「鏡を使って自分を見ても迷うばかりだ」という斎藤緑雨*1の言葉。
鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。(緑雨警語:霏々刺々)
映画「イノセンス」で「てめぇのツラが曲がってるのに鏡を責めてなんになる」とバトー*2が放った言葉にトグサ*3が応えた場面で使われました。
不意にこうした台詞が耳に入ると、その意味するものとは何か?凡夫は真剣に考えてしまいます。そこが監督の狙いのようで、押井守監督は、内外の箴言(しんげん:アフォリズム)を多用する理由を、箴言の持つ完成度はシナリオに勝るとしています。
劇映画の台詞って退屈ですよね。ほとんどが説明やなりゆきで。それが嫌だった。ちょっとした人物が吐く台詞も何物かであってほしい。言葉を機能させたかった。
考えてみると、強い存在感を持つ箴言は制作者にとっては作品の完成度を高める上で欠かせない魔法の調味料のようなものかもしれません。こうした使われ方は今も数多くの作品に見ることができます。機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズで使われる「阿頼耶識システム*4」という用語もその非一例かもしれません。この言葉は仏教用語で「究極の識」なのだそうです。
我々はふつう六感という精神作用をもって暮らしています。すなわち眼、耳、鼻、舌、身、意の六識です。唯識論はその先に第七識たる「未那識(まなしき)」というものを立てるのですが、これは自我(個人的自我の意識すべてを含む)とされています。ところが唯識はここにとどまりません。その先に「阿頼耶識(あらやしき)」という究極の識をおいているのです。我々が生きているということは、アラヤシキが活動しているということに他ならないのです。
アニメの水準はかなりややこしい世界に入り込んでいるようです。
緑雨の箴言は冨山房百科文庫41「緑雨警語」中野三敏 編(冨山房)から出ている事を知りました。古書が安く手に入ったのでページをめくると75頁にありました。
鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり