとして、来世での往生のために、自らを地獄と呼び、地獄変相図を描いた衣をまとい、自らに施すところなく、悟りの境地で仕事に励んだという。江戸時代に流布した一休伝説に登場する。

あらゆるものに興味を示した暁斎は自分の日常生活も几帳面な記録として残しました。

f:id:tanazashi:20170218112746j:plain1870年頃からつけ始めたといわれる「絵日記」です。その日の天気や来客の記録。描き上げた作品と作品が売れた金額。外出先などで出会った人やふと思いついて描いたデッサンなどを帳面に書き記しました。

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なかでも評判になったのが人物の似顔です。その人物の特徴を掴んでさっと描き上げた似顔は、どことなく現代の漫画キャラクターを想起させます。暁斎の元を訪ねた人は奪い合うように「絵日記」を買い求めたといわれています。

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暁斎は描かれた人の個性を瞬時に捉えた「似顔」で人を楽しませました。

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暁斎の描いた日記は数千日にのぼりますが、そのほとんどは散逸してしまいました。残された肖像写真と照らし合わせると暁斎の観察眼と高いデッサン力を知ることが出来ます。暁斎胃がんのため1889年に59歳で死去しますが。亡くなる間際まで絵日記をつけ続けました。f:id:tanazashi:20170218112817j:plain

 

最期を看取ったジョサイア・コンダーは、1911年自らの暁斎コレクションと、教えられた日本画の技法をまとめた「河鍋暁斎・本画と画稿」を出版します。この本格的な研究書は暁斎の業績を今に伝える貴重な資料となります。

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河鍋暁斎ー本画と画稿 (1984年)

河鍋暁斎ー本画と画稿 (1984年)

 

 明治から昭和にかけ暁斎は次第に忘れ去られていきます。暁斎が戯画や風姿がで人気を得たことや、風刺画を描いて投獄(1870年)されたこと、大酒飲みで芸術家にあるまじき素行であったことなどが原因で、卑俗な画家としてレッテルを貼られたのです。

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忘れ去られていた暁斎に光があたったのは、1993年大英博物館で開催された日本人初の回顧展「画鬼・河鍋暁斎の芸術」展の開催でした。江戸と明治の時代をつなぎ、日本と西洋、狩野派と浮世絵、芸術とメディアといったあらゆるものをつないだ暁斎の存在は、メディア・アーチストの先駆けともいえるものなのでしょう。

 

展覧会

 

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河鍋暁斎(1831─1889)は、時代が大きく揺れ動いた幕末から明治を生きた絵師です。幼い頃に浮世絵師の歌川国芳に入門したのち、狩野派に学び19歳の若さで修業を終え、さらに流派に捉われず様々な画法を習得しました。仏画から戯画まで幅広い画題を、ときに独特のユーモアを交えながら、圧倒的な画力によって描き上げた暁斎。本展は、世界屈指の暁斎コレクションとして知られるイスラエル・ゴールドマン氏所蔵の作品によって、多岐に渡る暁斎作品の全体像を示します。

ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力

2017/2/23(木)-4/16(日) Bunkamuraのザ・ミュージアム

www.bunkamura.co.jp

 

youtu.be 

 

www.bunkamura.co.jp

 

書籍など 

別太 河鍋暁斎 (別冊太陽)

別太 河鍋暁斎 (別冊太陽)

 
【狂斎百図】 河鍋暁斎 (妖怪画コレクション?)

【狂斎百図】 河鍋暁斎 (妖怪画コレクション?)

 
暁斎百鬼画談

暁斎百鬼画談

 
暁斎画談 外篇巻之上

暁斎画談 外篇巻之上

 
暁斎春画 -ゴールドマン・コレクション

暁斎春画 -ゴールドマン・コレクション

 

*1:(不明-1841)江戸に生まれ、本郷に住んでいた。名は愛徳。別号に一楽斎、洞和愛徳がある。幼いころから画を好んだが、家が貧しく画を学ぶ余裕はなかった。父親と引火奴を売り歩いて生活する毎日だったが、駿河台狩野家の前を通るたびに門人たちの学ぶ姿を見ていた。ある時、その様子を見た駿河台狩野家五代・狩野洞白愛信が洞和に筆を与えたところ、学んでもいないのに非凡な才能を発揮したという。その後入門を許され「洞和」の名を拝領、推挙されて江戸土佐藩の御用絵師となった。天保12年死去した