チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「芸術はすべて心である~知られざる画家不染鉄の世界~」

朝日新聞の書評*1横尾忠則さんが述べていたように、不染鉄の作品には見る者を圧倒する力があります。

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日曜美術館「芸術はすべて心である~知られざる画家不染鉄の世界~」

去年の夏、東京で初めての回顧展が開かれ、美術関係者の注目を集めている日本画家、不染鉄*2
1996(平成8)年、奈良県立美術館で開催された20年記念特別展を経て、没後40年の2017(平成29)年、東京ステーションギャラリー奈良県立美術館の2カ所巡回で、回顧展を開催し、大きな反響を得た。人生の足跡を明らかにしながら、不染鉄の郷愁あふれる幻想の風景世界を紹介する。

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東京で初めての回顧展が開かれ、美術関係者の注目を集めている日本画家、不染鉄(1891~1976)。

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不染鉄は人生の中で出会った風景を、生涯繰り返し描いた。

生まれ育った寺院のイチョウの木。

漁師として暮らした伊豆大島の村落と海。

奈良・西ノ京に住んで見た古都の情景。

番組では、晩年不染鉄と絵葉書の交流をした女性などの証言によって、人生の足跡を明らかにしながら、不染鉄の郷愁あふれる幻想の風景世界を紹介する。

【出演】倉石美子,日本画家…上村淳之,大正大学名誉教授・光円寺住職…佐藤良純,時得孝良,【語り】高橋美鈴

放送日

2018年2月25日

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長野市に晩年の不染と交流があった人がいます。

 

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倉石美子さんは東京の大学生だった二十歳の頃、不染に出会いました。
卒業後、故郷の長野で教師になった倉石さんのもとには、

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付箋から数多くの絵はがきが届くようになりました。
その数はあわせて百通ほどに上りました。

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その頃不染は70代。
奈良の街の一角にあった住い兼アトリエのあばら家で
一人気ままに絵を描いていました。
倉石さんは不染のアトリエを初めて訪ねたときのことが今も忘れられません。

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「入るのを躊躇するような粗末な建物でした。先生は部屋にぽつんと座っていました。一人で寂しくないかと尋ねると、僕はね今までの思い出を絵にしているんだよと、思い出はいっぱいあって楽しいよ。それを全部絵にしているんだよ。だから寂しくなんかないんだよって」

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倉石さんへの絵はがきには不染の思いや暮らしぶりがいきいきと描かれています。

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「あばら家で将棋を楽しんでいる。立派な家もいいけど、ツギハギの家もいいですね。身にしみて美しい。かわいい」

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「テレビが毎日歌や踊りやお話をしてくれる。こたつはとてもあたたかい。眠くなるとこのまま横になって寝る。いい人になろうと思う。いい人に為るといい夢ばかり出て来る」

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「宛名は私だけど、実は先生は自分の心に向かって書いてると感じた。いい人になりたいという声も自分に向かってそう言って、自分で確認している。先生は自分に当てたものである」

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「七十七です。いつ死んでも残念でないよう、美しい心の人になります。お月さまは神様のようで美しくて立派だ。本当に真心の人になれば、お友達にもなれそうだと思う。なんだかうれしい。歩くとどこまでもついてくる。わしの心もこんなに澄み渡りたい」

f:id:tanazashi:20180225214823p:plainこうした絵はがきを出していた晩年。
不染が描いたいちょうの木です。
太く黒黒とした幹。そこから無数の枝が伸びだし、垂れ下がっています。

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根本には小さなお地蔵さんが静かに佇んでいます。
枝からはおびただしい葉が降り注いでいます。

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その一枚一枚が細かい粒となって地面に敷き詰められ、

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キラキラと輝いています。
このいちょうこそ不染の幼いころの思い出を象徴するものでした。

 

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不染は明治24年。東京小石川にある浄土宗の古刹・光円寺の住職の息子として生まれました。

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ここには樹齢700年ほどといわれるいちょうの木があります。
今も太い幹が残り、不染がいた当時の面影を忍ばせます。

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「大正のころ雷で枝が落ちまして、昭和20年の空襲で中が焼け中が空洞なんですが、いちょうの木はたいへん強いので枝や葉っぱがでています。ここに立っていると金色の雨が降ってくるくらいの感じです」

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不染は幼いころの思い出を絵に描き、こう言葉を添えています。
「秋になる。真黄な落葉が少し風の日なぞは雨の降るようです。お守の背に子守歌をききながら眠りました。

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小さい声でその頃の子守歌を歌いますと、胸が一杯になります。わがままな私は母を始め皆に心配をかけたと申します」

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不染が絵に描き込んだお地蔵さんが、今も大切に祀られています。
お寺に生まれ育った不染。
いちょうの思い出とともに仏の教えは不染の心の奥底に根を下ろします。

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少年の頃、素行が悪く、中学校を放校処分されたこともある不染。
得意だった絵を生かそうと、日本美術院の研究科員となり画家を目指します。
絵はがきに当時の心境を記しています。

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「お金もなくなり、自信もなく、人の絵を見ててもあんなには描けない。夜なぞ、一人になると心細くさびしくなる。とても一人前の画家になれる気がしない。さびしい。心細い。泣きそうになる」

 

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大正4年ころ。二十代半ばの不染は突然妻をつれ、伊豆大島に赴きます。
身を持ち崩した末の逃避行のような旅でした。
伊豆大島の北部にある岡田。
不染はここで三年にわたり暮らすことになります。
そしてもその思い出を多くの絵に残しました。

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「見たことのない大島に行くことになった。途中、夜中ころから海が荒れ、雨さえ降り出した。

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未明に岡田村に着いた。いい所を選んで住む金はなかった。どんなところでも安心して二人いるところさえあれば、それで何よりだった。潮の香。澄んだ空気。青い海。砂の道。磯の波。二人の幸せには十分だった。

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貧しい家を借り、磯に打ち寄せられた木を拾って飯を炊いた。村の人々とも仲良しになった」

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岡田に住む時得孝良さん。
母親が不染を知っていたこともあって、伊豆大島での不染の足跡を調べました。
不染が住んでいたところは神社に仕える禰宜が住んでいところだといいます。

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祠だけが今も残っています。

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「これは唯一の写真です。不染さんが来た当時はまだ藁屋根です。母親に聞いたら不染さん不染さんと親しんでみんな呼んでいたと言ってました。若い不染さんがこの地域に溶け込んでいたという証拠ですね」

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不染は岡田にいた間、漁をしながら暮らしました。
集落のすぐ前は海。小舟が浮かぶその海には魚も描かれています。

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「毎日釣りや網に行った。大鮫を釣って売ったことがあった。冬の海の荒れる日は温かい日向にうつらうつらして、何事もなく暮らした。夕方は東京を思い、絵かきを思い、寂しくなることもあったが、気楽な幸せな生活にすぐ消えていった」

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岡田の人たちと一緒に漁に出て暮らした三年間。
不染にとって伊豆大島は生涯何度でも立ち返る、絵の故郷のような場所になりました。

 

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大正7年。不染は伊豆大島を離れ、京都市立絵画専門学校に入学します。
26歳にして本格的な画家の修行を始めたのです。

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十歳近く年の若い学生たちに混じって絵の勉強に励んだ不染。
ここで生涯の友人と会います。

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後に名高い画家となった上村松篁です。

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村松篁と共作した絵が残っています。
寒々とした冬木立を不染が描き、真っ白な愛らしい白鷺を上村松篁が描きました。

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村松篁の息子で日本画家の上村淳之さん。
まだ子どもでしたが家族ぐるみの付き合いだった不染のことはよく覚えています。
「彼が家にいて、いっしょに夕ご飯を食べていても決して気になる人ではないのよ。不染さんおいでやす。ほないっしょにご飯たべようみたいなことで、そんな雰囲気で。今考えてみればおかしな存在ですよ。全然姻戚関係もない人が突然やってきて何日も逗留して、またどこかに行ってしまう。私は渡り鳥みたいな人やと言っていた」

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村松篁は晩年、不染のことをこう書き記しました。

不染さんはたいそう聡明な人で正義感が強い人でもあった。
世の中の表裏を知っているので人を見抜く眼力があった。
唯一の欠点はなまけものであるということである。
不染さんは私の生涯に最も大きな影響を与えた得難い親友であった。

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不染の卒業制作です。
人気のない静かな農村風景。
セピア調の色彩が昔懐かしい雰囲気を醸し出しています。
不染はこの学校の本科を主席で卒業します。
「中学以来不良の私。まあ卒業のときは一番で答辞を読む。父よ母よ。心配をかけた皆様よ。本当に一番だ。胸がいっぱいになる」

 

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大正12年。32歳の時、不染は再び伊豆大島を訪れます。

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その時、伊豆半島や富士山が一望できる野田浜でスケッチをしました。

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不染がこの浜で描いた水彩画。
「温かい冬の日なたの元。遥かに富士山に雪が降っているのを見、寒い国の冬を思い出す。

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静かな田舎の小さな停車場。

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二三日前に乗った汽車は、今頃もあの道を走っているかもしれない」

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水彩画の二年後に書かれた大作「山海図絵(伊豆の追憶)」です。
雪をかぶった富士山を中心にして、周りの景色を高いところから俯瞰して眺めています。

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富士山の向こう側には雪が積もった白く小高い山々が並び、いくつもの集落が見えます。

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舟が係留された港はひっそりと静まり返っています。
富士山のこちら側の集落。

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冬枯れの木々で覆われた向こうに汽車が走っています。

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近寄ってみると停車場があり、汽車の運転手や乗客が見えます。

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鳥のように上から眺めた景色でありながら、
虫の目のように細部まで描きこまれているのです。
海の上には大小様々な舟が浮かび、漁師の姿も見えます。

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さらに海の中に目を凝らすとたくさんの魚が泳いでいます。
一見現実の風景かと見紛いますが、
しかしこの絵は不染の心のなかにある思い出の風景なのです。

 

昭和2年。36歳になった不染は唐招提寺薬師寺などがある奈良・西の京に暮らすようになります。
すでに学生の頃から権威ある帝展に入選を繰り返してきた不染。
古い都で画家としての暮らしが始まりました。

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その頃描かれた絵巻物。
日本の伝統にならい不染は絵と文章が一緒になった独特の作品を作りました。
「このあたり、昔、千何百年か前に都があったところだそうです。今は何事もなく稲が実りすすきがそよいでいます。

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薬師寺の塔の近くに見えます小さな家です。私どもと鶏10羽ほど。夏は朝顔ホウセンカが数知れず美しく咲きました。今はみんな枯れてわずかの鶏頭とコスモスだけになりました。やがて霜柱の立つ冬が来ることでしょう。裏の柿が赤く、夕方から虫の声が家を取り巻きます。

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薬師寺。千年ほど前のお寺だそうです。不思議な、世にも美しい仏様が御堂の薄暗い中に細眼を開けて立っています」

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西の京の風景の中でも不染がとりわけ気に入っていたのは薬師寺東塔でした。

創建の時から1300年。悠久の時を重ねてきました。

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不染が晩年になってから描いた「薬師寺東塔之図」。

中央に薬師寺東塔がすっくと立っています。

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背景には農作業に勤しむ人々が小さくシルエットで描がき込まれています。

 

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昭和19年

戦争末期、52歳の不染は東京に住んでいました。

当時、空襲に備えた疎開が始まっていました。

不染が戦争の時代をどう過ごしたのか殆どわかっていませんが、

疎開に直面したことを示す資料が残されています。

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疎開にあたって書き留めたと思われる手控帳です。

その最初に住んでいた家のスケッチを描き、かたわらにこう記しています。

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「国家非常。帝都疎開となりました。住み慣れたお家を後にして思い思いに田舎に参ります」

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手控帖には山水画を始めとして墨や硯などが描かれています。

戦争中画材が乏しくなる中、不染が水墨画に打ち込んでいたことが伺えます。 

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不染が戦争末期に見たと思われる、絵はがきが残っています。

巨大な船に出征兵士と思われる人がデッキに立っています。

見送る人々が日の丸の小旗を振っています。

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終戦少し前のことである。日本は軍艦、大きな船はもうない。南の島々には餓死寸前の兵隊がたくさんいる。

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未教育の鉄砲を持つことも知らない農業の人、商人、サラリーマンにわかに徴用。

芝浦から出帆。手を振る。勇ましいような、泣くような楽隊。

船も海も初めての人もあるだろう。

だれも帰ってこなかったと申します」

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「廃船」

その後、不染は絵はがきの絵に似た巨大な船の絵を描きました。

小さな家々が立ち並ぶその背後に、圧倒的な大きさで横たわる船。

しかし、絵はがきとは違い、兵士たちの姿は見当たりません。

廃船となり、すでに長い年月が経つのでしょうか。

船体は赤錆に覆われています。

枯れ草が生い茂ったような空き地の手前。

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粗末な家並みから火が燃え上がっています。

暗く淀んだような重苦しい絵。

この廃船は帰ってこなかった戦争の犠牲者たちの象徴なのでしょうか。

 

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戦後になっても不染の伊豆大島への郷愁は止むことがありませんでした。

戦争中、水墨画を多く手がけるようになった不染。
かつて過ごした岡田村にまつわる水墨画をいくつも残しています。

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「南海之図」
うねる海、島近くに一隻の帆掛け舟が浮かんでいます。
島は人を寄せ付けないような切り立った断崖が連なっています。

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しかし、よく見ると岩場と背後の山の間には家々があり、
人の暮らしがあることがわかります。
岡田の集落の記憶に、古来山水がで書かれてきた
理想の別天地”桃源郷”のイメージを重ね合わせています。
不染ならではの水墨山水画

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とりわけ目を引くのが海です。
伊豆大島で慣れ親しんだ海。
絶えず揺れ動く波のうねりが墨の濃淡を駆使した独特の技法で描きこまれています。

 

岡田での3年間。不染は海に出て漁をして暮らしました。

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魚が大好きだった不染。
自ら魚になってしまった絵はがきもあります。
「私はお魚か。深海に住む魚のように。静かに自分の心を見つめて真実とは何だ。幸せとは何だ。人生とは何だ。色々良く考えかみしめよう。そしてさ、時々この世に浮かび上がり人生の風にあたり、ごちそうを食べそして又深い深い海底へ沈んで。又静寂の世界だ。いいなあ」

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魚への思いが募った不染はついにこんな幻想的な絵を描きます。
青い海の中に茅葺屋根の家があります。

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周りには大小様々な魚達が悠然と泳いでいます。

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家の中には囲炉裏があり、夫婦らしき人の姿も見えます。
海の中で魚と一緒に暮らす。まるで竜宮城のようです。

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大きな魚のレリーフが飾られていた晩年の家。
魚を始めとする生きとし生ける物への愛。
寺に生まれ、僧侶の資格も持っていたと言われる不染。
仏教的な思想がその根のようなところにあったようです。

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最晩年の絵「落葉浄土」

生まれた寺にあったような立派ないちょうがそびえ立ち、
黄金色の葉を散らしています。

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静かに佇むお堂。

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門のところには仁王像が立ちはだかっています。
堂内には仏像が賑やかに立ち並んでいます。

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そしてよく見ると母屋では父と子でしょうか。語り合う姿が見えます。
この絵は不染の極楽浄土のイメージなのかもしれません。

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不染は墓地の片隅にある無縁仏にも心を寄せました。

お墓は寂しいと言うけど、そうではないよ。

いろいろな人がたくさんいて、とても賑やかだよ。

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男も女も若い人も年寄り、あかちゃん。どんな人もいるね。

やがて夏が来る。夕立が降ってみんな濡れるだろう。

いいねえ。秋は落ち葉が散ってくるだろう。

冬は粉雪が降ってくるだろう。楽しいねえ。

この世にいるときは優しい美しい人もいたろう。見たかったなあ。

がめついやつもいたろう。

実にいろいろだったろう。

今はみんな仲良く喧嘩もしない。このほうがいいね。

幸せとはこれをいうのか。

ああ。なるほどそうか。それだから極楽というのか。

 

 


絵の傍らにはこんな言葉も記されています。

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有名になれず、こんな絵を描くようになっちゃった。

だけどいいよねえ。

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80歳を超えてからも奈良のあばら家で絵を描き続けた不染鉄。

昭和51年。84歳で亡くなりました。

 

取材先など

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blog.kenfru.xyz

 

 

 

 

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

書籍

 

不染鉄之画集

展覧会


*1:2018年4月28日読書欄

*2:1891(明治24)年、東京生まれ。小石川の光円寺住職であった不染信翁と母・梅田かの子の間に生まれる。
幼少期は複雑な家庭環境からか、素行の悪さで周囲を困らせ、千葉の漁村の寺に修行に出されたりもするが、20歳前後で両親を亡くす。絵の道に進むとを決め、1914(大正3)年、23歳で日本美術院研究会員となる。制作に邁進するも才能と将来に不安を抱え身を持ち崩し、その頃出会った妻とともに伊豆大島へ渡る。悪天候のなかたどり着いた漁村・岡田村で温かく迎えられ、漁師のまねごとをして3年程暮らす。その後、美術研精会で《秋声》が佳作に選ばれたのを機に京都へ移住し、京都市立絵画専門学校日本画予科に入学。以降、帝展での受賞が続き、1923(大正12)年、京都市立絵画専門学校本科を首席卒業。上村松篁とは親しく、長く交流が続いた。やがて住まいを奈良へ移し、帝展への出品を中心に制作を続けていたが、1946(昭和21)年、初代理事長が戦後の公職追放にあったため、かわりに奈良県正強中学校の2代目理事長に就任し、その後、校長となる。退職後、67歳で妻を亡くし、市内の知人の好意で敷地内に小さな家を建て暮らす。1976(昭和51)年2月28日、84歳で直腸がんのため死去。