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仏像ミステリー 運慶とは何者か?

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今、国宝級の仏像が、最新の科学技術で次々に調査されている。目的は800年前の天才仏師・運慶の謎の解明。なぜリアルな仏像を造ったか?どんな人物だったか?謎に包まれているからだ。アンドロイド研究の第一人者・石黒浩さんは、“人間らしさ”を追求した運慶の技に独自のアプローチで迫る!女優・檀れいさんは、物体の内部を映すCTスキャン調査に密着。仏像体内に黄金の空間が広がっていた!全国から運慶の傑作が集合!

仏像ミステリー 運慶とは何者か?

放送:2017年10月7日

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運慶展に集結した仏像たち

運慶作といわれた仏像は全国で31体あります。

そのうちの22体が一同に会した展覧会が東京で開かれています。

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会場に凛と並び立つ二体の仏像。無著菩薩立像と世親菩薩立像。

800年前に作られました。

無著と世親は古代インドに実在した兄弟の僧侶です。

二人の姿を徹底してリアルにに彫り上げた革命的な仏像です。

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兄、無著の潤んだような瞳は慈しみ深さとも悲しみとも受け取れ。少しうつむいた表情からは経験を積んだ老人の思慮深い人柄まで伝わってきます。

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一方で、弟世親は胸を張り、若く肉付きの良い顔を上げています。

現実を鋭く見つめるような眼差しからは強い意志や理想に燃える思いまで伝わるようです。

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1300年の歴史を誇る興福寺。2つの仏像はここで守り伝えられてきました。

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北円堂。本来無著・世親像はこの中に安置されています。

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本尊は弥勒如来坐像。弥勒は遠い未来に地上に現れ、人々を救うとされる仏です。

その両脇に立つのが無著と世親です。

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ふたりは弥勒の教えを大成させた兄弟の僧侶です。

右に立つのが兄の無著。

雲慶は古代インドの僧を日本人のような姿にすることで、訪れた人が受け止めやすくしたのです。

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左に立つ弟の世親。

両手に動きをつけ、指を深く曲げ、確固たる意志で悟りを求めています。

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仏の教えを大切にする心。雲慶は2つの仏像の形を借りて語りかけてきます。

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雲慶が生まれたのは平安時代末期の奈良。興福寺を拠点とする仏師集団のあととりとして注文に応じて工房で仏像を制作していました。

雲慶が30代の頃、平氏と奈良の僧侶たちが衝突。平氏興福寺東大寺に火を着けて焼き尽くしたのです。いわゆる「南都焼討」です。

雲慶たち仏師は立ち直ろうと興福寺の復興に乗り出します。

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まず手掛けたのは本尊・釈迦如来像。

雲慶がリーダーとなって作ったと記録されています。

一部しか残っていない頭部は高さ一メートル。巨大な仏像だったことが推測されます。

それから30年近くかけて行われた興福寺の復興事業で、最後に作られたのが北円堂でした。

運慶研究最前線

復興の事業を任された雲慶はここで数々の仏像を作りました。

現存する運慶作の仏像は全国に31体とされています。

雲慶が作った仏像はほかにもあったのではないか。

研究者たちが関心を持ったのは

運慶の父・康慶(こうけい)の作と考えられていた四天王像でした。

作風などから、運慶の工房が、無著・世親像とともに北円堂に納めたのではないかとも推定されています。

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 雲慶はどのような技を使って仏像をつくったのでしょうか。

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特別展「運慶」に合わせ、東京国立博物館東博)は四天王像と無著・世親像の調査を行いました。

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文化財専用に開発された世界最大のCTスキャンで無著の内部を透視します。

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仏像の内部はどうなっているのでしょうか。

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まず確認できたのは仏像の内部がくり抜いたような空洞になっていることでした。

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平安時代の後期になると中をすごく薄くして軽くしますけど、中を空洞にするのは割れを防ぐとか火災のときに助け出すとかという理由があるのかもしれません」(東博・浅見龍介・企画課長)

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仏像の目の部分を玉眼と言います。

水晶の裏に瞳を描きはめ込む技法です。

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雲慶は瞳の色や形を巧みに使い分け仏像の様々な表情を生み出していました。

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雲慶は玉眼を裏から木で固定していることが調査の結果わかりました。

仏像の素材は桂の木。押さえ木の材質が違うことがわかります。

本体と玉眼の木を変えるケースはあまりありません。

「樹種は不明ですが年もしかしたら杉のような木で抑えているのかもしれません」

雲慶は玉眼に特別な思いを抱いていた可能性も出てきました。

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さらに無著は、いくつかの木をあわせた寄木造りであることも確認できました。

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調査にあたった東博の浅見龍介・企画課長は意外なことに気がつきました。

木の芯の部分が使われていたのです。芯の部分は固く割れやすい性質があります。

木の仏像は一般的に硬い芯のある部分を避けます。芯材の多用は異例です。

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「もしかすると興福寺さんに当時建築のための柱の材がたくさんあってそれを使うように言われたとかいうことも考えられます」

当時、興福寺は南都焼討からの復興事業のさなかで木材が大量に必要で、一本の木もムダにできなかった。雲慶は大切な木材を使って仏像づくりに挑んだのかもしれません。

人間らしさの秘密

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人間らしい運慶の仏像。その秘密を知ることができるのが金剛峯寺の八大童子立像です。

仏教の教えに人々を強く導く仏、不動明王に仕える子どもたちです。

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運慶はそれぞれに子どもらしさを出すための工夫をしていました。

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上の歯で舌唇を噛んでいる仏像。

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背丈が低くてお腹の部分がぷっくりした体型の仏像。

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当時の色がそのまま残っています。

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ふっくらした頬や太く下がった眉が幼さを感じさせます。

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性格も姿も粗暴とされているのが烏倶婆誐童子。

「秘要法品」には性格と姿は暴悪であると説かれ、最も忿怒の表情を露(あら)わに表現するよう指示されている童子です。童子像を見ると髪が逆立ち、裳裾(もすそ)と共に風にひるがえっています。

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少し忿怒の表情を示すのが恵光童子。他の童子に比べて目つきが鋭いように感じます。赤みがかった玉眼(ぎょくがん)の表現が他と異なっているためでしょう。

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不動明王は忿怒相を使って言うことを聞かない子どもを諭します。それと近い表情はおさえ気味に表現するのに効果的であるといえます。

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右手に持つのは密教の宝具。武器です。

f:id:tanazashi:20171009173954p:plain左手に月輪(がちりん)といって月を象徴するものです。武器は迷いの心を打ち砕く。月は澄み切った悟りを暗示しているようです。

こうした生き生きとした仏像を運慶はなぜ作ったのでしょうか

 

デビュー作に刻まれた人物像

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1200年前に建立された奈良の円成寺

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1176年平安時代末期に作られた大日如来座像。

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大日如来は最も位の高い仏の一つで絶対的な存在として崇められています。

この仏像は南都焼討の4年前、まだ若い運慶がはじめて作ったと言われています。

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背筋が修行したそうのようにすっくと伸びています。

運慶の大日如来は従来の様式にとらわれていません。

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これが運慶の大日如来の足です。

まるで若者の体のようにみずみずしくリアルに表現していました。

運慶はこの仏像を11ヶ月の長い月日をかけ一人で作ったと言われています。

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台座の裏に運慶の人間性が垣間見られる手がかりが残されていました。

直筆の署名です。

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仏師が仏像に自らの名前を残すのはそれまで例のないことでした。

平安時代末期仏像を新たに発注するのは京都の裕福な貴族ばかり。

仏像づくりは京都の仏師たちがほぼ独占していました。

興福寺を拠点とする運慶たちは仏像の修理が主な仕事になっていたといいます。

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阿修羅像に代表される奈良時代の何処か人間らしさを感じる仏像。

それらを日々眺め技を研究しながら運慶はいつか世に打って出る日を待ち続けていました。

そんなとき、父のもとに来た依頼が円成寺大日如来

本来集団で作るはずの仏像を運慶はほかの仏師を寄せ付けず、一人で作り上げたのです。

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「自意識つよいでしょうね。親のところに来た仕事に自分の名前書いているわけですから。俺は親よりすごいんだと言わんばかりですよね。芸術家なんです。アーチストです。独立したアーチストになりたかった。自分が表現したいものが非常に明確にあった人ではないですか」

日本で初めて仏像に自分の署名を残した運慶。

自己顕示欲が強い芸術家肌の一面が見えてきました。

しかし10年後運慶は変わります。

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静岡県伊豆半島にある願成就院鎌倉幕府を開いた源頼朝の義理の父が建立した寺です。

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5体の仏像はすべて運慶作の国宝です。

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本尊。阿弥陀如来坐像。

極楽浄土へと人を導く仏です。

はちきれんばかりの肉体。丸く張った頬。運慶は重量感溢れる印象を作り出しました。

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向かって右側に立つのは阿弥陀如来を守る毘沙門天立像。

堂々とした肉体。精巧な鎧。前身に力がみなぎっています。

手荷物細長い某は戟とよばれる武器。

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照り平に乗せているのは宝塔。釈迦の遺骨を収めるものです。

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「人間らしいものを作りたかったのか。人間の躍動感というものをどう表現するか挑戦している気がします」

 

 

阿弥陀如来を挟んで反対側立つのは不動明王と二童子立像。

不動明王は怒りの義様相で向かってくる悪や仏教の教を信じない者を威嚇します。

 

手にけん索と呼ばれる道具を持ち。それを掲げることで上半身のたくましさを強調しています。

 

二体の童子のうち、躍動感ある動きを表すのが制吒迦童子。

 

強情そうな顔つきをしています。

 

それに対し、静かに遠くを見つめ佇むのが矜羯羅(こんがら)童子。

 

運慶はどの仏像にも人間らしさを全面に出し、静と動を使い分けながら、それぞれの魅力を生き生きと描きました。

 

運慶は玉眼の達人と言われます。

ひとつとして同じ目を作りませんでした。

目の色はもちろん、まぶたの開き方や大きさなどを巧みに使い分け、全く異なる表情を生み出しています。

なぜこれほどまでに個性豊かで人間味を感じさせる仏像を作ったのでしょうか。

 

本郷和人さんは、運慶の仏像の変化には新たな担い手の登場が深く関わっていると考えています。