チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「山口蓬春 絵に年をとらせるな」

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日曜美術館「山口蓬春 絵に年をとらせるな」

「蓬春モダニズム」と呼ばれる洗練された日本画で戦後画壇のスターとなった山口蓬春。近年人と作品の調査が進み、常に新しい表現を模索し続けた生き方が注目されている。

昭和を代表する日本画家・山口蓬春。近年、葉山にある記念館で日記や手紙などの整理が進み、人と作品に新しい光が当たろうとしている。注目されるのは「絵に年をとらせるな」という言葉。蓬春は常に新しい表現を模索し続けた。大和絵で華やかなデビューを飾るが、戦争中藤田嗣治とともに新しい表現を模索する。戦後、「蓬春モダニズム」と呼ばれる絵で画壇のスターとなるが、それにも飽き足らず事物の本質を描こうと変わっていく…

【出演】山口蓬春記念館学芸員…岡田修子,画家…千住博,【司会】井浦新,高橋美鈴

放送日

2017年2月4日 

内容など

逢春が画壇にデビューしたのは1926年。ヨーロッパから印象派などの新しい絵画が次々と入ってきた時代でした。

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33歳の若き逢春が描いた「三熊野の那智の御山」。
この作品は帝展に出品されるや、特選と同時に帝国美術院賞を受賞。
逢春は画壇に鮮烈なデビューを飾りました。

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滝をご神体とする熊野那智大社を中心に熊野の霊場を描いています。
中央の那智大社は繊細な線で丁寧に描かれています。
大和絵の伝統的な技法です。

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その一方、背景には深い奥行きが感じられます。
洋画の遠近法を巧みに取り入れているのです。
この作品が画壇に与えた衝撃はどれほどのものだったのか。

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長年逢春を研究する神奈川県立美術館館長の水沢勉さんです。
「本物を見ると驚くんですがね一番画面の下のところの飛沫の白さのところが、

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普通の日本画でこの白さでこの明るさはないかなと。むしろヨーロッパの絵画などが持っている白が放つ光みたいなものと似ているようなのが、この絵の大きな魅力なのではないかと思います。ただ逢春という人は、自分の代表的な絵を描く時に、それに負けないような光の効果を作り出したいという野心を持っていた絵描きさんじゃないかなと思います」
 

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逢春は日本画と洋画、両方の技法を学んだ画家でした。
1893年。北海道松前町に生まれた逢春。
父は日本銀行の行員でした。

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幼い頃から絵が好きだった逢春は、21歳で念願の東京美術学校西洋画科に入学します。

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逢春が学生時代に描いた油絵。
色使い、筆の荒々しいタッチなど、ゴーギャンなどの後期印象派に強く傾倒していたことがわかります。
ところが、一人の人物との出会いで逢春の画家人生は大きく代わることになります。

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日本画家・松岡映丘です。
逢春は三年生のときに日本画科に転科し、松岡に学ぶようになりました。

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卒業後も松岡が顧問を務める「新興大和絵会」に参加。画壇にデビューするのです。

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華やかなデビューを飾った翌年の作品です。
二年連続で帝展特選を受賞しました。

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季節は初夏。
木々の緑が鮮やかです。

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平安時代の貴族が使った網代車。雅な色彩が印象的です。
逢春はこの作品でも西洋画の技法を取り入れ、
木々に差し込む自然の光を巧みに描いています。
池の水面にも光は降り注ぎます。

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逢春は金泥を用いてその輝きを表現してみせました。
大和絵に近代的な感覚を取り入れることは「新興大和絵会」が目指すものの一つでした。
逢春は三十代の若さで会の中心的な存在となっていきました。

 

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昭和の初めは日本が侵略戦争への傾斜を強めた時代。
満州事変で加速した大陸への侵攻。
時代の中、逢春の人生は大きく変わることになりました。

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きっかけは帝展改組。
美術界を揺るがせた大きな事件でした。
時の文部大臣松田源治が突如美術界の組織をガラリと変えようとしたのです。
当時、美術界の中心にあったのは国が組織する帝国美術院。
逢春の師・松岡映丘も帝展の審査員でした。
いっぽう在野では横山大観率いる日本美術院や、川端龍子が率いる青龍社などが独自の活動をしていました。
松田文部大臣は帝国美術院の力を強め、すべての組織をひとつにまとめようとしたのです。

昭和十年以後、帝国美術院改革のことが問題となり、まず、十年は帝国美術院規程を廃して新たに帝国美術院官制を制定し、会員定数を三〇人から五〇人に増員し、在野美術団体の代表をあげて美術家の全員一致の体制を実現しようとした。松田文相によるいわゆる松田改組である。この新帝展の制度は美術家の間に不満を呼び、十一年、平生文相は再改組を試みたが、さらに紛糾は続いた。そうした中で、政府は、美術だけでなく文芸・音楽その他の分野の芸術についてもその発達に寄与する機関を設けることの必要を痛感し、十二年六月、新たに帝国芸術院官制を定め、芸術に関する重要な事項を審議し、その発達に必要な事業を行ない、文部大臣に建議することのできる機関として、帝国芸術院を設立することとなった。

一 芸術文化の行政:文部科学省

その狙いは何なのか。

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帝展改組について研究する野地耕一郎さんです。
「政府による美術団体の統制といえると思います。つまり政治による挙国一致体制を作ろうという、そういう考えでおこったのがこの帝展改組事件なんです」

この時、新興大和絵会の看板画家だった逢春は帝国美術院の参与という高い地位につくことを要請されます。
ところがこの改組には賛否の声が巻き起こり、画壇は大きく揺らぎます。
大観たちは合流するものの、川端龍子は反対。
松岡も反発して新たに在野の団体「国画院」をつくるのです。
「師匠の松岡映丘は様々な団体が入ることでごちゃごちゃになってしまう。純粋性がなくなると感ずるわけです。それで国画会という門下生たちを集めた団体をつくってそこで大和絵の振興をさらに進めていくわけです」

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逢春は悩みます。帝展に参加するのか。それとも師の松岡に従うのか・・・
この時下した決断は大きな反響を呼びました。

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逢春は帝展の参与を辞退すると同時に、松岡の国画院からも脱退します。
どのような団体にも属さず、一人で絵を描いていくことを決断したのです。
逢春はどのような気持ちで決断を下したのか。

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山口蓬春記念館で日記の整理が進んでいます。
そこに決断を下した日の記述がありました。

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12月28日小雪。参与を辞し、国画院等の浮世の義理を捨て申し候
温かき夜にて眠り難くおぼえ申し候

師と決別した逢春の絵は変わり始めます。

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帝展参与を辞退してから5年後。1940年の作品です。
絵の舞台は当時植民地だった台湾です。

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中国服に身を包んだ女性。
生まれてくる子どものためにか、編み物をしています。
日本画の伝統的な画題を離れ、現実の風景を描くようになっていました。
このころの逢春の言葉です。

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(王朝時代の)大和絵は、その時代の感覚なり、趣味なりを通じての写実であったし、

ある思潮の中心に触れていたと思う。
しかし、(今の大和絵で王朝時代)そのままの形式を今日の感情なり思想なりを
一致させることは困難だと思う。

大和絵に描かれた王朝時代の歴史的な題材も当時は同じ時代を写し取ったもの。
したがって今の時代であれば、今を映す絵でなければならないというのです。

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「非常にモダンですよね。伝統的な絵画という風には見えない。非常に整理されたムダのない画面ができていて、当然新興大和絵などの渦中にあるときは牛車ひとつとっても精密に正確に描くということに情熱を注いでいたと思うのだけど、もうちよっとおおらかになっているように思いますね」

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1940年。太平洋戦争が開戦。戦争とともに画家たちの立場も大きく変わっていました。軍部の要請で戦地に派遣され、戦争画を描くことを求められたのです。

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描かれた戦争画は日本各地をて巡回する美術展で展示され、多くの人の目に触れることになりました。当時著名な画家ほとんどが戦争画を描きました。
その絵は戦意高揚のためのプロパガンダなのか。そうではないのか。
今日まで評価は定まっていません。

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逢春は太平洋戦争開戦直後にセンチに派遣され戦争画を残しています。

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イギリスが支配していた香港を日本軍が攻略した時の様子を描いています。
香港島の夜の街。爆撃を受けて燃え上がる炎と、幾筋もの黒煙。
群青の深い青が画面を覆っています。
どのような気持ちで戦争画を描いたのか。
逢春はなにも書き残していません。
この絵で何を表現しようとしたのでしょうか。

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近年、山口蓬春記念館で一枚のハガキが発見されました。
洋画家・藤田嗣治からのものでした。
当時の藤田は戦争画を描く画家たちのリーダーでした。f:id:tanazashi:20180211211033p:plain
藤田と逢春の二人は中国広東省の広州や台湾など同じ場所に従軍し、
絵を描いたことが分かっています。
藤田からこんな手紙も届いています。

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「戦争展の道場は一番怖いものじゃ」

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「大家なんて祭られちゃもう駄目だ」
「一ツそのうちお手並み拝見」
「藤田という人は日本画家の山口蓬春を意識していた。戦争記録画を描く画家同士の競争心・ライバル心のようなものを藤田は大変強く持っていたことが手紙から生々しく伝わると思います」

逢春とともに切磋琢磨した藤田。
彼の戦争画は長い間タブーとされてきました。

※注:昭和二十一年六月に、日本美術会が日本民主主義文化連盟に提出した「美術界に於て戦争責任を負うべき者のリスト」に二人の文化官僚、二人の軍人、二人の軍人、とともに、八人の美術家が「自粛を求める者」として〝罪状〟つきでリストアップされています。
その美術家とは、横山大観、児玉希望、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、長谷川春子中村直人川端龍子です。

藤田嗣治は「創作活動に於て最も活発に積極的に軍に協力した。又文筆に於ても軍国主義的言論をもって活躍した。その画壇的社会的名声は軍国主義的運動の大きな力となり、国民一般に与えて影響は極めて大である」という〝罪状〟で糾弾されました。戦争画リターンズ

 


最近日本やフランスで研究が進んでいます。

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「ソロモン海域における米兵の末路」

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この絵をデュケン教授は19世紀の巨匠・ドラクロアの作品と比較します。

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「ドン・ジュアンの難船」
この絵はバイロンの詩を下敷きにしています。
船が難破し、上に苛まれた人々は、誰を殺して食べるかをくじを引いて選びます。
ドラクロアの絵は、船に乗る人にやがて訪れるであろう悲劇すら予感させます。

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「構図がよく似ているだけではありません。2つの作品にある劇的な緊張感がとても良く似ているのです」

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藤田の絵には左上に獰猛なサメの姿が描かれています。
漂流する疲れ果てたアメリカ兵。
見るものにこのあと訪れるであろう悲劇を重く感じさせます。
藤田はヨーロッパの巨匠ドラクロアとおなじように、目に見える出来事だけでなく、その奥にある深い物語や人間の本質まで描こうとしています。
「藤田はその戦争画の描き方からして、日本的な画家とはいえないでしょう。むしろヨーロッパの戦争画の偉大な後継者だったのです」

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そして逢春の戦争画
藤田がヨーロッパの伝統的な戦争画を描こうとした一方で
逢春が目指したものは何だったのでしょうか。
この絵には、戦争を描いたものでありながら叙情性すら感じさせます。
「日本の古典的な絵画というか、絵巻などに描かれているような、

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伴大納言絵巻などに描がかれているような、語弊がありますが、美しい戦乱の姿を、近代画としてこの絵の中に描くことができないかと、挑戦してみたというのがこの香港島最後の攻撃図なのではないかと思っています」

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伴大納言絵巻とは平安時代前期に起こった応天門の変を題材にした歴史画です。
逢春は日本の伝統的な歴史画を目指していたのではないか。
水沢さんは考えています。
「彼にとってこれだけの規模の夜景の戦闘シーンを描くことはこのモチーフ以外にはあり得なかったと思います。彼の戦前の総決算の作品で代表作であるというべき完成度をもった作品だと思います」

 

 

f:id:tanazashi:20180211200022p:plain1945年終戦

戦後の開放感の中、逢春は新たな画風で人々を驚かせます。
横長の画面いっぱいに広がった日本の自然。

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山の緑、湖の青、雲の白。
空に浮かぶ雲や森の木々には従来の日本画のような輪郭線がありません。

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色と形だけで単純化された表現です。
新しい逢春の始まりを告げる明快な作品です。
新しい絵のアイデアはいつ生まれたのか。

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残された日記にヒントがありました。
1941年9月1日。戦争中の日記にある画家の名前が登場します。

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19世紀末に活躍したホドラーです。

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逢春が持っていた画集です。
戦争中もホドラーの画集を大切にしていました。

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ホドラーはスイス生まれの画家。
描いた山や湖は日常から離れた精神性の高い風景と評価されています。
ホドラーの作品から得た発想を逢春は戦争中ずっと温め続けていたのです。
この作品を描いたときに残した逢春の言葉です。

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「かねてから明朗で潤然とひらけた、そしてまた総体的に近代的な色調を持つ自然界の一部を表現したいと考えていた」

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逢春は次々と斬新な日本画を発表します。

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朝顔に縁取られた画面。
貝殻や麦わら帽子が明るい色調で描かれています。f:id:tanazashi:20180211201037p:plain
下図と見比べるとこの絵の特徴がわかります。
下図では朝顔の花が丁寧に線で描かれています。

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これが、本画になると線が省略され、色と形だけに単純化されているのです。

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葉を見ると、葉の輪郭線と緑の色がズレています。
こうすることで朝顔の葉が、海風に揺れているような印象を与えます。
リズミカルな色彩感覚が新鮮です。

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どこか遠くを見つめるような白熊。
後ろにいる二羽のペンギンは空を見ています。
逢春が戦後追求してきた色と形の単純化を極めた作品です。
この絵はどこか不思議です。
北極にいる白熊と南極に住むペンギンが同居する、実際にはない風景。
空には日食を思わせる太陽。
そして望郷とつけられた画題。
こうした作品は逢春モダニズムと呼ばれ、高い評価を受けました。

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日本画が古色蒼然たる世界ではなく、こんなにフレッシュなものになりうるという一つのお手本だった。日本画が生まれ変われると思っていた時期だったのではないかと思います」

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神奈川県葉山町にある山口蓬春記念館。
戦後の方旬はこここの居を構え絵筆をとっていました。
逢春モダニズムで人気を集め、花々に囲まれて絵を描く日々。
しかし、そのなかにあっても逢春は絵を変えていきます。

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ひと枝の琵琶と古九谷の器。
逢春は対話をするかのように、その本質を描こうとしています。

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逢春が晩年に取り組んだのはモダニズムの世界とは異なる徹底した写実でした。
逢春晩年の創作の秘密に接した人がいます。
山口家で11年にわたって住み込みで働いていた安藤一コさんです。

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「洗面所の窓越しに見える裏山の土手の甘草の話が一つ思い出に残っています。甘草の蕾が少しずつ出てきて三分咲きほどになったところで私が切って一輪挿しに生けていしまいました。f:id:tanazashi:20180211202008p:plainそしたら「あの甘草はどこにいったんだろう。僕は楽しみにしていたのに、窓越しに額縁の中の作品のように僕は眺めていたんだよ、これは日常生活の中で美的感覚、美意識をもってものごとを見ないとだめだよ」という感じであとでお話をいただきました、ああ申し訳ないことをしたと思った思い出があります」

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「とにかく物事をよく見つめ突き進んでいくと物事の真髄が見えてくる。それは絵に限らずいろいろなことに通じることだと思うよ・・・ということをよく仰ってくださいました」

 

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浜木綿を描いた夏。
庭に咲く花を何枚も写真に撮り、観察を重ねた末に完成した作品です。

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「最初は見たままの写生。次いで感じたままの写生が、それからさらに進んで知ったままの写生に至る」
見たままだけでなく、感じたままだけでなく、本質を見極める。
これが逢春の到達した境地でした。
昭和の初めから戦後にかけて活躍した日本画家・山口蓬春。
時代とともに大きく画風を変えました。
絵かきになることをこころざし、その出発点となった大和絵

激動の時代に新しい歴史画を描いて見せた戦争画

戦後の開放感の中で色と形を洗練させた逢春モダニズム

晩年にはものの本質に迫ろうと写実に徹しました。

逢春が変わり続けた理由は何なのか。

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画家としての生き方を語る肉声が残っています。

「絵描きになりたいということはそもそも絵描きになりたいのであって、なになに画家になりたいのではなかった。

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ところがいつのまにかだんだん専門家していく。職人芸になってしまう。ですから絶えず自分が絵描きになりたかったんだ。絵描きになるんだということを忘れないように自己を反省していくには、心の中の未開拓の部分に鍬を入れていかなければならない。自分はこころがけながらやっています」
絵に年を取らせるなと常々語っていた
山口蓬春。自分の中の未開拓の部分に鍬を入れ、耕し続けた画家でした。

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍

 

展覧会

 

山口蓬春記念館