日本の家の今を考える時出発点となる家があります。
迎えてくださったのは八木ゆりさんです。7歳からこの家で育ちました。
建築家、清家清が1954年に建てた自邸。名付けて「私の家」です。
所在地 東京都大田区東雪谷
敷地面積 182平米
建築面積 50平米
延べ床面積 70平米
構造規模 RC造 地上1階地下1階
竣工日 1954年10月
戦後日本を代表する建築家の一人清家清は多くの弟子を育てたことでも知られます。
30代なかばで両親の家の敷地に建てたのがこの家でした。
ゆりさんは清家の長女です。
「どうぞこちらに。あの、玄関がないのですけど、一応ここが玄関ということになりますので。石がつながっているような感じで」
耐震壁を建物中央に後退させたこの建物は。入り口が広く採ってあります。そのため室内と戸外が有機的に結びつけられていて生活が大気の中に溶け込んでいるようです。
「庭とひとつづきですね。開放感があります」
「全部がひとつづきになります」
「私の家」は50平方メートルのワンルーム。 部屋の中には耐震壁のほか仕切りがなく、ドアが一つもありません。ここに夫婦と子ども4人が暮らしたそうです。
玄関も個室もないという設計。背景には時代の状況がありました。
終戦後420万戸もの住宅が不足していた日本。やがて復興が始まると政府によって持ち家政策が進められます。とはいえ公的融資は面積15坪。およそ50平方メートルまでに制限されていました。
その面積で豊かな空間をどう作るか。清家はワンルームという前代未聞の答えを出しました。
「ここは父の書斎でもあり、畳の台の上で子どもたちが遊んだり、みんな大きくなると寝る場所がないのでここで寝ていました・・これは動くんです。夏の盛りのときは外に出したりしてみんなで夕涼みしていました」
「季節に応じてしつらえていったのですね」
「父はしつらいという言葉が大好きでした」
しつらい。目的に応じて建具や調度などで部屋を仕立てるという意味です。
暖かい季節には開け放って庭と一体の空間で暮らしました。
この家はトイレにも扉がないことで有名になります。
そこには民主的な家族の姿を模索した清家の理想が込められていました。
「父が朝髭を剃りながら、私がトイレに座っていると、今日は何をするんだいみたいなことを聞いて、学校でこういうことをするのとか、コミュニケーションとか話をして。多分父は家族の中で嘘をついたり隠し事をするのはあまりいいことではないので、隠すようなものはないはずなのだからトイレにべつにドアがなくてもいいじゃないかということでした」
その後「私の家」には結婚したゆりさんの一家、続いて妹の家族が暮らします。ここで三世代7人の子どもたちが育ちました。
清家は「家とは単なるハウスではなくホームであるべきだ」と語っていました。
妻がなくなった時、この家について印象的な言葉を残しています。
「ぼくは私の家という作品の名前を付けたけれど、結果的には母がなくなったときにですね、ここは私たちの家であったと思いますといってました」
戦後10年足らずで住まいの常識を打ち破った「私の家」。清家清の冒険はその後の実験的な住宅の出発点となりました。