愛らしい表情を浮かべる猫。
シンプルな中にもその特徴をいきいきと伝えています。
今年の春公開する映画では熊谷晩年の日常を描いています。
主演を勤めた俳優の山﨑努さん。実は熊谷守一の大ファンです。
「守一さんは眩しくてね。どうやって作っていいかわかりませんでした」
熊谷には人に見せない一面があったと考えています。
「中に激しいものを持った人だったのではないかと思うのです。にもかかわらず、写真の表情なんか見るととても穏やかでね」
おだやかな表情と画風に隠されたほんとうの熊谷守一とはどんな人物だったのか。
97歳で没してから40年。その素顔に迫る大回顧展が開かれています。
ろうそくの明かりがぼんやりと顔を照らし出す自画像。
東京美術学校を主席で卒業。光と影の表現に大きな関心を寄せていました。
きっかけとなったのはある轢死体との遭遇です。
電車に轢かれ横たわる女性。
現在では細部まで見えませんが、闇夜に白く光る体を克明に描きました。
http://sceneblog.hamazo.tv/e5642046.html
以降熊谷は闇に横たわる女性の体を何度も描いています。
逆光に光る輪郭はやがて赤い線として現れます。
この時期熊谷は風景がも多く手がけました。
朝日に黄色く輝く奥の山。
対して影となる手前の山は濃い緑色です。光と影を色の対比で表す画風を模索し、色彩は次第に単純化して行きました。
結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948-55年/岐阜県美術館)
試行錯誤の末にたどり着いた一枚。
焼き場から帰ってくる熊谷と子どもたち。
亡くなった長女の遺骨を腕に抱えています。熊谷の髭と遺骨の白が抑えられた色調の中でくっきりと浮かび上がります。娘の死から9年。ようやく描き上げたこの絵が熊谷の表現の転換点となりました。
70歳になり外出を一切やめた熊谷。毎日庭の生き物を観察するようになります。
蟻の行列。
小さな命。その特徴を逃さない、熊谷ならではの視点です。
日々の観察の中である鋭い発見もしました。蟻は左の二番目の足から歩き出すというのです。
「何度も見ましたよ。僕。初めてホン(脚本)で読んだ時。すぐ庭に出てね、見たんですけどさっぱりわからなかった」
「観察するってのはインプットですからね。みんなものを創る人はインプットして、それを自分の中に溜め込んで、熟成したところでアウトプット、つまり作品をつくるということになるのですが」
「守一さんの場合はアレだけスゴイインプットをしていて」
「アウトプットの作品は少ないんじゃないかと思いますね。絵を書くために見るのではなくて、見たいから見るんですよね。ちょっと感動ですよね。そういう人がいるってことはね」
身近な生き物をシンプルに描いた熊谷。
しかし色の取り合わせにはこだわり、研究を重ねていたといいます。
「ブルーグレーの池の水の上にサーモンピンクのびっくりするほどきれいな魚が泳いでいます。しばらく見ているとお魚が元気にちょろちょろ動いているように見えてきます」
「色をどう感じるかということと、生きててものをどう見ているかという喜びとかが、直接この人の中でつながっていたのじゃないかということを感じられたりするわけです」
*1:1880年岐阜県に生まれる。裕福ながら複雑な家庭に育ち、のち家の没落にあう。東京美術学校西洋画科選科を首席で卒業。同級生に青木繁がいた。実母の死を契機に30代の6年間を郷里で暮らし、山奥で伐採した木を川流しで搬送する日傭(ヒヨウ)の仕事を体験する。1938年頃より、輪郭線と平面による独特な表現に移行し、近代日本洋画に超然たる画風を築く。自然に近い暮らしぶりとその風貌から「仙人」と呼ばれ、生き様、作品、書などが多くの文化人を魅了する。87歳のとき文化勲章の内定を辞退。俗世の価値観を超越した自由な精神で、ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを願った生涯だった。1977年、97歳で亡くなる。自宅跡は豊島区立熊谷守一美術館となる。2015年9月、郷里の岐阜県中津川市付知町に熊谷守一つけち記念館が開館。