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響くアートの愛好家

日曜美術館「“夢のようなあまさ” をこえて」

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日曜美術館「“夢のようなあまさ” をこえて」

みんなに愛されるいわさきちひろ。今夢中になってる小さい人も、大切な思い出になっている大人も、誰もが心の中にしまっている、愛にあふれた絵はどのように生まれたの?

みんなが知ってるいわさきちひろの作品は、画家になってだいぶたってからのものでした。満州でつらい経験をし、戦後は働きながら絵を描き、子育てしながら、少しずつあの画風に迫っていったのです。淡くにじんだ水彩絵の具でちひろが伝えたかったことは?そしてその絵に感動した人たちは何を感じたのか?黒柳徹子さんが語る思い出。ちばてつやさんが学んだこと。高畑勲さんが語った、ちひろの絵にこめられたメッセージとは?

【ゲスト】漫画家…ちばてつや,東京ステーションギャラリー学芸員…成相肇,黒柳徹子,絵本作家…松本春野,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送日

2017年8月12日

 

30年近くの画家生活の中で九千点近くの作品を残したちひろ。

その殆どが子どものための絵です。

しかし、あまりの可愛さで大人の心をも掴んでしまいます。

いわさきちひろの代表作。絵本「小鳥の来る日」。

日本だけでなく、世界で読まれ、その一枚一枚が「額に入れるべき絵画である」と高く評価されました。

ちひろはこんなことを語っています。

「自分の絵にもっと泥臭さがなければ生けないのではないかと、ずいぶんなやんできたものでした」

「ドロンコになって遊んでる子どもの姿が描けなければほんとうにリアルな絵ではないかも知れない」

「その点、私の描く子どもはいつも夢のような甘さがただようのです」

この人もちひろのファンです。

漫画家のちばてつやさん。

ちばさんがすきなのがこちらの作品「母の日」

「スイカの種みたいな目を描くのですね。普通白目と黒目というのが、私は漫画家ですから、表情描くときに白目と黒目。白目が大きかったりあるいは黒目が大きかったり、そういう目の表情をいろいろ描くのですけれど、だいたいちひろさんの目というのはスイカの種。それでいてなんか嬉しそうな表情の目だなとか、すごく伝わってくるのです」

「手がね。柔らかい手がお母さんの首に抱きついて、体を預けてね、信頼しきっている子どもの顔。お母さんの顔は見えないんだけど、お母さんの微笑。ぬくもりを感じるんです」

ちばさんは自分の作品でちひろの絵に似た表現をしていました。

ボクシング漫画の金字塔「あしたのジョー」。

最終回最後のコマです。

強敵との試合ですべてを出し切ったあとの主人公ジョー

千葉さんは説明的な描写を極力省いたといいます。

「あれはリングの上ですから、リングの柱とロープだけは描きましたけど。あとは座っている椅子ね。それは描きましたけどあとは何も描かない。それこそ感じてほしかった。燃え尽きてなんにも残ってない。ただそこにすべてを出し切った男の満足感。重実感というのかな。というものを出したかったので。描きすぎると。描いてしまうとうるさくなって目が疲れてしまうんです。いろんな滋養報が入ってしまうと。そうじゃなくて描かないでも感じさせる」

描かずに感じさせる。

それに長けていたのがいわさきちひろだとちばさんはいいます。

「いわさきさんの場合はできるだけ余白。白いところを残して、できるだけ描かないでぽつっと描くんだけじ世界観というのか、部屋の中の温かいぬくもりがある部屋なんだなとか、あるいは涼しい林の中なんだなろうなとか、季節感も費用減するところがすごいなと思います。描かないで感じさせるというところがとても、いわさきさんの絵を見てすごく勉強になりましたね」

そしてちばさんはこの作品も気になるといいます。

ちひろの自画像。

このとき27歳。

「どちらかというと白っぽい。明るいハイトーンの絵が多いのに自画像になるととたんに暗くなるのですね」

いわさきちひろは1918年陸軍で働く父と女学校の教師をしていた母との間に長女として生まれました。

裕福な家庭でクリスマスを祝うほどモダンな暮らしぶりでした。

そんな少女が目にし、胸がキュッとなってドキドキしたというのが「コドモノクニ」。

底に描かれた愛らしい子どもたちの姿。

ちひろは絵の世界に心を奪われます。

12歳になり女学校に入学。二年生の頃から本格的に絵を学び始めます。

めきめきと腕を上げ、17歳のとき女流画家グループの展覧会に最年少で入選。

その祝いの席には審査員だった藤田嗣治の姿もありました。

ちひろはいつか巨匠たちと肩を並べることを夢見ていました。

しかし・・・

両親の強い勧めにより結婚。そして夫*1の転勤先である旧満州へ向かいます。

大連。はじめて訪れた満州でしたが気持ちは沈んでいました。

愛していない夫との生活。

二年後夫は精神を病み自死します。

そして1941年帰国。

ちひろは絵に没頭します。

描くことで過去を忘れようとするかのように。

そんな中ふたたび満州行きの話が持ち上がります。

ちひろは開拓団の女子たちに誌有事を教えるよう頼まれたのです。

ちひろは絵の道具を持って満州へ向かいます。

途中、東洋のパリと呼ばれたハルビンにも立ち寄り、スケッチをするなど画家としての時間を楽しんだと言います。

しかしいざ開拓団の拠点につくと物資も食糧も不足し、習字の教室どころではありませんでした。

あまりの酷い環境に体調を壊したちひろは知人の軍関係者のはからいで帰国するのです。

教え子たちをその地に残したまま。

実はちばてつやさんも少年時代旧満州にいました。

敗戦のあと命からがら引き揚げてきたのです。

「引き上げる途中仲良かった二つ上の兄がいるんです。一年間旅をして船に乗った瞬間亡くなるんです。生き残ったということがとてもつらい。なにか負い目を感じているということはみんなある。戦争を生き残った人は皆」

生徒たちを守るべきだったはずの大人の私が。知らず知らずのうちに見捨てていた。

この経験がその後のちひろの歩みに大きな影響を与えたと黒柳徹子さんは言います。

「自分が気づいていなかったことをとても恥ずかしく思っていただろうと私は思います。子どもを描けば描くほど、子どもたちを泣かせないようにお願いしますと」

 戦後、ちひろは親元を離れます。

そして一人画家としての道を歩み始めるのです。

 

油彩、紙芝居、広告……幅広い表現に挑戦

「ほおづえをつく男」

「働いている人たちに共感してもらえる絵を描きたい」では、戦後に日本共産党に入党し新聞記者として働く傍ら、丸木位理、丸木俊(赤松俊子)夫妻のアトリエで絵の技法を学んでいく中で描かれたデッサンやスケッチ、油彩画や、童画家として歩むきっかけとなった紙芝居作品などが並ぶ。鉛筆の力強い線や、油彩の重たい表現などは、後の軽やかな水彩画からは想像できない。

「昼寝をする夫・善明」

1950年。ちひろ31歳。二度目の結婚をします。

親が決めた相手ではなく、自ら恋に落ちた人*2でした。

彼女はこう自己紹介します。

いわさきちひろ。絵描きです」

翌年には長男が誕生。

もともと子ども絵が好きだったちひろは絶好のモデルを得てさらに筆を走らせるのです。

ハマヒルガオと少女」(油彩)

1950年代中頃の作品。「暗くなりがちな油絵の具を使いこなし、後の水彩画を特徴づける優しげな印象をうまく引き出している」担当学芸員の成相肇

「となりにきた こ」

1970年。 ちひろがちひろになった頃の作品。

ちいさな二人が少しずつ仲良くなっていく物語。

ちひろは当初鉛筆と墨によるモノクロームの作品として構想していました。

しかしすべてを描き直します。

鉛筆ではなくパステルで。

松本春野さん。いわさきちひろの孫娘です。

ちひろの絵を見て育った春野さんも、絵描きになりました。

春野さんに実際に描いてもらうことでちひろがなぜパステルで描くようになったのか探ってもらいます。

 

 

 

取材先など 

blog.kenfru.xyz

 

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放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍

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展覧会

100.chihiro.jp

 

*1:銀行員。氏名経歴不詳

*2:松本善明1950年 - 1974年、日本共産党名誉役員、財団法人いわさきちひろ記念事業団副理事長。弁護士。元衆議院議員