日曜美術館「メキシコ 謎の“大洪水図屏風(びょうぶ)”」②
②どこで誰が描いたのか?
大洪水図屏風はどこで描かれたものなのか。
日本で作られた可能性はあるのでしょうか。
手がかりは蝶番。
紙ではなく布が使われていました。
「日本の楮という材料が入手しにくかったのではないか。丈夫でしなやかな紙ではなくて、布を代用したのではないかと想像しています」
大洪水図屏風が作られたのは日本ではないと推測できるといいます。
作られたのは丈夫な和紙が手に入りにくい外国なのでしょうか。
大洪水図屏風を所蔵するメキシコのソウマヤ美術館。
屏風を入手して依頼絵の分析を続けてきました。
そして屏風が描かれた場所として、一つの候補地を推測しています。
それはマカオです。
「絵には東洋の伝統である鳳凰が描かれています。このことから屏風は一つの伝統だけでなく、異なる文化が交じり合う場所で作られたと推測できます。そこでマカオが候補となるのです」
1997年に香港とともに中国に返還されるまで、ポルトガルによって統治されてきたマカオは、他のアジア諸国とは一風違った独自の文化を歩んできました。
マカオは大航海時代、東アジアと西洋とをつなぐ貿易の中継地として栄えました。
フランシスコ・ザビエルらによるキリスト教布教の拠点でもありました。町にはポルトガル、中国、日本など様々な国の人々のすがたがありました。
当時日本の海外貿易の窓口だった長崎。
ここにマカオの文化の特徴を示す美術品が残されています。
南蛮傘です。
マカオで作られたのではないかと考えられています。
漆の上に金を使って様々な絵が描かれています。
この絵はカニと十字架。フランシスコ・ザビエルが布教の途中でなくした十字架をカニが拾ってくれたというキリスト教の伝承です。
マカオでは西洋と東洋が同居する作品が作られていた。
そのことを南蛮傘は示しています。
(当時の歴史的背景を説明した後、ここから番組は「大洪水図屏風」の制作者の素顔について背景取材をもとにした推論を行います。①キリスト教の禁令でキリスト教徒の絵師たちがマカオに追放されたこと。②迫害されたキリスト教徒は受難の救いを罰と救いをテーマとしたノアの物語に託したこと。マカオに生まれ育ったキリスト教徒の子孫たちは絵の技術を屏風絵の形で伝承した。というストーリーです)
もし、大洪水図屏風がマカオで描かれたとすれば作者はどんな人なのでしょうか。
この資料館に大切に保管されているものがあります。
およそ⑳年前、マカオから300年ぶりに戻ってきました。
ま香り境界で保管されていた日本人キリシタンの遺骨です。
遺骨はキリシタンの苦難の歴史を物語っています。
16世紀半ば、フランシスコ・ザビウルが来日。
日本にキリスト教を伝えました。
当初は容認されてたキリスト教。
しかし半世紀も経たないうちに豊臣秀吉がバテレン追放令を発します。
二十六聖人殉教など、迫害が始まりました。
追放先の一つがマカオでした。
海外にいる日本人の帰国が禁じられました。
ここに17世紀のマカオにいた日本人キリシタンの名簿が残されています。
そこには絵師の名前がありました。
「名簿の中にはヤコブという人の名前が出ています」
「彼は丹羽ヤコブ。ピンタと書いてある。これはポルトガル語ですが、絵を描く仕事を持っていた」
ヤコブ丹羽はどのような絵師だったのでしょうか。
当時、長崎などにはキリスト教の神学校”セミナリオ”などがありました。
ヤコブ丹羽や日本の若者たちは長崎地方のセミナリオでキリスト教の教義とともに西洋の絵画を学びました。
日本の若者にとってはじめての異国の文化との出会いでした。
これは18歳の丹羽が描いたとされる油絵です。
キリストの服の袖には西洋の陰影法が用いられています。
丹羽は学んだばかりの技法を巧みに習得していました。
絵を学ぶ子どもたちについて、宣教師はローマにこう報告しています。
「私たちが驚くほどの上達ぶりです。神父や修道士たちも、どちらがローマから持ってきた絵でどちらが日本人の作品化見分けがつかない程です」
先駆者。新しい時代の新しい技術を自分で作っているのだという、おそらく誇り。喜びを持って描いていたのではないかと思います」デ・ルカ・レンゾ神父
西洋から伝えられたキリスト教。その神を信じ、初めて知った西洋画に熱中した若者たち。しかし、やがて出された禁教令によって運命は一転しました。
迫害の時代、キリシタンたちはどのようにして信仰を守ったのか。
長崎市に住む松川隆治さん。
松川さんの先祖は代々ここで神に祈りを捧げてきました。
信者たちが信仰の支えとしてきた予言があるといいます。
長崎で殉教したバスチャンという宣教師が残した言葉です。
「キリシタンの歌をどこでも歌って歩ける時代が来る。キリシタンの時代が来るから我慢して待っておけという予言」松川隆治さん
大洪水図屏風に描かれたノアの箱船の物語。
大洪水を生き抜いたノアが新しい世界で神の祝福を受ける物語です。
レンゾさんはこの物語が当時のキリシタンたちの心の拠り所だったと考えています。
「当時の日本人にとっては聞いたことがない話でもあるし、かなり魅力的だったようですね。私たちが救われる方法があるんだということ。方舟のように、ノアの時代と同じように救いはきっとあるんだと」
最近の調査で次第にその謎が解き明かされつつある大洪水図屏風。
描かれた時期は17世紀後半と推測されています。
日本人キリシタンがマカオに追放されてから半世紀以上後のことです。
この絵を描いたのは一体どのような人なのか。それは今も謎に包まれています。
「1614年に日本で西洋絵画の訓練を受けたキリシタンの画家たちが追放された場所がマカオに当たるんですが、たとえばその人達の二代目とか三代目の人たちがこういったものを作ったのではないかなと想像しているのです。その頃の人達は、もしかしたら日本語を話してなかったのかもしれないのですが、日本の屏風の作り方。技術を受け継いでいた人たちがいたのではないかなと思っています」
「私は今殉教したペトロ岐部*1という人の話を調べて描いているのですが、彼もマカオに行っているのです。最初はここで司祭になって、できることなら日本に帰って宣教しようという青雲の志を描いていました。しかし実際に行ってみるとなかなか幸せになれず琺瑯の旅を続けることに成るのですが、その時に脱出した絵師たちも向こうに行けば幸せになれると思ったもののそうではなかった。なかなかそううまく行かないわけです。狭い場所に一斉に逃げてくるわけですから軋轢もありますし、苦労の多い生活だったと描いてあるものもあります」三浦
「この大洪水図屏風は、その人達が描いたとは考えられません。50年経ってますから、曾おじいちゃんの代に来た人が、ずっと受け継がれたノアの箱舟の話を何代にも渡って聞いたと思うのです。それを屏風にしたところがすごいと思います。とにかく生き抜いて、どんな苦労にも負けず、どっこい生きてるぜみたいな、そういう根性、パワーをもったからこそ、私がのけぞるような屏風が描けたのではないかと思ってます」 三浦
「ノアは安住の地を見つけた後に虹を見ますけど、まさに大洪水図屏風で夢の世界を今得るんだ、得て見せるぞという希望の象徴ではなかったのかと思います」三浦
「外国で作られた日本の屏風は実はあまり知られていません。制作からどういう修理を歴て現代に伝わっているのか整理しながら、どういった絵の具や材料が使われているかという緒から、人物や時代を考える大きなヒントになると思います」鷲頭