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幻のコレクション 100年前 夢の美術館 後編

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幻のコレクション 100年前 夢の美術館

放送:2017年11月23日

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松方幸次郎*1

www.nhk.or.jp

コレクター松方の軌跡

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ヨーロッパ各地で絵を買うようになった松方幸次郎だが、時に失敗することもありました。この作品は額装の裏面に内容証明にあたる証紙が貼られています。

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ドイツで購入したこの作品。額の裏にはレンブラントの文字が見えます。

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美術史を学んだことがある人が見ると贋作であることがわかります。

f:id:tanazashi:20171203201724p:plain松方幸次郎は偽物を掴まされないように指南役を求めました。

f:id:tanazashi:20171203201728p:plainブラングィンが教えてくれたのがロダン美術館のレオンス・ベネディットだった。

f:id:tanazashi:20171203201733p:plainベネディットの紹介で松方はパリの画廊とつながりを持ちます。国立西洋美術館館長の馬渕さんは画廊の所在地を確認して回りました。

f:id:tanazashi:20171203201738p:plainこの画廊で松方はルノワールの初期の傑作「アルジェリア風のパリの女たち」を購入。

f:id:tanazashi:20171203201741p:plainこの画廊で手に入れたのは、

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ゴッホの「アルルの寝室」でした。

更に最近の研究で松方幸次郎がロダンのアトリエ跡も訪ねたことがわかっています。

パリに行ったとき、ロダンは既に亡くなっていましたが、アトリエはそのまま残されていました。

ここでロダンは石膏の彫刻を作っていました。

40歳の頃からなくなる頃まで37年掛けて作り続けた大作「地獄の門

地獄に落ちる人々の苦悩が表されています。

松方が見たときにはこのような石膏の形でしか存在していませんでした。

ロダンが作るような彫刻は石膏をもとに職人がブロンズを鋳造して初めて完成します。

パリの郊外にはロダンの時代から続く工房が今も残っています。

鋳造には莫大な費用がかかります。

ロダン地獄の門を鋳造する費用を出そうと決めました。

現在の金額にして3億5千万円。

2体鋳造し、1つはロダン美術館にもう1つは国立西洋美術館に展示されたのです。

 

夢を支えていた思い

神戸は松方幸次郎が日本で拠点にした街です。

第一次世界大戦後は神戸とヨーロッパを往復し、美術品を集めていました。

初代社長を勤めていた川崎重工業が今も操業を続けている。

神戸の街は1902年に松方幸次郎が船のドッグを作ったことから大きく発展しました。

1920年代の神戸の人口はおよそ65万人。

その三分の一が松方幸次郎の造船所と関連する企業の関係者だったと言います。

松方幸次郎は神戸新聞社の創設者でもありました。

報道局長を勤めた林芳樹さん。1980年台に3人で取材班を組み、ルポにまとめました。

林さんが松方幸次郎を取材しようとしたきっかけは、一人の新聞記者が反社会的だと警察に逮捕されたときの松方幸次郎の毅然とした態度でした。

「一人の新聞記者が地元の警察に検挙された。その時松方は怒って行っているのです。松方は『ジャーナリズムの弾圧は文化の破壊だ。やめてくれ』と警察に抗議しているのです。大正時代に言えるセリフではなく、価値観を持っていないと言えないセリフです。根っこのところできちんとしている」

松方幸次郎はヨーロッパから帰国後、当時としては画期的な働き方改革に取り組みます。

8時間労働制の導入です。

労働者を大切にし産業の基盤を整えることが欧米と肩を並べることにつながると考えたのです。

「当時イギリスが世界のトップシェアをもっていた。現場に行ったときに感じてのは、技術の次にソフトがある。そのことを理解する文化の土壌があってこそで、厚みも含まないと日本は太刀打ちできない感じていた」

この時代、造船は世界でも最先端のハイテク産業でした。

松方幸次郎は日本で初めての潜水艦・飛行機の製造に乗り出す一方、社員の教育に一段と力を注ぎました。

奨学金を出して学校に通わせ、幹部を次々と欧米に送り出します。

日本人の文化の底上げをはからねばならない。その思いの結晶こそが共楽美術館の建設だったのです。

松方の挫折

しかし、松方の夢を打ち砕いた暗雲。

1923年、9月1日に関東大震災が発生。政府は復興の財源を確保するため、輸入する贅沢品に100%の関税をかける決定をしました。

松方幸次郎がヨーロッパから持ち込む美術品も関税の対象となりました。

松方幸次郎はやむなく、コレクションをイギリスとフランスに留めおくことにしました。

そこに未曾有の金融恐慌が襲います。多くの企業で労働者の首切りが相次ぎました。

松方の会社も窮地に追い込まれて行きます。

そして1927年、松方幸次郎は会社を残すために労働者の五分の一。3,000人を解雇し、自ら責任をとって社長を辞任。

会社を残すことと引き換えに松方幸次郎は財産を差し押さえられました。絵画や彫刻は競売にかけられ散り散りに。61歳だった松方は家を失い、知人宅を転々とするようになりました。

署名を求められると松方は財界ルンペンと書き、誇りをユーモアに包み込んで生きようとしたのです。

流転する松方コレクション

2,000点の松方幸次郎コレクションのうち1300点は人手に渡りました。

イギリスに保管されていた作品は倉庫の火事で焼け、残ったのはフランスに置いた絵画・彫刻400点でした。

破産する前から松方幸次郎はフランスの美術品の管理を一人の男に託していました。

かつての部下、日置釭三郎(こうざぶろう)に託していました。

元海軍パイロットで誠実な人柄を見込んだのです。

日置釭三郎は松方幸次郎が購入した作品をリストに整理しました。

ロダン美術館で見つかったあのパリ・リストです。

しかし、1940年に第二次世界大戦が勃発。パリにナチス・ドイツ軍が迫り、パリ中の美術館が作品を地方へと避難しはじめます。

日置も託されたコレクションを隠すことにします。たったひとりで運んだ先はアボンダン村。美術品を木箱に詰め家の納屋に隠していたと言われています。

日置に可愛がってもらった村人がいます。

日置は家政婦さんと呼ばれた女性と暮らしていました。

日置の家は道路に面した側に窓がなく、絵画の存在を知られないようにひっそりと暮らしていました。

暗い室内に日置は10枚だけ絵画を飾っていたといいます。お気に入りは赤い服を着たドアボーイ。

貧しかった画家スーチンがパリで黙々と働く労働者を描いた作品です。

松方は破産する直前に買った松方幸次郎コレクション最後の絵画です。

日置は終戦までの20年間、松方幸次郎の信頼を裏切らず、コレクションを守り抜きました。

しかし日本の敗戦により、コレクションは敵国の財産としてフランス政府に接収されます。

松方幸次郎コレクションが日本に戻ってきたのは14年後の1959年。

開館した国立西洋美術館には連日の行列。

松方が望んだ美術館は人々に熱い思いで迎えられたのです。

ができていた。

フランスから届いた絵画の中にはひどく傷んだものもありました。

ビーナスの誕生。作者は19世紀の巨匠。ギュスターブ・モローと考えられますが断定できない状態です。

激動の時代に作品を守ることの過酷さを物語っています。

エピローグ

日本に戻らなかった作品もありました。

ゴッホのアルルの寝室。

日置の愛したドアボーイもありました。

アルジェリア風のパリの女たちはフランス政府との交渉の末、日本にもたらされました。今も世界中の美術館から貸し出してほしいという人気ぶりです。

松方幸次郎は美術館開館の9年前、84歳でその生涯を終えました。

日本人にゴッホやモネ、ルノアールを見せたい。その夢の美術館を見ることはできませんでした。

 

今年10月、国立西洋美術館に松方幸次郎の子孫から連絡が入りました。

松方清彦さん。松方家に一点だけ残る絵を寄贈したいというのです。

ブラングィンによる松方幸次郎の肖像画

1916年。二人が出会った年に描かれたものです。

「コレクションは日本のため。日本人のためだ」と言い続けた幸次郎。

孫の松方清彦さんは松方幸次郎の思いを受け継ぐことにしたのです。

松方幸次郎がはじめて絵を買って100年。彼が夢見た文化の厚みは日本にあるのか。

幻のコレクションは時を越えて語り続けています。

 

フランス政府の条件

1951年のサンフランシスコ講和条約により松方コレクションは、正式にフランスの国有財産になりました。日本政府は「所有権は日本人」のものであることなどを理由に変換要求を申し入れました。1959年フランス政府はコレクションの返還に応じましたが、条件を三つ付けていました。

1)これらの美術品を収蔵し、展示公開する組織として、国立の美術館を新たに作ること。

2)サンフランシスコ講和条約に基づく敵国財産として、フランスの国有財産となったものなので、「返還」ではなくて、フランス政府から日本国民への「寄贈」であることを明確にすること。

3)ゴッホ、ゴーキャン、セザンヌクールベ、マネ、ロートレックピカソ等の作品17点は、どうしても国外流出は避けたい作品なので、「寄贈」対象から除外すること。

ゴッホのアルルの寝室。日置の愛したドアボーイは日本にもたらされませんでした。

「日本側は松方幸次郎が所有していた美術品の『返還』と認識していましたが、フランス側は『寄贈』であるという考えを変えることはありませんでした。ですから、一般には『寄贈返還』という言葉を使うのです。」 西洋美術館館長 公式カタログより

松方コレクション情報

www.art-annual.jp

*1:慶応元年(1865年)12月1日、松方正義の三男として鹿児島に生まれた。 明治14年1881年東京大学予備門(現東京大学)を中退、明治17年から22年までアメリカのラトガーズ大学、エール大学、フランスのパリ大学などに留学した。 明治24年5月、父正義が第一次松方内閣を組閣した際首相秘書官に任官、明治25年8月に正義が首相を辞任して以後、日本火災保険副社長、灘商業銀行監査役、高野鉄道取締役などを歴任し、明治29年10月、川崎造船所初代社長に就任した。以来32年間にわたってその座にあり、当社をわが国有数の重工業会社に育て上げた。