全国のハンセン病療養所内の絵画サークルのなかで高い評価を得てきた絵画グループがあります。
熊本県にある菊池恵楓園の金陽会。1953年の発足以来850点の作品が生み出されました。
東京・東村山市にある国立ハンセン病資料館 2F 企画展示室で今年展覧会が開かれました。
制作したのは10名の入所者の皆さん。
病気、障害、療養所の制度などにより、生活全般が大幅に制約された境遇のなかで生み出された作品です。
そこから見えてくるものとは。
日曜美術館「光の絵画~ハンセン病療養所・恵楓園 絵画クラブ金陽会~」
放送日
2019年11月17日
不条理の中でその人たちは力強く絵筆を握りました。
国の誤った政策で不当に自由を奪われたハンセン病の人たちです。
56年前、彼らは絵画クラブを結成しました。
想像を絶する暮らしの中で描いたのは
ふるさとの山や、
生命力あふれる生き物たちの姿です。
その絵は近年、純粋な美術作品として高い評価を受け、
各地で展覧会が行われています。
作家小野正嗣さん。
ハンセン病の人たちによる文学には触れてきましたが、絵を見るのは今回が初めてです。
「根拠のない差別を受けていた人たちが描いた。そうとた人たちが世間に対して怒りを抱いて当然だと思いますが、怒りってものが感じられない。むしろ世界を肯定しているし、
見る僕たちを受け入れてくれている。だから気持ちが落ち着くと言うんですか、息がしやすくなるって言うんですか、感じられる絵だと思います」
絵がどのように生まれたのか。誕生の地を訪ねます。
ハンセン病療養所菊池恵楓園です。
全国で最も大きかったこの療養所には昭和30年代1700人を超える患者が暮らしていました。
国内の患者全てを社会から隔離するとした国の方針によるものです。
劣悪な環境の雑居部屋での集団生活。
患者たちはたとえ病気が治っても自由に外出することさえ許されませんでした。
こうした隔離政策は平成8年にらい予防法が廃止されるまで続いていました。
絵画クラブ金曜会のリーダーを長年務めてきた吉山安彦さん。
吉山さんは仲間がおよそ半世紀にわたって描いてきた
作品を保管してきた守り人。
今絵を書き続けているのは吉浜さんただ一人。
体力が許す限りこのアトリエで絵筆を握っています。
今取り組んでいるのは80号の新作《海辺の月夜の風景》です。
「もうこれでできあがってしまってでも、あーこんなふうどゃだめだねと繰り返して何十年もやってきた」
絵画クラブ金曜会には個性豊かな仲間が集まっていました。
「入江さんはご夫婦。旦那さんは写真家。
花の絵を描いていた」
「森繁美さん。阿蘇に行った。根子岳を描きたくて。ところが彼はうろうろして、スケッチブックを持って行ったのに描こうとしない。
なぜ描かんのか、描きなと言うと、とてつもない絵ができあがった」
病の後遺症で手が不自由だった森繁美さん。
絵の具をチューブから直接塗りつけていました。
大胆な色使いに明るくひょうきんだった森さんらしさが溢れています。
「木下さんはとてもいい作品を描いていた」
小学校に一年しか通えなかった木下今朝義さんは、思い出の遠足を八十歳を過ぎて描きました。
この作品には吉山さんも関わったのだとか。
「赤い子供たちがずっと繋がっていた。悪坊主がいるから離れたところもある。ちょこちょこ空けたらと言った。あの人はなかなか人の言うことを聞く人ではなかったが、それだけは後でちょちょっ間を空けていた」
もともと子供たちの列は隙間なく描かれていたと言います。
アドバイスを受けて塗り潰した跡が見て取れます。
傑作誕生の知られざるエピソード。
仲間と切磋琢磨し、ひたすらにキャンバスと向き合ってきた金曜会。
それは不条理の中で吉山さん達が見つけたかけがえのない居場所でした。
昭和6年に制定されたらい予防法は全ての患者を療養所に収容する隔離政策の始まりでした。
吉山さんが恵楓園に入所したのは昭和22年。
当時17歳。
突然壁の中に閉じ込められた吉山少年は首を吊るための木を探したと言います。
「ここへ17歳で入ったとき、精神的にパニックになっていた。この世から 消えたい思いでいっぱいだったけど、ちょっとしたことから大部屋の中でね、いろいろ聞いてみたら、みんな死ぬことばかり考えていた人たちばかりだったことがわかったんですよ。みんな同じ道をたどってきたから」
入所6年目に絵画クラブが誕生します。
時間を持て余していた吉山さんはその最初のメンバーとなりました。
当初メンバーの描く作品には暗いものが目立ちました。
先が見えない療養生活を映し出すかのようでした。
1950年代希望の光が差し込みます。
アメリカ発の特効薬プロミンが日本にも輸入され、ハンセン病は治る病になったのです。
療養所内の女性と結婚していた吉田さんは、誰も自分たちの過去を知らない大阪で働くことを決意します。
タクシー会社の採用試験を受け見事合格。しかし、
「是非とも免許取ったばかりのあなたみたいな人が欲しい、奥様も子供も会社が面倒見ますからってとてもいい条件をくださった。私は子供がいないということをいえなかった。子供の問題が出てきたところで私はだめとおもって諦めてしまって」
当時ハンセン病の患者は子供を持つことを法律で禁じられていました。
吉山さん夫婦も堕胎手術を強いられていました。
子供がいないことで過去が知られ偏見にさらされる。
そう考えると足がすくみました。
これからどう生きていけば良いのか。
吉山さんは行き場のない想いを絵にぶつけます。
《捨てられた風景》有刺鉄線ごしに廃屋が描かれています。
うち捨てられ壊れた土管の上にとまるのはカラス。鋭い目で激しく睨みつける姿は吉山さんの自画像です。
療養所と社会を隔てる厚い壁を描いた《ひだまり》。
外から舞い込んだコジュケイの親子。暖かそうで良かった。でもこっちは地獄だよ。そう呟きながら描いたのだといいます。
最果ての地に立つ一本の黒い木。
押さえ込んでいた怒りが燃え上がるままに絵筆をとったという作品です。
社会の不条理に対する怒りを象徴的に描く吉山さんの真骨頂です。
収納庫でとても印象的な絵に出会いました。
「馬の母と子ですよね。馬の体から光が放たれている。乳を与えている母は幸せそうじゃないですか。
乳を与えている幸福を感じていて、幸福感、喜びで体が輝いてている」
今日は失礼します・・・その作家は介護を受けられる施設の部屋に一人で暮らしていました。
矢野悟さん。ハンセン病の後遺症で2年前から目が見えなくなりました。
「絵を拝見しました。素晴らしい絵で」
「恥ずかしいばかりです。落書きみたいな絵で好き勝手に。でも絵が好きということは間違いありませんけど。ただそれだけで描いている」
絵は一人で学んだのですか。
「こういう風な立場で絵画教室とか美術学校とかそういうのと縁がありませんので自分で考えて描く。美術館を見に行ったり、街でも個展がありますので、人の絵を観たり、そういうのを吸収して学んだというか、勉強したということです」
矢野さんが恵楓園に来たのは10歳の時。しかし故郷の家族に仕送りをするために逃亡します。
見つかって施設に連れ戻されることに怯えながらの暮らし。
体調を崩しても病院に行くことはできませんでした。
「その間というものは、外の病院にはいかれんわけですよね。黙って内緒にしているから、隔離っちゅうものがあって、偏見差別というのが頭にあって、外の病院に行けば傷薬もあろう。何の薬もあるけどそれが行かれんわけです。何か買いに行こうかと思っても行けれんわけです」
長年の無理がたたったのか三十代に入った頃ハンセン病が再発。
治療薬を求めて恵風苑に戻ります。治療に専念すること2年。
そこで出会ったのが絵画クラブ金曜会でした。
元々絵が好きだった矢野さんは瞬く間に描くことの虜となります。
当時描いた自画像。虎。自分の道は自分で決めると猛々しく歩む虎。
その眼差しはまっすぐ前を見つめています。
「夜中も起き上がってやろうという気持ちがあるもんですから、飯も食わんでやろうというものがあるもんですから、自分の気持ちの法がせきたててくるんだけん。もうずっと描きよっても描きよっても止めるところがないわけですよ。もうここまで行け。もうちょっとここまで描けといって時間がどんどん過ぎるばかり」
やがて生み出された作品が《母子》。
収蔵庫で小野さんの心を捉えたあの絵です。
子馬が母親の乳を飲んでいます。
乳を吸われる母馬の穏やかで優しい目。
光を放つかのような毛並みには紫。
水色、黄緑など無数の色が散りばめられています。
「私は親子とか、子どもとかそういう風な、ああいうふうな奴がなかなか目に入るんですよ。こういう風なものが私は描きたい。こういうふうなものをやりたいというのがたいがい行きます。やっぱり母親と私は、私が10歳の頃からもう離れましたからね。親は離れたくない。私も離れたくないけど、離れないわけにはいんという、さっき言いました隔離みたいなね。強制で、嫌とかなんとか言えんわけです。母親の最後の顔を私は覚えてとるが、はー辛いかっただろうねと。馬の場合でも親子の形も、どげな構図で描こうかと思ったけど、親のやっぱおっぱいを飲ませて、子どもの本当、すくすくと育っていく。そして親もそういう気持ちでいる子どもを眺めながら、親子の絆の深さがにじみ出ておりますから。そういう風なものですからね」
今も療養所の周囲には隔離政策の名残をとどめる壁が残されています。
「この壁は、吉山さんの《ひだまり》の絵の中にも。吉山さんの絵の中にも壁があって、
そこに鳥の親子がきててそれを絵で描いたじゃないですか。でも鳥はまた壁の向こう側に行こうと飛び立つことができるかもしれないけど、それを見ている入所者の方は、絵を書いてる吉山さんはずっとここにとどまり続けなくてはいけない。時には絶望とか、悲しみってのがここの壁にぶつけられていた。
この壁には入所者の人たちの気持ちっていうものがこの中にはきっと染み込んでいる気がします」
人生をかけて金曜会の作品の保存に取り組む女性がいます。
藏座江美 ( ぞうざえみ )さん。*1一枚一枚の作者や年代を確認し、絵が描かれた背景などを調べ記録に残しています。
金曜会との出会いは16年前。
学芸員として勤めていた美術館でその絵を純粋な美術作品として紹介した展覧会を担当したことでした。
四年前からは美術館を辞め、今の仕事に専念しています。
今調べたい絵があります。奥井喜美直さんが描いた壺の絵です。
「奥井さんて、変哲もないものと言うかあまり皆さんがモチーフとして描かないようなものを描かれてることが多くて、なんかすごく不思議だったんですよね。背景といい壺の存在感と。何を入れてたんだろうみたいな」
10月藏座さんは奥井さんの故郷奄美大島を訪ねました。
奥井さんの八歳年下の妹です。奥井さんは金曜会の初期からのメンバー。壺の絵は七十歳の時に描いたものでした。
「島の壺。うちにあった。懐かしい」
「良かった」
「これはやっぱり終戦後に各家庭で豚を一頭ずつ殺して、それをラードにしてね、保存して、1年間それで野菜炊いたりお素麺炊いたりお汁たいたりしてね、そういう今の調味料なの。そういうことをしてたから兄も思って懐かしくて描いたと思うんだけど」
「何かこう思い出のある壺を描かれてたのかなーって思ってたからやっぱりじゃあ家にあったやつ」
奥井さんが描いたのは床の間に置かれていたラードの壺でした。
14歳で発病し家から出ることを禁じられた奥井さんはこの壺があった部屋で長い時を過ごさざるを得ませんでした。
「たまに兄がストレス溜まってか知らんけどソテツの実を投げてね、大きな声で叫んだりそんなにしてた。病気で離れ離れなって、涙で別れてね。病院に行ったんだけど。それがね。絵になって兄の心が現れてきた。初めて見たときに涙が出た。絵を描くことに満足したんだろうね兄は。病気で孤独だったから」
隔離され、離れ離れになって70年。
知りたくても知ることができなかった兄の人生が、絵の向こう側に少しだけ見えました。
金曜会の作品は療養所の様々な場所を彩っている。そう聞いて案内お願いしました。
まずは図書室。
玄関にあったのは鮮やかな自然の風景。
廊下にも作品が。「木下さんかね」
「これは入江さん。モジリアニみたいな」
リーダーの吉山さんの絵も飾られていました。
不条理への怒りが迸っている作品とは趣が異なります。
静かな青い色に包まれた幻想的な世界。
こうした作品は吉山さんが70代に入ってから本格的に描かれ始めます。
いったいどんな心境の変化があったのか。
「園外の人たちに見せることができたという喜び、そして、なんか皆さんの作品が高く評価された喜びでますますファイトが出てきた」
この頃金曜会は熊本市内で定期的にグループ展を開くようになっていました。
壁の外の世界との初めての本格的な交流です。そこから金曜会の代表作ともいえる傑作が生まれます。
意欲を刺激されたメンバーたちがそれぞれの個性をさらに磨いていったのです。
「大山さんなんかは変わった絵で不思議な絵を描きよらしたからね。自信を持って描きよる。むしろ私なんかの絵の方が暗い感じで、なんか人があまり見向きもしないような土管とかなんとか。そういうのばかりに心を奪われて描いたから。私は学ぶ方が多かったですよ。色が綺麗で純粋だし、もう心が濁ってないんだろうなそういうことを感じた」
「ご自身の絵には濁りがあるって思ったんですか」
「はい」
「できるだけ濁らさないように一生懸命になった。明るい色を明るい色をと意識してから」
地元阿蘇の星降る月を描いた《夕すげの咲く頃》
仲間の先頭に立ってきた吉山さんが、その仲間の絵から学び、切り開いた新たな画風。
鮮やかで命の喜びにあふれています。
昼下がり。2年前に視力を失ない、絵を描けなくなった矢野悟さんです。
近くで精肉店を営む吉村レイ子さん。
40年ほど前に矢野さんと知り合って以来、しょっちゅう部屋に遊びに来ています。
吉村さんが見せてくれたのは一冊のノート。
矢野さんが作品を描くたびに、日付やテーマ大きさなどを1行ずつ記してきた制作の記録です。
「あなたが死んだときに棺に入れて燃やすのはもったいないから、これは私がもらいます」
記録は225番で止まっていました。
「白紙のページを見ると胸が詰まります」
誰よりも矢野さんの作品のファンである吉村さん。
「こんにちはいらっしゃいませ」
自宅にあるコレクションを見せてもらうことになりました。
所狭しと並べられていたのはすべて矢野さんの作品です。
「あれはハチといって、うちの犬なんです。その横の子供が立ってるのがうちの次男。どんな波にも打ち勝って欲しいて言う、そういう気持ちを込めて描いてもらったような感じなんですよね。これが私の家のハチです」
家族ぐるみでお付き合いをしていた矢野さん。
絵のほとんどに吉村さんの家族が登場します。
「これは県美展に出された絵。長男の長女とハチが登場する。どれだけ矢野産がハチをかわいがっていたかがわかりますよ。子供達も可愛がってもらったけども、矢野さんそのものの人格がやっぱ家とも溶け感じですね、患者さんとか、商売のお客様とかという感じじゃなくて人間同士の家族のあり方であったり、家庭的な温もりというのが凄く嬉しかったんでしょうね」「こどもたちすごく可愛がってもらっていた。下の二番めなんか特に」矢野さんの部屋には一枚の絵が飾られています。「テレビの上に絵がありますね。水彩画ですかね」「目が見えよるときだったから七年か八年前でしょうかね」矢野さんの目が見えなくなる前、最後に描かれた水彩画です。そこにはあの家族の姿が。家族を持たなかった矢野さんが絵を通して育んだ確かな絆。「あ、ありますあります。きれいに片付けていますね」「私は今日もありがとうという気持ちで、後はいつも好きなときに描かれるようにとしてました」「筆が手にとってもらえるのを待っている感じがします」「私はいま目が見えないのでこんなことをやってますけど、絵のことは忘れたことがないです。いつも頭で考えている時に頭は休んでおらんですよ。毎日私は絵を描きよります」金曜会のリーダー吉山さんには仲間と交わした約束があります。死ぬまで絵を描こう。
取材先など
キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展(国立ハンセン病資料館): 呆け天残日録
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