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国立西洋美術館では19年6月に「松方コレクション展」を開催する予定です。本作も展示予定。
国立西洋美術館の創立の礎となった一大コレクションがある。
実業家松方幸次郎が資材を投じて買い求めたもの、世界恐慌など20世紀の激動の歴史の中で散逸した「幻のコレクション」だ。
一万点といわれるコレクションにはどんな名画があったのか?
昨年3月、「追跡不可能」だと思われていたロンドン焼失作品リストが発見され、松方のコレクションはマネやクールベの名作を含む一流のコレクションだったと判明しました。
番組では、国立西洋美術館で現在進行中のプロジェクトを手がかりに、コレクションの全貌と流転の歴史に迫ります。
幻のコレクション 100年前 夢の美術館
放送:2017年11月23日
松方幸次郎*1
「日本の皆さんが、この松方さんのおかげで今、西洋のすばらしい名画が間近に見られるんだということを知っていただきたいです。」
「私欲のためではなく、日本国民のために私財を投じ、日本の美術史に大きな役割を果たした松方の生きざまに感動した。」
「学生時代に何度も行った西洋美術館、松方コレクションの説明を現地で読んでいたから概要は知っていたけど、日置さんの話は知らなかった。戦時中すごい苦労をして作品を守っていたんですね。」
「私たちは、美術を愛し、守った松方さんや日置さん、そして素晴らしい松方コレクションに相応しい国民なのか。」
「当時の格差社会で出てきた超人という面はあるのだろうけど、すごいな。晩年の破産は余りに気の毒だったが、部下がパリ保管分のコレクションを守り抜いたのも感動的。こういう人を大河ドラマに取り上げれば良いのでは。」
単なる美術愛好家の枠を超えた松方幸次郎。
経営者として手に入れた資産の使いみちや、考え方の柱となった生き様をたどると、私たちの想像を超えた人物像が見えてきます。

企業家活動からみた日本のものづくり経営史 (法政大学イノベーション・マネジメント研究センター叢書)
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プロローグ
番組の主人公はムッシュM。
松方幸次郎は明治維新の直前に生まれ、日本産業の近代化を進めた財界人です。
国立西洋美術館に収蔵されている作品のほとんどは松方幸次郎のコレクションです。
携わった造船業でヨーロッパを舞台に大儲けし、美術品を2,000点買い集めました。
しかし、現在美術館に残されているのは5分の1足らずです。
最近になってコレクションの全貌解明に繋がる資料がヨーロッパで次々と見つかっています。
パリ・リストには、オルセー美術館の至宝となっているゴッホの作品も含まれていました。
ロンドンの美術館の地下倉庫。
ここに保存されている当時の画商がつくったリストからは、360点もの作品が火事で失われていたことがわかりました。
百年前日本人に西洋の名画を見せようとした松方幸次郎。その夢の美術館とは。
「幻のコレクション 100年前 夢の美術館」
放送:2017年11月23日
松方コレクションとは何か
東京上野の森に建つ国立西洋美術館。
世界文化遺産としても知られています。
今年8月、国立西洋美術館の修復室に一枚の絵が運び込まれました。
長い間行方がわからなかった絵画です。
かつて松方幸次郎が購入し、大正時代に日本に持ち込んだ作品です。
百年前のフランスの画家、レルミットが20世紀最初の「パリ万博」のために描いた作品「収穫する人々」。
松方が破産してから人手に渡りその後90年間行き届いた管理がされませんでした。
国立西洋美術館では松方幸次郎コレクションの全貌を探ろうとプロジェクトを立ち上げ、行方不明の作品を探してきました。
国立西洋美術館は松方幸次郎のコレクションを展示するために1959年に作られました。第二次世界大戦後、フランスから日本に返還された380点のもとに誕生した美術館だが、松方幸次郎コレクションにはそれ以外に1500点の西洋の名品があったはずなのです。
幻のコレクションはどのようなものだったのか?
手がかりを探し、国立西洋美術館館長の馬渕明子さんはパリのロダン美術館を訪れました。
このロダン美術館に松方幸次郎は手に入れた作品の一部を預けていたと言われています。
ライブラリーには松方幸次郎に関連する資料も保管されています。
馬渕さんが今回閲覧を依頼したのは火災保険の証書でした。
1937年の段階でロダン美術館に預けられていた松方コレクション。
彫刻65点、絵画285点。合計360点の作品リストが添えられていました。
「他の美術館に行ってしまったものもあるし、行方のわからないものもある。そういったものを知ることができる非常に興味深い」
馬渕明子は22点ものモネの作品を持っていたことに注目しました。
国立西洋美術館にはモネだけを集めた展示室があります。
その中心にあるスイレンは最も優れた作品の一つです。
松方はモネと交流がありました。
「あなたの絵を買いたい」松方が言うと、モネは不思議そうに「どうして自分の絵なんか買う必要があるのか。日本には偉大な芸術出品があるじゃないか。私なんかそれを手本に勉強したくらいだ」と語りました。
モネは特に気に入った絵をアトリエに留め、誰にも売りませんでした。
そんな秘蔵の作品を松方のためなら手放すと言ったのです。
モネを決心させたのは美術館の設計図でした。
日本には美術館がない。政府にはカネがない。
だから松方自身が作るのだと決めたのです。
名前は共楽美術館。
皆が楽しめる美術館。
日本に美術館を作るという志にモネは共感したのです。
名画との出会い
日本で造船所を興した松方幸次郎は1916年、ロンドンに渡ります。この街で初めて美術品を買ったのがコレクションの始まりでした。しかし、どんな絵をどれぐらい買ったのかは長い間謎でした。なぜなら松方が美術品を預けていた倉庫が火事に会い作品ともども失われてしまったからです。
国立西洋美術館の調査チームはロンドンの美術館や博物館のライブラリーを丹念に回ってはコレクションについて手がかりがないか調べてきました。
2016年、テート美術館のライブラリーで松方幸次郎に関連しそうな資料をすべて取り出したとき、
火事で焼けたものと手書きで添えられた15ページに渡るリストが出てきました。
焼けてしまった作品は全てで316件。
最高額はマネ。しかし最も多かったのはブラングィンという日本ではあまり知られていない画家の作品。
その数70。
実はこのブラングィンこそ、松方に共楽美術館という夢を抱かせた男だったのです。
サー・フランク・ウィリアム・ブラングィン*2
第一次世界大戦時、松方幸次郎は注文を受けないまま、需要を見込んで貨物船を量産しました。これが大儲けに繋がったのです。
ロンドンに社長室をうつし、高級アパートで一人暮らしを始めた松方幸次郎は街に貼られたブラングィンの絵画を食い入るように見つめる人々の姿を目の当たりにします。
戦争への協力を絵画で呼びかけています。
松方は船の絵を初めて購入しました。
「戦争の絵だけではなく、自分が描いた絵を見てくれ」
魅せられたのは造船所やそこで働く労働者たちの姿でした。
ブラングィンは、それまでの画家が描かなかった労働の現場をつぶさに見つめていました。
松方が最初に買ったのは、国立西洋美術館にある「時化の日」だと言われています。
新たに発見されたリストをブラングィン研究者のリビーさんと、孫のデイビッドさんに見てもらいました。
ブラングィンと付き合い、何度も語り合ううちに松方幸次郎の絵画への関心は深まっていったのです。
ロイヤル・アカデミーにはブラングィンのスケッチブックが保管されています。
そこには松方幸次郎のポートレートが描かれ、隣のページには美術館の初期のアイデァとも思われるスケッチが描かれていました。
後編に続く
*1:慶応元年(1865年)12月1日、松方正義の三男として鹿児島に生まれた。 明治14年(1881年)東京大学予備門(現東京大学)を中退、明治17年から22年までアメリカのラトガーズ大学、エール大学、フランスのパリ大学などに留学した。 明治24年5月、父正義が第一次松方内閣を組閣した際首相秘書官に任官、明治25年8月に正義が首相を辞任して以後、日本火災保険副社長、灘商業銀行監査役、高野鉄道取締役などを歴任し、明治29年10月、川崎造船所初代社長に就任した。以来32年間にわたってその座にあり、当社をわが国有数の重工業会社に育て上げた。
*2: (Sir Frank William Brangwyn、1867年5月12日 - 1956年6月11日)イギリス・ウェールズの芸術家。創作領域は幅広く、油絵、水彩画、デッサンだけでなく、版画、彫刻、イラスト、家具・食器・カーペット・ステンドグラス等のデザイン、建物や内装の設計などにも及んだ。東京・上野の国立西洋美術館の中核となった松方コレクションの形成に深く関わった人物としても知られている。