チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

新美の巨人たち 富士屋ホテル

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創業140年余り、2年におよぶ大改修を終え先月リニューアルオープンした『富士屋ホテル』。7千6百坪の広大な敷地には7棟の建物が、建造と改修を繰り返しながら奇跡のように佇んでいます。そこに広がるのは西洋と日本が融合した不思議な美の世界。アンガールズ田中卓志さんが、建物に施された美しき装飾や、ホテル誕生の物語に迫ります。さらに箱根とゆかりのある、あの監督も登場!? 

 

日経おとなのOFF 2020年 絶対に見逃せない美術展(日経トレンディ2020年1月号増刊)
 

美の巨人たち 富士屋ホテル

放送:2020年8月15日

 

 

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新美の巨人たち 横浜三塔物語

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横浜で語り継がれる『横浜三塔物語』をご存知ですか?それは戦前から親しまれてきたキングの塔こと「神奈川県庁本庁舎」、クイーンの塔こと「横浜税関」、ジャックの塔こと「横浜市開港記念会館」が同時に見られる場所を1日で巡ると願いが叶うという伝説。「今こそアートのチカラを」第13弾は、要潤さんがこの三塔やビューポイントを訪れ、様々な危機を乗り越え市民たちが誇りをかけて守ってきた“横浜三塔の物語”に迫ります。

 

日経おとなのOFF 2020年 絶対に見逃せない美術展(日経トレンディ2020年1月号増刊)
 

美の巨人たち 横浜三塔物語

放送:2020年8月8日

 

ジャックの塔が美しい。

夜の横浜です。

キングの塔が現れ、やがてクイーンの姿も。

単なる夜景ではありません。

実は幸福を呼ぶ風景なんです。

昔船乗りたちは、海からよく見える三つの塔をトランプになぞらえあだ名をつけました。

威厳に満ちたキング。

気品漂うクイーン。

華麗なるジャック。

時は流れ塔はごく限られた場所でしか同時に見ることができなくなってしまいました。

ですから街には今こんなプレートが。

同時に塔が見られる貴重なビューポイント三箇所を1日で巡ることができたら願いが叶うと言うのです。

それこそが横浜三塔物語。

俳優の要潤さんが横浜のシンボル、キング、クイーン、ジャックの塔を巡ります。

思わず息を呑むほどの美の数々。

それぞれの塔には極上の物語が秘められていたのです。

去年開港160周年を迎えた横浜港。

「ちょうど真正面に見えます。ぱっと見たら分かりますねクイーンだってね」

横浜で一番古い波止場に立つクイーンの塔。

昭和9年に建てられた横浜税関です。

高さは3塔の中で一番の51メートル。

頂上にはイスラム寺院風の道具を。

上品なクリーム色の外壁は当時流行していたスクラッチタイル。

羽生市のスリムな窓と白をかたどった軒飾りが軽やかなリズムを奏でています。

港の門番として威厳と気品をまたまさにジョーの戦い。

「こちらが正面玄関。静観ですからね。ちょっと初めて入りましたけどもこんな感じになってんだ」

中庭横浜税関の歴史や仕事を紹介する展示室があり、誰でも自由に見学できるんです。

貿易の第一線で密輸などを取り締まるのも税関の大事な任務。

今日は特別に普段公開していない部屋へ。

「税関長の部屋。立派ですね」

意外にも使っていた人がいるらしくの

クイーンの塔にいったい何が。

今から75年前のこと。

「さあんまり思い出したくないなぁ。ここから見える景色が一変してしまったのよ」

1945年5月に横浜大空襲。

落とされた焼夷弾43万8576個。

奪われた命は8,000以上。

1日で外人とキスた港町に

蝋燭のような三島の姿

キングとクイーンとジャックは燃えませんでした。

全てを失った市民たちの希望の灯火のように、焼け野原にじっと立ち続けていたのです。

ところが終戦後、クイーンの塔は進駐軍に接収されてしまいました。

横浜税関は一時GHQ司令部となり、館長室はマッカーサーも使ったと言われています。

塔は焼け跡から立ち上がる横浜の姿を見つめ続けてそれぞれが銀杏カルビ

お店ではキングの塔へと向かいましょう。

 

 

 

日本大通りは横浜のメインストリート。

日本で最初の西洋式ガイドです。

明治3年頃、火事の延焼を防ぐため外国人居留地日本人町の境界に作られました。

というのが横浜が開港した当初の場所であるということになります。

ここがまあ横浜の街が発展する出発点ですので、神奈川県庁があり税関があり、そうした重要な建物が集まっている横浜のその後の発展を支えた地域なります。これはキングですね。キング感ありますね。角ばってるクイーンと街を作り方が違いますね。

日本大通りにそびえるキングの塔は昭和3年に建てられた神奈川県庁本庁舎です。

高さは48.6メートル。

国の重要文化財に指定されました。

褐色のスクラッチタイルや、テラコッタ万成石を用いたアールデコ風の幾何学的なデザイン。

頭のてっぺんには寺で見かける総理のような飾りが。

どうしてここに。

現在の県庁舎は4代目。

大正12年関東大震災で先代の庁舎が全焼したため、新庁舎の設計コンペが開かれることになりました。

港出入りする船舶から存在が容易に認識できることがデザインの彫金

今日撮ったのは28歳の東京市

電気局職員帯

ハローできた湊川日本の玄関である

ということで、やはりその日本固有の建築美を表したいば

それがですねあの外観本人は五重塔

インスパイアされたと言い方をしています

けれども和を基調としながら非常に重厚な空間を作り出そうとしていたっていうことがよくどんな日が待っているのでしょう

重厚感ありますね。アールデコ調の空間ですが梁を支える餅送りにはもう飲めないよ

少年は仏教美術に見られる宝相華がモチーフで銀杏の殻が掘ってありますね。

神奈川県の木イチョウがあしらわれています。

広いそして豪華すごいなあ。なんか映画の世界に出てくる会議所っていうかコンサートホールみたいな

昭和41年までここで県議会が開かれていました。

格式高い折上格天井に豪華なシャンデリアがかかっています。

現在は応接室として使われている旧貴賓室。

の和洋折衷ここに珍しいものが。

これも絵だと思ったら違ったんですね。

細かい織物ですよこれ。

京都の名工川島織物のつづれ織りです。

一見、絵画のように見えますが多彩な色糸を織り込み開港当時の横浜の賑わいを描いています。

それは豪華でなくっちゃん

ここは開校の地横浜なんです

ものそう言われるとにさせぶん

年の横浜三塔

ビューポイント一つ目が日本大通りにあります。

県庁の向かいに立ってみるとちょっとわかりにくいですがキングの両端からわずかにクイーンとジャックが覗いています。

ここが最初のポイント。

要さんはジャックの塔を目指します。

「ここが一番年季が入ってそうな古そうな建物ですね」

ジャックの塔こと横浜市開港記念会館。

重要文化財です。

横浜三塔の中で最も古く、高さ36メートルの時計塔がシンボルです。

赤レンガに白い花崗岩のラインが特徴の東京駅と同じ勝野式フリークラシック様式。

両端にドームをいただき、中央に塔がそびえ立つ華やかなプロポーションは赤レンガ建築の最高峰です。

今も横浜市中区の東海道として使われています。

「広いですね。明日は一流ホテルみたいな内装ですね。

481人を収容できる現役の講堂です。

ペールグリーンの柱が絶妙なアクセントに、白に黄色が入る重工なし細工は昭和初期の職人技の結晶です。

柔らかな光が差し込む階段を2階へ上がるとステンドグラスが和風ですよね。

こんなはっきりとした絵が書かれて初めて見た日本におけるステンドグラス

ステンドガラス工場が制作しました。

デザインはとてもユニーク。

箱根声がテーマのこちらはかごに外国人が乗って今こちらのタイトルは呉越同舟双竜槍騎士猿回しや芸者が同じ船に乗っています。

様々な人々が集まり力を合わせて作り上げた横浜を表しているのかもしれません。

でもさよくは一番古いだけあって色んなことがあったんだよね。私たちが知らない大震災の知ってるし涙なしでは語れないよ。

この道がたどった歴史ほど劇的な物語はありません。

その100年のストーリーとは。

 

 

 

横浜三塔物語。

ビューポイントの二つ目です。

巨大な豪華客船が停泊できる大さん橋

その屋上デッキにビューポイントのマークが見えた。

港の景色と一緒に散歩が見える。

おすすめスポットジャックの建設費用は全て市民からの寄付金で賄われました。

総額は約36万9千円。

現在の2億円以上。

完成して市民にお披露目されたのは大正6年の開校記念日のことでした。

ところが6年後。関東大震災

開港以来、築かれてきた横浜の美しい街並みは一瞬で瓦礫の山となりました。

ジャックの塔が崩壊を免れたものの火災に。

より外壁だけを残していて落ちてしまったのです。

復旧工事が始まったのは震災から3年後のこと。

この時に個性的なドーム屋根は鉄筋コンクリートの水平屋根に架け替えられました。

この屋根をしっかり覚えておいてください。

その後、戦災を乗り越えたジャックに更なる試練が訪れます。

昭和44年に起きた歴史的建造物の宿命です。

きっかけはこの壁画の修復でした

東京美術学校の校長の務めた話題作の作品です

一枚は小さな漁村だった

開港前の横浜村のもう一枚は

たくさんの船が行き交い

繁栄する大正時代の横浜です

この壁に掛けられているように

見えますが実

はキャンバスが壁に接着され

額縁が上から取り付けられています

への修復はたべごと修理するに工事

そのため建物自体を保存するか

森9月か将来を決めなくては

いけなくなったのです

当時の横浜市長体調は

神奈川新聞の市場で意見を募りました

死の象徴として保存すれ市

改築して美術館ではどうか取り壊して

音楽ホールがいいのでは

結論は横浜の象徴である

開港記念会館を取り壊すわけにはいかない

つまり何もしない東海道

昨日の建物のそのまま

保存して行くことになったのです

藤野昭和よんじゅー年代の背景としましては

東京では三菱のいち

ごー日あるいは帝国ホテル

というような建物が解体されるということで

ま近代建築の保存については

もう大きなトピックがあった時代です

今私たちから見ると

赤レンガの建物っていうのは

ノスタルジックで

役的な存在で

あっていう風には訴えてきますけれども

当時はやっぱりもう

古くなった建物っていう認識を

とても強かったんだと思うですね

街の中で非常にその歴史を持った重要な建物

やるっていう購入し今日ですね

人々が持つ間保存の議論というのは

そういうきっかけになったんじゃない

かなっていう風に思います

ちょっと待ったその頃と今の

ジャックは比べるとなんだか屋根が違うぞ

一体何があったのこの設計図が見つかったからさ

関東大震災で失われたと思われていた

竣工当時の設計図が昭和ろくじゅー

年創建に携わった建築技師の家で

発見されました

それを機に

屋根の復元事業がスタートしたのです

まず国内で

は現在の宮城県登米

市花店のスレッドが取れないということと

またそのスレと副食人も少ないということで

まあ徐々に苦労しながら作業が続けられたと

当時の工事関係者の話と言われております

ろくじゅーろく

年ぶりに元の姿を取り戻した

国の重要文化財になりました

横浜のシンボルとしてそうだ

三つめのビューポイントには入った場合

僕の先輩のところだよそうこの場所

繊細な削り出しの技が一筋一筋に魂を宿す

純粋な白はその美しさをさらに引き立てる

ロングライフデザインを誇り

マイクロストライプ誕生

比類なき壁オールフォーロングライフ

ヘーベルハウスパック

昨日寝始めは小さかったんですね

賃貸経営って本当気の長い話ですよ

いつも自分の子供

みたいに思えてくるんですが

メンテなんか気になっちゃってろくじゅー

年先まで考えられていて

親としては安心ですね

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自分のためになるため

に生きるのだ

賃金ビールがあるだけで最高の美味しいって嬉しい

キリン一番搾り最後の横浜三塔ビューポイントへ

明治44年竣工

今は観光施設として活用されている

赤レンガ倉庫を見ながら海沿いを行くと

これですねありましたキングジャッククイーンと

ここから三重キングジャッカー

ちょっと遠いですけど

クイーンを手前にありますね

ちゃんとがバッチリ見えます

要さんもきっと願いが叶うはずから

来る人に対して横浜ここですよ

知らせる場所であり

地元の人に

とってもなくては

ならない存在だったんでしょうね

おいら達終わってないでくれよ

あなたたちは明治さん

じゅーなな年に建てられた横浜正金銀行本店さ

今は神奈川県立歴史博物館なんだ

いつもいたんですね

じゃあまた今度じっくり紹介し

変わりゆく時代変わりゆく街並みの中で

上がらなかった三つの頭キングクイーンジャック

横浜三塔物語港町の誇り港町のミチシルベ

あるいは心の灯台次回は

箱根富士屋ホテル日本屈指のリゾート

その県半田る美の世界を旅します

美の巨人たち

オールフォーロングライフ

ヘーベルハウスとよろこびがつなぐ世界へ

キリンの提供でお送りしました

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日曜美術館「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」

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700点を超える戦没画学生の遺作を所蔵する『無言館』。

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無言館

長野県上田市

坂道を上ると小さな美術館があります。

館長窪島誠一郎(78)が収集をはじめたのは、戦争の記憶の風化が叫ばれた戦後50年1995年のことだった。

半世紀の時を越え、若き画家たちの作品と出会った瞬間の衝撃。

そこには50年の歳月の重みがあった。

絵の中に込められた“熱き思い”と半世紀という時間の中で確実に劣化していく絵の運命。そのリアルを伝えるか。

修復家山領まりと窪島誠一郎の戦いを見つめる。

【司会】小野正嗣,柴田祐規子

 

 

戦没画学生 いのちの繪 一〇〇選

戦没画学生 いのちの繪 一〇〇選

 
「無言館」の庭から

「無言館」の庭から

  • 作者:窪島 誠一郎
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
「無言館」ものがたり

「無言館」ものがたり

 

 

 

 

 

 

日曜美術館無言館の扉 語り続ける戦没画学生」

放送日

2020年8月9日

 

長野県上田市

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坂道を上ると小さな美術館があります。 

戦後75年の夏、初めて訪ねます。

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無言館の扉を開けると不思議な空気に包まれました。

無言館には戦没画学生の絵とともに、出征の時の写真や資料も展示されています。

「22歳ですよ。皆若くして亡くなられて」

1938年に東京美術学校に入学した学生たち。

彼らの多くは戦場に駆り出され戦死しています。

野見山暁治満州に出征しましたが、病気となり療養のため帰国。

死を免れました。

戦後は画家として一線で活躍し文化勲章も受章しています。

無言館の歴史は野見山暁治窪島誠一郎の出会いから始まりました。

野見山は戦後の人生の中で大きな忘れ物をしたと語っています。

当時、窪島は若くして亡くなった夭折画家の絵を集めたデッサン館を開いていました。

「今から43年前ですかね。まだ僕は引き算すると33歳、34歳ですかね。信濃デッサン館という美術館をこの土地に作ったんですよ。その時野見山先生が窪ちゃん。早死にした絵描きが好きなんだろう。僕の仲間にもね戦争から帰ってきたらさぞ才能を発揮したろうなっていう仲間がたくさん死んだ。戦後50年に近づいてきたらお父さんお母さんはなかろう。あるいはご親族の方もだんだん少なくなってくる。あいつらの絵がどうなってるかと思うとね。この世から消えていってしまうかと思うと残念なんだよとおっしゃった。それが発火点。絵描きは絵さえ残ればまだ死んでない。この世から彼らの絵がなくなったときはじめて彼は生きていた存在そのものがなくなる。間に合うんだったら今から集めたいと思った」

 

戦争は遠い過去となっても、遺族は画学生たちの遺作を大切に守っていました。

何かに駆り立てられるような旅が続きます。

屋根裏や押入れからひび割れ傷ついた作品が現れると、止まっていた時間が眠りから覚め動き出すようでした。

声も出せずに凝視する瞬間。

「大げさな言い方すると、自分がその絵を発見したっていうのは、その天井裏にあった絵に僕が発見されたようなもの。彼らの絵は、そう生きてきたお前はどういう生き方をしてきたんだっていう、なんか根源的な問いかけを持った気がします」

無言館の絵には戦争そのものは描かれていません。

画学生は死を覚悟し、自分が一番大切なものを描きました。

「きっとご自身のおばあ様ですね。これから戦争に行かなくてはいけない人が、何を絵に書くかっていう時に、自分のおばあちゃんの絵を描いた。蜂谷清さんにとっておばあちゃんはとても大切な人だったんだろうなと」

絵には祖母が幼い清をおんぶする時羽織っていた袢纏が描かれています。

「おばあちゃんは少し遠いまなざしですが、蜂谷清さんを見てる。あの優しい眼差しなんだと思います」

1943年。蜂谷清は召集令状受け取り祖母のなつを描きました。

出世して2年。フィリピンレイテ島で戦死。22歳でした。

 

かわいがっていた四つ違いの妹。

「清楚な感じ。美しいまなざし。悲しい感じがします」

太田章は友禅職人の家に生まれ、父の期待を一身に受けて育ちました。

東京美術学校日本画家で学んでいました。

章は満州で戦死。

23歳でした。

「優しい絵ですね。ご家族の団らん。多分ご本人でしょうね。絵を描くと普通、描いてる人と家族と一緒の空間にはいないわけですけど、描いてる自分もその中に描くことによってご自身の大切な家族の中に居たかったということでしょうかね」

伊澤洋は美術学校在学中に召集令状を受けます。

満州ニューギニアと転戦し26歳で戦死しました。

貧しい農家に生まれた洋は入隊する前日、家族への贈り物としてこの絵を描きました。

両親は大切にしていた庭のケヤキを切り学費に宛ててくれました。

綺麗な着物を着た両親。

果物と紅茶カップが並ぶ食卓。

この絵に書かれた暮らしぶりは現実ではなく、博の理想が描かれたものでした。

佐久間修さん。愛する妻、奥様の絵を描かれたのですね」

佐久間修は周囲の反対の中で静子と結婚しました。

1939年に東京美術学校を卒業。

勤労動員先で空襲に遭い亡くなりました。

妻を描いたデッサン。

若き特攻兵を描いた飛行兵立像。

大貝彌太郎は卒業後鹿児島で教師をしながら出撃前の学徒兵を描きました。

「すごく損傷している絵ですね」

死を覚悟した若者。

戦後の歳月の中で無惨に傷ついた絵そのものが戦争の残酷さを訴えかけているようです。

 

戦争が終わって75年。

時代は足早で立ち去り、止まることがありません。

今も無言館の坂を登り、画学生の遺作を運び込む家族がいます。

一人娘だった原昌子さんが夫と共に兵庫県宝塚市から信州にやってきました。

「この画学生さんとの縁は」「彼女の父親です」

「この三点だけを遺しておこうと思って置いていたんですけれど、80近くなって先が心細くなってくるとお仲間の中にに置いていただく方が幸せかなって・・」

絵とともに父の遺書も持ってきました。

お父様は天皇陛下のために死ぬのですから

悲しんではいけません

昌子ちゃんへ。お父様は天皇陛下のために死ぬのですから少しも悲しんではいけません。昌子が大人になって立派になるのをいつもお父様は見ていてあげますよ。お父様が昌子のそばにいなくてもお母様の言いつけをよく聞いて良い子でいるのですよ。お父様は昌子が大好き。

「ちょっと普段ねあのご案内はあまりしてないんですけど、たまにご遺族を見せに行くのです。収蔵庫。飾り切れない絵が収蔵されている時の蔵といいます。

専門の方に作って頂いて貧乏美術館の割には設備をしっかりしてある。

絵を大事にしてある。普段は飾れない絵いはねここに。修復の待合室みたいにこれから修復していただこうかという絵もある」

全体で何点ぐらいあるんですか。

「600点ありますね。資料を全部含めてですね。この絵は特攻隊で16で亡くなった画家学生。石井正夫っていう。修復したいんですけどね。軍艦を作ってんですよ。翌年彼は亡くなるんですけど」

この少年とそんな変わらないですよね。10いくつに見えますよ。

「早く修復して、なんとかスペース探して飾りたいなと思ってるんですけどね」

 

ご家族がずっと大切に持っていた。

「僕は駅伝で言えばね第二走者です。戦後50年。ご遺族が守ってきたのが50年という第一走者。そして今戦後75年ですか。残りの今25年を僕が走っている。実はねもう一つ見てもらいたいものがあったのはちょっと不思議な感じの絵なんですが、この絵は大江正美と言う独学で絵を勉強した男の《白い家》という非常に暗い絵。あの絵の下にもう一つ絵がしまい込まれてたのがこの絵なんですね。その1枚目の下にこの絵があった。2枚。それは非常に対照的な絵でね。非常に暗い鬱の絵がこんなシュールな絵を描いていたって言うことがわからなくてね。修復の先生の所を預けしたら2枚絵はあるわよって言う連絡あって、不思議な出会いでしたね」

日本の絵画修復の先駆者山嶺まりさんが主催するアトリエ山領。

時の蔵に保管されている傷んだ絵はここで修復されています。

絵も一つの物ですから、時間とともに劣化していきます。

遺族から手渡された絵の具は剥落や亀裂が目立ち傷ついていました。

その損傷の修復するのか試行錯誤が続きました。

「こういう亀裂が結構。あんまり目立ってはないんですけど亀裂があって隙間が空いてたので、そういうところにはこかわをさしてこれ以上浮き上がってきたりめくれ上がってこないように接着の強化を行いました。黒っぽい床についた白い汚れが染み付いちゃって白っぽい中雨だれのように縦に垂れたような汚れが全体的に。汚れた水とかっていうものじゃなく、ふんっていう感じがものすごくリアルにそういうのが厭な感じがしたのでそれは丁寧に水で取っていきました」

 

山領まりさんは無言館の絵を守ってきた中心人物です。

損傷をどう扱うべきか。

一般の絵画とは違う独自の方法を模索しました。

最初に手がけた絵の調査票です。

患者のカルテのように絵の状態を記し、写真を撮り、記録を残します。

戦争から半世紀。

既に遺作は無残に傷ついていました。

修復を終え現在無言館で展示されている《編み物する婦人》

「それまではその絵が描かれた当初の状態に近く戻しえないけれども、近づける努力をするのが修復だって考えていたので、なだらかにしたほうがいいんじゃないかなと言って、非常に似た色を作って、少しずつ周りを埋め込んだんですね。そして見たところ、ものすごくわざとらしくて、作品を見やすくするどころか邪魔なものを入れることになるんじゃないかって相談して、みんなとまたもう一度そこの絵の具をとって、非常に鋭角的な欠損のままにしたんです。だから絵が傷んでくるっていう自然の法則みたいな、色々な力が働いてる。その姿なので、中途半端に手を入れて介入するっていうことは本当にその絵にとって命を奪うような感じを受けたので、その時に分かりましたね」

入り口に飾られ、無言館を象徴する《飛行兵立像》の調査票です。

特別に損傷が激しい作品でした。遺族は絵を木枠から外して丸めて保管していました。

「病院で重症患者を受付た時と同じなんじゃないかしら。とにかく必要なことをやるしかない。だから落ちそうな所から落ちないように止めて接着した。損傷したものをそのままの形で止めるなら、そこには損傷そのものも尊重しなきゃいけないってことが本当によくわかる。あの絵に限ってもしかしたら描かれた当初よりも今の方が力があるのかもしれない」

損傷も絵が得てきた時間として尊重する。

剥落は埋めず、亀裂や折れはこれ以上悪くならないよう補修する。

遺族から手渡されたその時の感動を止めて未来へ手渡す。

修復が終わった一枚の裸婦像。

「よく直せましたね。この変形さまで」

「ここからだとわかりにくいですけど、この真ん中の部分は糸を後ろから足して、補強を行った。折れが強い部分ですね。この部分がその強い亀裂のある所。糸が弱って裂けになる可能性がありましたので一本ずつ交互に長さの違う糸を接着してます」

修復を終え展示されている《霜子》。

この絵には切ない別れの物語が潜んでいます。

中村萬平は1941年の春、東京美術学校を首席で卒業しました。

自由闊達で明るい性格の萬平は学生の間でもリーダー的な存在で学生生活をエンジョイしました。

萬平はモデルだった霜子と恋におち、時代の重圧をはねのけるように結婚します。

召集令状を受け死を覚悟して一筆ごとに愛を込め描きました。

萬平の出征写真。

霜子には新しい命が宿っていました

夫を満州に見送り出産しますが、産後の肥立ちが悪く帰らぬ人となりました。

萬平は大陸の前線で長男の誕生と霜子の死を知らされます。

月となった霜子が会いに来たと両親への手紙に書きました。

そして1年後、萬平も26歳で戦死。

入口を入って左と右。

霜子と向き合うようなもう一枚の裸婦像。

モデルの横顔は真剣そのもので、描き手もモデルも緊張で固くなっているようです。

描いたのは万平より1年下で学んだ日高安典。

鹿児島県種子島の出身。

家族の期待を背負い上野の学校に通っていました。

卒業の翌年に召集令状が届き、満州へ出征しました。

上官に認められ軍務傍ら特別に絵を描くことを許されていました。

内モンゴルの大草原を描いた風景画です。

この絵も無言館に掲げられています。

1945年4月。安典は27歳で戦死しました。

無言館が開館して2年後の夏。

無言館には来館者が自由に感想を記すノートが置かれています。

その中に安典の裸婦像をめぐる思わぬ言葉が書かれていました。

「感想文ノートっていうノートがある。そこに安典さん。あなたとあなたの絵に会いにきましたという文章が載っていたのです。モデルを務めたこの女性のテンションをいくらか手を入れてご本人に迷惑がかからない程度に文章にいたしました。

安売りさんへ。安宅さん。日高安典さん。私来ました。とうとうここへ来ました。とうとう今日。あなたの絵に会いにこの美術館にやってきたんです。私もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ。だってもう50年も昔のことなんですもの。安典さんに得を描いてもらったのはあれはまだ戦争が激しくなっていなかった頃でした。安典さんは東京美術学校の詰め襟の服を着て、私の代沢のアパートによく訪ねてきてくれましたね。私は洋裁学校の事務をしていましたが、知人に紹介されて美術学校のモデルのアルバイトに行っていたのでした。あの頃はまだ遠い外国で日本の兵隊さんがたくさん戦死しているだなんていう意識がまるでなくて、毎日毎日私たちは楽しい青春の中におりました。安典さん。あの小雨の降る下北沢の駅で、勤めから帰る私を、傘を持って迎えに来てくれたあなたの姿を今でも忘れていませんよ。やすのりさん私覚えているんです。これを描いてくださった日のことを。初めて裸のモデルを務めた私が、緊張にブルブルと震えて、とうとうしゃがみこんでしまうと、僕が一人前に絵描きになるためには一人前のモデルがいないとダメなんだと。私の肩の絵の具だらけの手で抱いてくれましたね。なんだか私涙が出て、涙が出。けれど安典さんの真剣な目を見てまた気を取り直してポーズを取りました。あの頃すでに安典さんはどこかで自分の運命を感じているようでした。今しか自分には時間が与えられていない。今しかあなたを描く時間が与えられていないと、それはそれは真剣な目で絵筆を動かしていましたもの。それがそれがこの二十歳の私を書いた安典さんの絵でした。そして安典さんは昭和19年夏、出陣学徒としない満州に出征して行きました。できることなら。できることなら、生きて帰って君を描きたいと言いながら。それから50年。それはそれは本当にあっという間の歳月でした。世の中もすっかり変わっちゃって。戦争もずいぶん昔のことになりました。安典さん。私こんなおばあちゃんになるまでとうとう結婚もしなかったんですよ。一生懸命生きてきたんですよ。安典さん。日高安森さん。あなたが私を描いてくれたあの夏。あの夏は私の心の中で、今もあの夏のままなんです」

 

 

戦争ということを伝える同時にあの戦争というあの時代の中でもね、今の彼らと全く変わらない青春があったわけですね。じゃあこの画学生たちは本来。単に、ただ単に戦争犠牲者という館に押し込めておいて、この絵描きたちそのものがやっぱり果たしてちゃんと遇されていると言えるんだろうかっていう疑問があったね。彼らは一番喜ぶのは、やっぱり自分が何を描こうとしてたか。そして究極の、後一週間しか生きてられない。戦争に行かなきゃいけないって言った時に、絵を描くということを持っている幸福。これを伝えるとしたら、戦争を伝えることにあまりこだわっちゃいけない。今生きてるサッカーやったり野球行ったりして燃えてる彼、彼女たちにこそ見てもらうべきじゃないか。簡単に言えば君の命は何のためにあるの。だって、明日生きたい。絵を描きたいと言っていながら生きられなかった人の分を君は俺も生きてるんだ。その時間をどう使えばいいか。そこがすべてじゃないかな」

この人達はやっぱり戦争の中に生きてたけど描くことに喜びを感じたわけですよね。

「ましてやあの時代。絵を描くということ自体が非国民扱いされてた時代ですから、もう飛び抜けたイケメンであり飛びぬけたセンスの持ち主の若者たちなんですよ。決してめそめそして涙流しながら絵なんか描いちゃいないんです。大好きな女性の裸を直視して、一日10時間を費やして戦地に行った。あの濃密な時間っていうのを僕は芸術の根源であると同時に人間が生きていくことに一番尊い時間だった」

アトリエ山領へ。

毎年10点を超える傷ついた絵が運ばれてきます。

時間とともに進む損傷との戦いは終わることはありません。

戦争で画学生の命は断ち切られました。

しかし作品だけは保存し、未来へ伝えたい。

「手強いよ」

忍耐強く誠実な仕事が続きます。

「どういう形で後輩たちに仕事で渡して行くかっていうのは私は半ばに見えてきて希望を持っています」

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7月26日山領まりさんはご逝去されました。



 

取材先など

 

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

 

書籍

 

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 雑誌
 

 

展覧会

 

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新美の巨人たち 横尾忠則×シシド・カフカ…予言的美術展が伝える今を生きるヒント

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新型コロナ蔓延の世界を予見したかのような横尾忠則作品群…話題の最新美術展に見る、これからの時代を生き抜くヒントとは?
▼横尾×シシド・カフカによるリモート対談も!

 

日経おとなのOFF 2020年 絶対に見逃せない美術展(日経トレンディ2020年1月号増刊)
 

美の巨人たち 横尾忠則×シシド・カフカ…予言的美術展が伝える今を生きるヒント

放送:2020年8月1日

 

兵庫県神戸市。
今日は不思議な場所に皆さんをご案内しましょう。
中に入ると、マスクをつけ白衣を着た人が。車椅子にベッド。
病院のように見えます。
でも周りには絵が飾られていますね。
一体どういうことでしょう。
お医者さんに聞いてみます。
「医者じゃ有りません。学芸課長の山本と申します。美術館横尾忠則さんの個展なんです。美術館全体を病院にしてしまおうという。そういうコンセプトになってます」
今開催中の展覧会。
兵庫県立横尾救急病院展。といいます。

仕掛けたのは日本を代表する美術家の横尾忠則さんです。

コロナの時代。横尾さんは自身のtwitterに毎日のように作品を発表し続けています。

世界的なスターの絵にマスク、マスク、前代未聞のマスクアート。

神戸の美術展では開会式に招いたお客さん全員をマスク姿に。
この日は今年1月31日。

コロナの恐怖がまだ今ほど蔓延していなかった頃のマスクパフォーマンスでした。

いったい横尾さんはマスクを通して何を伝えたいのでしょうか。

その謎に挑むのはシシドカフカさん。

「横尾さん自身がこのコロナをどう見て、そして今後どうそれが影響が今後の作品あるのかどうか聞いてみたい」

初めましてカフカと申しますよろしくお願いします。ご自身が体感していること体で感じていることをそのまま作品に表現されてるのかなって

「肉体の脳って言うんですか。僕は肉体の何て言う言葉を勝手に作ってるんですけども、ここ(頭)の肉体じゃない。指先に肉体があるかのような感じで」

横尾さんのいる成城のアトリエとシシドさんのいるスタジオ。さらに神戸の美術館を結んで横尾作品の謎解きをしていきましょう。

実は今製作中の超大作もアフターコロナの世界を描いているそうなんです。

 

 

2012年。横尾さんの生まれた兵庫県に開館した横尾忠則現代美術館。

検温まではどこでもお馴染みですが・・・

もしもの時の連絡先は、問診票。

これに記入します。

手術中のサインや、横尾さん本人のレントゲン写真。

病院でよく見る待合のベンチも。

外来診療案内。

院展なんて聞いたことがありません。

実は横尾さん自他共に認める大の病院好き。

「先生本気になって触っちゃうから痛いです」

少しの怪我でもすぐ医者にかかるそうです。

これまでに、喘息、不眠症、顔面神経麻、痺帯状疱疹、難聴など病歴は数知れず。

日記に血液検査の結果を張るほど体調には神経質なんです。

ではまずこの不思議な美術展から見ていきましょう。

 

 


作品の展示室には小児科や外科、産婦人科など、様々な診療科の名称がつけられています。

入院病棟には横尾さんが経験した病気や怪我そのものを描いた作品が

1970年、横尾さんは原因不明の足の痛みに襲われ入院。

その時の写真をもとに描かれた自画像です。

動脈血栓を疑われ、医師から足の切断をほのめかされたと言います。

こちらは横尾さんの代表作。

Y字路シリーズの一作品。

横尾さんの故郷、兵庫県西脇市に実際にあるY字路の風景。

それを元に様々な体験を描き込んできました。

このY字路には救急車。

中に自身の姿と奥さん。

運転席に敬愛する画家のジョルジョ・デ・キリコ

そして担当の編集者。

どこかユーモラスな雰囲気ですが。
山梨県石和温泉を訪れた時。

夕食でアレルギー症状を起こして救急搬送された時の思い出です。

奇妙に顔がゆがんだ自画像もあります。

実際に顔面神経麻痺に見舞われた頃の絵。

ここ数年横尾さんを悩ませている難聴。

それもテーマになっています。

新聞で定期的に連載している書評なのですが、この回だけ文字が読めない。

難聴で音が聞こえづらい感覚を形にしてみたそうです。

今難聴になっていると伺いましたけれども、難聴がご自身の作品に影響を及ぼしていたりとかはしますか?

「絵の方も何となくもうろうとした絵になってきた。そういう風に描こうとしてなかったんだけれども、やはり体に与えて与えられた影響がそのまま作品に反映するんでしょうね」

横尾さんにとってのご病気だったり怪我っていうのはどんな存在どんな経験ですか

「運命に任せちゃおう
病気になる病気も


これも運命じゃないかっていうその病気で苦しい


とか言いたいっていうこととは別に


そのことがその後の人生にとって


とってはあの必要


だったような気がするんですよね


だからまた病気を操作すれば


俺もチャンスか


なあなんて病気はチャンス


横尾さんは病気をするたびに


それを創作の力に変えてきたんです


いったいなぜ幼い頃から体の弱かったよ


ごーさんさん歳の時


呉服商を営むお家に


足にもらわれて育ちました


家にこもって絵ばかり描いて


ご歳の頃には絵本の挿絵を緻密に模写


するまでの腕前に


得意の絵を活かせる仕事として選んだのが


デザイナーでした


独特な色彩と構図のポスターは


アングラ演劇界を


当時の若者の絶大な支持を得て行きます


1968年モダンアートの殿堂


ニューヨーク近代美術館


横尾さんのポスターは


時代を代表する作品に選ばれました


その名は世界に知れ渡りますとして


人気絶頂だったよん


じゅーご歳の時よこさんは


デザイナーとしてだけでなく


画家として独自の道を歩み始めるのです


では再び頭の横尾救急病院展


小児科と名付けられた展示室には


幼稚園の運動会の思い出を描いた


懐かしいベーコンの


会合私にアイスクリームを食べる


少年時代の横尾さんと優しく見守る父親の姿


でも仲睦まじい絵をただ描くだけでは


やはりないですものね


その周りにある私には


その日に見えるんだけど


炎に包まれているように感じるのだったり


赤く染まる街並み


これは1995年の神戸の震災の


様子ですキャンバスの上に目をやると


人ですねお顔が見えます合成の写真


まるで死者の魂が浮遊しているかのように


コラージュされています


両親が僕が養子に行った頃には


もうすでにごじゅー台の後半だったから


まあ老人ですね


昔のごじゅー代後半って言うと一般の人


の親よりも早く死ぬんじゃないかって言うね


そういう親がいなくなる恐怖症ってのは


随分ありましたね


そういったものがまだ戦争の恐怖が結びついて


いい子に対して恐れて言うのか


それがどんどんどんどん

受け付けられたような気がするんですね

絵の中には耳や指など

やはり病気や怪我に犯される

肉体の部分が描写されています

肉体はいずれ滅びる

横尾さんは病気やケガを描くことで自分が死ぬということをずっと追求してきたんです

今横尾さんの関心を捉えて離さないのが

全世界でおよそ65万人の死者を出している新型コロナウイルス

今回のそのそういうこと

コロナがなんかこう

横尾さんの創作絵に与えた影響っての

やっぱり大きいですか

今頃なって言うと

やはり非常に恐ろしい存在じゃないですか

みんなが自分のせいか人生の中あるよ

創作の中でね

しっていうものをかなり積極的って言うのか

消極的もひっくるめてあの子と無関係では

売れなくなったなっていう感じがしますね

そのコロナを通して

僕他の色んなしっていうことでも

興味が出てきたんじゃないかな

操作食ってるなあのしっていうものと

僕の中では深く結びついてるんですよね

だからあのこれは逆にあの

コロナ利用できるんじゃないか

みたいなところもあると思うんですよね

むしろコロナと共存することによってね

ネガティブパワーを肖像っていう

あのポジティブなパワーに
それを切り替えるって言うのか

それを逆に利用するっていう

そういったことで

新型コロナウイルスの二の力を

取り入れるこれは中国のあの方

繊細な削り出しの技が

一筋一筋に魂を宿す

純粋な美しさをさらに引き立てる

 

 

 


横尾さんがtwitterを通して積極的に発信し続けているシリーズがあります。

自らデザインしたマスクの絵を中国の歴史的な指導者毛沢東肖像画にコラージュしました。

アインシュタインにも真っ黒

他にもビートルズやdavid_bowieなど

withコロナというシリーズ作品

横尾さんの過去の作品や実際の写真を加工した前代未聞のマスクアートです。

あの遊びの要素を入れて


ユーモアな要素を入れて


それでそのマスクを


一つのメッセージに並んで来ないかな


と思ってコロナをと対立するんじゃなくって


コロナと共生共存っていう形で寝て


逆にコロナを対象にして作品を


作っていくこれもね


今までの僕の中にない発想で


実は旅行さんが


マスクを作品として取り上げ始めたのは


にじゅー代の時でした


マックが当たり前になる世界を予言したかのように

神戸市の横尾忠則現代美術館

今開催中の旅行救急病院店産婦人科にも

コロナの世界を予言したかのような作品が展示されています

チェックナレーションという一連のシリーズに

たくさんの天使が描かれていますよ

横尾さんにとって天使は創作にインスピレーションを与えてくれる大切な存在なのだとか。

1991年に発表された放たれた霊感でも天使は想像の女神として描かれたはずでした

しかしなぜかへの上には中国の万里の長城

北天使はピストルを持って描かれました

今この作品を見ると

まるで新型コロナウイルスと戦う

白衣の天使のように見えるそうです

ピストルの中に込められた魂っていうのは

インスピレーションなんですよ僕ん

だけどね芸術の天使なんですね

でも今のこのころな時代と重なって

考えるとねあの白衣の天使としてのね

存在にこの頃な時代に

変わってしまったと思うんですよね

別の中には

そういうシンクロニシティってな

しょっちゅう起こるんですよ

芸術とは見る人の心や時代を

映し出す鏡のようなものです

ある作品が後の世界を正確に予言した

かのように

突然重要な意味を持ち始めることも多いので

東京世田谷の横尾さんのアトリエはちじゅーよん

歳の横尾さんが超対策に挑んでいます

手が空いているのは

コロナの危機が去った後の世界

それもまた


予言

 

 

 

 


84歳を迎えた横尾さんが新作に取り組んでいます。

縦2メートルもの巨大なキャンバスが何枚も連なるテーマは千年王国

コロナという全人類共通の危機。

それを経験した様々な人種の人々が思い思いに過ごす様子を描いているそうです。

横尾さんが見据えるアフターコロナの未来とはま

今回のコロナで出来なくなった事が多かったりだとか

みんながその自分の死生観というものを考えたりだとかその出来なくなったところから

自分は何がしたいんだろう、どうしていくべきなんだろうって考えることがなのかなっていう風にも胸が

この時間が学校

かけがえのない時間のように感じるように

みんながなってきたんじゃないかと思うんですよね。だから今まで未来って言うと、それぞれ人の中でいろいろの時間軸があったけども、今はなんか全部一つの未来ってのは怖いですね一斉にみんながね、ある日突然地上から、地球上からいなくなる可能性だって出てくるわけですよね。

そうですねこの中がない時代にはそういうものの考え方はしなかったと思うんですよね

個人で色々考えたりするけど

なんか今年、地球だけで同じような考え方になってますよね

戦争は休戦しましょう何ていうそういうあのあれが決まりました

けれどもそのぐらい

戦争まで止めてしまうところだって

言うな先生に強いんですよ

やっぱり自分のことだけじゃなくて

他者をどう思う行動するかっていうのが今回ものすごみんな考えたところ

何がそこでじゃ
どうやこれは

これからの大きなテーマになってくるんでしょうね。国と国との戦争も、

人種間の諍いも


よこさんの予言する未来では


なくなっているのでしょうか


そこに現れる王国はひゃくえんなのか


それともコロナの醸し出す府の力を


一瞬でポジティブに変えてみせる


それが横尾忠則のアートのチカラ

 

 

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「狩野派学習帳 今こそ江戸絵画の正統に学ぼう」【アートシーン】

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狩野派学習帳 今こそ江戸絵画の正統に学ぼう

室町から幕末に渡り400年。
日本美術を牽引してきたのが狩野派
個人の才能による質画よりも模写を重ね伝統を守り続ける学画を重視し安定感のある筆使いを追求してきました。
「江戸絵画の人気が定着して、びっくりするような作品ですとか、強烈な個性を持った絵師達が注目されていますけれども、狩野派の確かな筆の力。古典の学習を重ねた魅力。様式を統一したことなど幕府の信頼を一身に受けて活躍し続けていきたと言った狩野派の魅力を改めて知って学んでいただく機会になればと考えております」
江戸絵画の正統であり続けた狩野派の魅力に迫る展覧会です。
狩野派の始まりは室町時代、京都にいた狩野正信。
水に浸かった枯れた蓮にしがみつく一匹の蟹。
蟹の甲羅の質感は繊細な筆遣いであり中国の滄州画を模写した可能性が高いと言われています。
中国画の筆使いを体得した政伸の学習の一端が感じられます。
江戸幕府に仕えた狩野探幽
伝統を学ぶ一方独自の様式を展開していきます。
空白の中に富士山や三保の松原などがあっさりと書き込まれています。
探幽はあえて多くを書き込まず、余白によって表現する瀟洒淡麗な江戸狩野派様式を確立。狩野派の全国制覇の基礎を固めました。
狩野派の元には多くの絵師が技術を学びに来ました。
その一人が逸見一信。
源平合戦を描いた屏風絵。
左席には屋島の戦い。右席には一ノ谷の戦い
華やかな金地の中色彩も鮮やかです。
細かく描き込まれた源氏と平家の武者たちの姿。
波の表情まで丹念に描かれています。
この屏風の裏には源氏と平家の領有を示唆しているのか、龍と虎の姿が描かれています。
墨の濃淡を使い分けた龍の躍動感や、にじみを生かした虎の模様の描写。
様々な技法が見受けられ狩野派の伝統の技が伺えます。
東京の板橋区立美術館で8月10日まで開かれています。

 

会場:板橋区立美術館

会期:2020年7月11日~8月10日

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月岡芳年 血と妖艶

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月岡芳年 血と妖艶

月岡芳年(1839~92)は、幕末から明治時代前半にかけて活躍した浮世絵師です。当時も大変な人気を誇っていましたが、その迫力あふれる構図や鋭い筆遣いは、現在の私たちが見ても決して色あせていません。本展覧会では、「血」「妖艶」「闇」という3つの妖しいキーワードから、月岡芳年の魅力を掘り下げます。展示点数は約150点。前期と後期に分け、全点展示替えをいたします。

 

 

月岡芳年 血と妖艶

会期

2020年08月01日土~08月30日日 、09月04日金~10月04日日

開催

太田記念美術館

月岡芳年 血と妖艶 | 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art

 

関連情報

 

書籍

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 雑誌
 

 

展覧会

 

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「ミクロコスモス あらたな交流のこころみ」【アートシーン】

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ミクロコスモス あらたな交流のこころみ

身の回りの世界を美しいガラスで表現した展覧会です。
日常に広がる世界の美しさや力強さをガラスという素材で製作していきます。
スウェーデンで活動する言上真舟の作品。
ガラスの破片をつなぎ合わせドレスやランジェリーなどのモチーフを製作しています。
美しさと壊れやすさを併せ持つガラスという素材。
それは美しさのみならず、喜びや虚栄心。執着などの感情を想起させます。
富山県富山市ガラス美術館で9月22日まで。

 

会場:富山市ガラス美術館

会期:2020年2月29日~9月22日

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