600枚に及ぶ膨大な浮世絵を集め模写したり、
背景に浮世絵をちりばめた不思議な肖像画を描いたり・・・。
一度も訪れたことのない日本と密接にかかわる傑作を多く残した。
「なぜ日本?どこにひかれたのか?」
女優・吉岡里帆が、フランス、オランダでゴッホの足跡をたどる。
絵のモデルの子孫の証言、入院した精神病院に残された手がかり。
ゴッホは日本の夢を見た
放送:2017年11月3日 再放送:12月16日
日本に抱いた大きな夢
「その人の絵を見るたびに、私には鮮やかな色彩が心にしみました」
フィンセント・ファン・ゴッホ、炎の人。狂気の天才。
狂気の天才とも呼ばれた19世紀のヨーロッパを代表する画家です。
気になっていたのはゴッホの作品の中に日本が登場することです。
ゴッホはこんな言葉も残しています。
「私の絵のすべては日本の芸術の上に成り立っている」
浮世絵に魅せられた画家と思っていたら、
ゴッホはもった大きな夢を日本に抱いていました。
「暗く閉じられた時代に鮮やかな浮世絵は輝く光に見えたのだろう。
彼は社会に光をともしたいと思ったに違いない」
ゴッホの絵のモデルの子孫はこう言います。
ゴッホが見た夢の答が一枚の傑作に残されていました。
ゴッホの日本へいっしょに旅しませんか。
「ゴッホは日本の夢を見た」
絵描きたちの街・パリ
パリにやってきた吉岡さん。
オランダ生まれのゴッホが初めて日本と出会ったのがこの街でした。
絵描きの方々が路上にたくさんいる。
ゴッホが住んでいた当時からパリはヨーロッパの芸術の中心地でした。
絵画が文化として根付いています。
オルセー美術館
印象派の作品を中心に19世紀の傑作が揃っているのがオルセー美術館です。
「ローヌ河の星月夜」。
川のほとりの男女を星降夜空が彩ります。
ゴッホは独特の色の載せ方で感情を伝えることに審決を注ぎました。
青や黄色の他にオレンジや白など何種類もの色を使っていました。
ゴッホの36歳の時の自画像。
ゴッホが画家になったのは27歳の時。
遅咲きでしたが、なくなるまでの10年間で2000以上の作品を残した。
その短い期間に画風を進化させています。
原動力になったのは日本だったと言われます。
手がかりとなる作品
ロダン美術館。
ゴッホが日本にどう影響を受けたのか手がかりになる作品。
「タンギー爺さん」パリで小さな画材店を営んでいた、ゴッホの知人の肖像画です。
背景が浮世絵です。異質な感じが伝わってきます。
肖像画といえば、貴族や権力者が発注し、描かせたもの。
人物を際だたせるため背景は暗く描くのが一般的でした。
しかし、この作品は異なります。
背景にはタンギーと関係のない鮮やかな日本の浮世絵が並べられています。
「喪服のショールをかぶった女性」
オランダ時代のゴッホはまるで正反対。
暗い色で陰影を強調しながら貧しくても懸命に生きる市井の人を描いています。
なぜ、日本の絵を敷き詰めて背景を明るくしたのでしょうか。
美術館にゴッホが生前大切にしていたものが保管されています。
日本版画のコレクションです。
パリで660枚もの浮世絵を購入したといいます。
タンギー爺さんの背景に描かれている浮世絵もあります。
美術館の調査で、タンギー爺さんの背景にある絵のうち三枚が
コレクションの中にあることがわかりました。
ゴッホはいったいどこで手に入れたのでしょうか。
1880年代、ヨーロッパではジャポニスムがブームとなりました。
ゴッホは、浮世絵を扱う店に入り浸り、
在庫が積まれた屋根裏部屋で安く手に入る作品をあさり続けたといいます。
浮世絵との出会いがゴッホの絵を変化させた。
「1887年の終わりに、ゴッホは三点の浮世絵を油絵で模写しました。そんなことをした画家はゴッホしかいません。
一つはこの広重の作品です。 広重が得意とした大胆な構図。
ゴッホは一つとして逃すまいと必死に模写しました。
西洋ではありえない赤い空を写しながら、
ゴッホは鮮やかな色がいかに絵を豊かにするか目覚めました。
タンギー爺さんの謎
タンギー爺さんの背景の浮世絵にはゴッホの思いが込められているのでしょうか。
パリの郊外。
タンギーさんのことをよく知る人物が見つかりました。
ピエール・モーランさん。 タンギーの妹のひ孫です。
「浮世絵は単なる飾りに過ぎないと思ってました。
ところが調べてみると二人は単なる画材屋と客との関係ではありませんでした」
二人の人生にはともに暗い影がありました。
貧しい家庭に生まれ、仕事を転々としていたタンギーは
40代の時ある活動に身を投じます。
生活に困窮した市民が放棄したパリ・コミューンです。
しかし、試みは失敗。タンギーは投獄され2年間を牢屋で過ごします。
いっぽうゴッホは1853年。オランダ南部の裕福な家庭に生まれます。
幼い頃から気難しい生活で周囲に馴染むことができませんでした。
社会に出ても諍いが絶えずいくつも仕事を変えています。
失意の中でパリにたどり着いたのです。
社会に認められず救いを求めてきた二人。
その二人の心が響き合ったのではないかとモーランさんは言います。
「ゴッホにとって日本の浮世絵は輝く光に見えたのだろう。
彼は社会に光をともしたいと思ったに違いない。
『あなたには理想の姿が見えています、
浮世絵のような美しい世界が見えています。
そこから放たれる光にあなたが照らされるように』と
アルルへ向かうゴッホ
草木も女性も鮮やかに美しく描く日本。
激動のパリで、ゴッホは日本は優しさに溢れた理想の国に映っていたのかもしれません。
しかし遠い島国への憧れを募らせていく一方で、
一向に救われないパリでの生活にゴッホは疲れ果てていきました。
パリに来て二年が経とうとしていた頃、ゴッホは突然街を出て行きます。
行き先をある人物に伝えていました。
四歳下の弟・テオドルス・ファン・ゴッホです。
画商として働くテオは経済的に、そして精神的に支える存在でした。
ゴッホがテオに宛てた手紙。 その中に新天地を見つけた喜びが綴られていました。
「体中の血液がまた巡り始めている気がする、パリではなかったことだ。親しい弟よ。僕は日本にいるような気がするのだ」
パリから列車で20時間。
フランス最南端の小さな町アルル。
古代ローマ時代に繁栄した歴史あるこの町でゴッホは再出発を図ります。
「いっそう明るい空の下で自然を眺めたら、
日本式の感じ方や描き方がより正確に分かるだろうと思ったのだ」
ゴッホは手紙に綴っています。
「この土地が空気の透明さと明るい色彩によって、
僕には日本のように美しく見える」
「黄色とすみれ色の花が一面に咲く野原に囲まれた小さな街、
まるで日本の夢のようだ」
アルルに来てゴッホの日本への想いは加速します。
アルル時代のゴッホを研究しているバーナデット・マーフィーさんです。
ゴッホが住んだ家のあった場所へ案内してもらいました。
「絵にあるこの家はもうなくなっていますが」
その場所が描かれた黄色い家という作品。
絵の中央の建物、黄色い2階建ての家がアトリエ兼住まいでした。
ゴッホはこの黄色い家を新しい芸術活動の拠点にしようと考えます。
その発想の源も日本でした。
「ゴッホは日本についての本をたくさん読みました。
その中で生活を共にする画家たちの共同体があることを知ります。
ゴッホはそれを目指しました。
つまり黄色い家は彼の夢を実現する第一歩だったのです」
(バーナデット・マーフィーさん)
ゴッホが抱いた日本のイメージ、
それは当時大流行していた小説が元になっていました。
明治時代、日本に実際に滞在したフランス人作家が
その経験を元に書いた小説「お菊さん」。
今読むと誤解と偏見に満ちていますが、
ゴッホにとっては日本を詳しく知る大事な手がかりでした。
この中に共同生活をしながら互いに研鑽する画家たちが出て来ます。
実際の日本にはなかった習慣がなぜか紹介されていました。
この頃のゴッホの自画像です。
「坊主としての自画像」
坊主に丸めた頭、日本の僧侶として描いています。
「しばらくここにいると見方が変わる、
もっと日本人的な目で見ることができ、色彩の感じ方が変わってくる」
(ゴッホからテオへの手紙)
どうしてここまで日本に執着したのでしょう。
「ゴッホにとってアルルは理想の日本の姿でした。
ここでならば日本の芸術と同じような優れた作品を生み出せると考えたのです。
その大胆な思い込みによって、
彼は新しいスタイルの芸術を作り出すことに成功しました」
(バーナデット・マーフィーさん)
アルルで開花したゴッホの才能
ゴッホが足しげく通った畑の方に向かいます。
「クロー平野の収穫」
アルルの近くの麦畑です。 アルルというゴッホの日本で、
ゴッホはその才能を大きく開花させました。
「夕陽と種蒔く人」
「ひまわり」
「夜のカフェ・テラス」
暗転したゴッホの理想
しかし、幸福な時間は長くは続きませんでした。
アルルに来て一年が経とうとしていたある日、
ゴッホは自らの耳を切り落とします。
事件の二ヶ月前、ゴッホは交流のあった、画家・ポール・ゴーギャン呼び、
共同生活を始めました。
ところが、気難しい性格が祟り、いさかいの毎日となります。
やがてゴッホは心の安定を崩し、精神病の発作を起こしたのです。
耳切り事件はゴッホの運命を大きく変えます。
事件を知った住民がゴッホを恐れ請願書を市に提出しました。
「オランダ人の風景画家が 自分の言動もわからないほどの
異常な興奮状態に陥っている。
家族のもとに直ちに送還するか 精神科病院への引き渡しに
必要な手続きを お取り下さいますよう、お願い申し上げる」
ゴッホはアルルから追放されます。
「画家の共同体、何人もが生活を共にするという考えはもう二度とやらない、
子どもじみた夢であった」
ゴッホの手紙に綴られています。
1889年5月、36歳のゴッホはサン・ポール・ド・モーゾール療養院に収容されます。
いさまた発作が起きるかわからないと怯えながら日々を過ごしたといいます。
収容当初は建物から出ることも許されませんでした。
ゴッホはここに来る時、ある一枚の絵を持ってきていました。
それは日本を特集する雑誌にあったなでしこの花でした。
ゴッホはその絵を壁に貼り毎日眺めていました。
希望を失い苦しみの最中にいたゴッホ。
その目には日本のなでしこがどのように映っていたのか。
この当時のゴッホからテオに送られた手紙には
「日本の芸術を研究するとまぎれもなく賢明で
達観していて知性の優れた人と出会う。
彼は何をして時を過ごすのか、 地球と月の距離を研究しているのか、
違う。 彼が研究するのはたった一本の草の芽だ。
しかしこの一本の草の芽がやがて彼にありとあらゆる植物を
ついで四季を風景の大きな景観を最後に動物。
そして人物像を描写させることになる。
全てを書くにはあまりに人生は短い。
そう、これこそかくも単純で あたかも自分自身が花であるかのように
自然の中に生きる。
これらの日本人がわれわれに教えてくれることこそ
もうほとんど新しい宗教ではないか」
ゴッホは病状が悪化し、発作で筆を執ることもままならなくなりました。
そんな中、ゴッホが最高の一枚と語った作品が生み出されます。
ゴッホのもとに届いたうれしい知らせがきっかけでした。
それは、弟テオに子どもが生まれたという知らせでした。
「この世に生まれてくる坊やのおじさんになるのだと思うと
人生への関心がまた湧いてくるよ」
いつもなら数日で絵を書き上げるゴッホが、
いつくるかわからない発作に怯えながら一ヶ月以上費やした渾身の作品でした。
その絵は今、故郷オランダの至宝となっています。
「仕事はうまく行ったよ。
この絵を見たら根気よく仕上げたと思うだろう。 最高の出来だ」
精神病院の敷地にあったアーモンドの木。その春です。
「花咲くアーモンドの枝」は オランダ・アムステルダムにある
ファン・ゴッホ美術館に飾られています。
フィンセント・ファン・ゴッホは1890 年7月、
拳銃で自らを撃ち抜きこの世を去りました。
日本の大地を踏みしめることは一度もありませんでした。