- この絵のコレクター・エミール・ゲオルグ・ビュールレは、
- 第二次世界大戦で成功した"死の商人"だった。
- ルノワールが描いた肖像画のモデルとその家族の知られざる秘話。
- 日曜美術館「イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年」
この絵のコレクター・エミール・ゲオルグ・ビュールレは、
第二次世界大戦で成功した"死の商人"だった。
ルノワールが描いた肖像画のモデルとその家族の知られざる秘話。
日曜美術館「イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年」
愛らしい少女の肖像「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。
ルノワールの代表作は、ナチスによる略奪など想像を超える物語を秘めていた。
一枚の絵を多面的に語り尽くす。
ルノワールの代表作「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。
裕福なユダヤ人富豪の令嬢を描いた肖像画には、想像を超える激動の物語が秘められている。
モデル・イレーヌの家族を襲ったホロコーストの悲劇。
そして戦後、奇跡的な肖像画の再会。
ピアニスト・西村由紀江さん、カメラマン・渡辺達生さん、多摩美術大学教授・西岡文彦さんが、それぞれの視点から名画が秘めた「美の物語」を語る。
【ゲスト】ピアニスト/作曲家…西村由紀江,カメラマン…渡辺達生,多摩美術大学教授…西岡文彦,【司会】井浦新,高橋美鈴
放送日
2018年3月4日
・全テーマ見開き完結で読みやすく、本のサイズがコンパクトだから作業の邪魔にならない!
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2月5日。国立新美術館に
スイスから世界有数の印象派コレクションが到着しました。
セザンヌの代表作「赤いチョッキの少年」。
印象派の代名詞とも言えるモネの「睡蓮」。
そしてゴッホの「自画像」。
誰もが知っている名品が次々と並べられていきます。
関係者が見守る中、
特別な絵画が箱から姿を現します。
ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」。
描かれたのは1880年。
モデルは実在の少女。
バリに暮らす裕福な銀行家の令嬢イレーヌ。
当時八歳でした。
肌は透き通るように白く。かすかに赤みがさしています。
会場を訪れた写真家の渡辺達生さん。
イレーヌと初めての対面です。
「肌のトーンとか光の階調とかとてつもないですね。
フォーカスの位置がどこにも会っていないじゃないですか。唯一まつ毛、目ですよね。
だから知らずのうちにそこにスーッと目線が行きますね。きっと彼女に会った時、"皮膚感"にやられたんだろうね」
イレーヌの肖像を描いた1880年。
ルノワールは39歳。創作の大きな転機にありました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」を発表したのはその4年前の1876年。
パリ・モンマルトルに実在したダンスホール・ムーラン・ド・ラ・ギャレット。
集った人々を木漏れ日とともに描いた印象派を代表する作品です。
しかし、印象派展で評判を取ったものの、このころ作品はあまり売れませんでした。
労働者階級の出身で経済的に苦しいルノワールにとって、それは切実なことでした。
起死回生を狙ってルノワールは当時美術界の権威だったサロンに復帰します。
復帰したサロンで、この一枚が評判を呼びました。
「シャルパンティエ夫人と子どもたち」
パサロンだった出版界の大物・シャルパンティエとその家族の肖像です。
社交界の花型だった夫人と子どもたちを温かい色彩で描きました。
その評判を知ったイレーヌの両親が娘の肖像をルノワールに依頼します。
当時パリは、ベル・エポックという華やかな時代が始まる頃。
モンソー公園界隈は中でも高級住宅地。
フランスの富豪や金融で富を築いたユダヤ人が暮らしていました。
イレーヌゆかりの場所。
公園に面した豪邸を改装したニッシム・ド・カモンド美術館。
館の主はのちにイレーヌの夫となるモイーズ・ド・カモンド伯爵。
パリでも指折りの大ブルジョワでした。
イレーヌは19歳の時、同じユダヤ人で銀行家のカモンド伯爵と最初の結婚をしました。
その暮らしぶりは貴族のようにゴージャスなものでした。
壁には隙間がないほど絵が飾られています。
「カモンド伯爵は美術や工芸に造詣が深く、彫刻陶器絨毯タペストリーなど、最高級の調度品を収集していました。いとこのイサクは印象派の優れたコレクターでした。モネやドガを支援したパトロンだったのです」
こうした豊かな階層にパトロンになってもらいたい。
ルノアールは勝負をかけてイレーヌを描きました。
ふっくらとした手やドレスは、印象派の特徴である筆跡を残した表現。
栗色の髪は、細かく筆を重ねています。
一方顔は陶器のように滑らか。
古典的な描き方を取り入れて、白い肌、青い瞳を丁寧に表しています。
ルノワールは自信を持ってサロンに出品。
評判は上々でした。
「このブロンドの少女ほどかわいらしい作品を思い描くことはできない」
「かつてイギリスの画家たちが描いた肖像画のようだ」
しかし、イレーヌの両親たちはこの絵を気に入りませんでした。
これはイレーヌの母ルイーズの肖像画です。
描いたのは古典的な表現で人気を集めた肖像画の重鎮・カロリュス・デュラン。
中世の王侯貴族のような姿。
カーン・ダンベール家でイレーヌの肖像画は人目に触れる場所には飾られなかったといいます。
イレーヌに続いた描かれた妹たちは二人でポーズをとっています。
しかし、両親がイレーヌの絵を気に入らなかったため、
妹たちは二人まとめてしか描かせてもらえず、
期待したほどの報酬も払われませんでした。
ルノワールは憤慨しました。
「あの家族は本当にしみったれだ。僕は金輪際手を組まない」
描かれて60年後。
イレーヌの肖像は、ヨーロッパを揺るがす激動に飲み込まれて行きます。
第二次世界大戦が始まります。
5月以降、オランダ、ベルギー、さらにフランスに攻め込みます。
ナチス・ドイツに対し、フランスは早々に降伏。
パリは占領下に置かれました。
ヒトラーには2つの野望がありました。
ひとつはユダヤ人の絶滅。
もう一つは美術館の建設です。
青年時代に画家を志しながら挫折したヒトラーは、
権力を握りドイツ帝国を象徴する美術館を夢見たのです。
そのための美術品がヨーロッパ中で略奪されました。
占領下で奪われた美術品は数十万点。
美術史条例のない大量略奪です。
その最大の被害を受けたのがフランスでした。
パリでは裕福なユダヤ人を標的にした強奪が繰り返されました。
ユダヤ人が所有する美術品は所有者なしとされ、
問答無用と奪い去られたのです。
略奪された美術品はセーヌ川沿いのジュ・ド・ポーム美術館に集められました。
ここを繰り返し訪れていたのがナチスのナンバー2、ゲーリングです。
ゲーリングは印象派を愛好し、気に入った絵を持ち去って行きました。
イレーヌの肖像もゲーリングの目に止まります。
奪いさられ、その後行方がわからなくなりました。
イレーヌは二度結婚し、三人の子を設けていました。
当時肖像画を所有していたのは長女のベアトリスでした。
ベアトリスは同じユダヤ人と結婚し、親子四人パリで暮らしていました。
絵を奪われた後、一家は強制収容所へ送られます。
ベアトリス夫妻と幼いイレーヌの孫たちが戻ることはありませんでした。
1944年6月。アメリカを中心とする連合軍が
ドイツ軍が守りを固める海岸線を突破し、西ヨーロッパの開放を目指しました。
この時、兵士の中に美術品奪還を任務とする部隊がありました。
メンバーは美術史家や学芸員、彫刻家など。
彼らを中心に奪われた美術品が各地で奪還されて行きました。
今なお数万点が行方不明と言われる略奪美術品。
幸運にも肖像画はパリに戻りました。
そして戦争を生き延びたイレーヌのもとに返還されます。
それはまさに奇跡の再会でした。
晩年イレーヌは南フランスに移住。1963年91歳で生涯を閉じました。
失った家族について触れることは決してなかったといいます。
肖像画も人に譲ってしまいました。
スイス最大の都市チューリヒ。
高級住宅街に建つ瀟洒な美術館。ビュールレ・コレクション。
イレーヌの肖像はここにやってきました。
安住の地を得たのです。
ここはかつてある実業家の邸宅でした。
主の楽しみのために集められたプライベートコレクション。
イレーヌからその肖像画を買ったのもその主でした。
エミール・ゲオルグ・ビュールレ。
20年で600点にもなる世界屈指の印象派コレクションを作り上げた人物です。
「ビュールレは作品を実際に自分の目で見ないと買わない主義でした。狙った獲物を必ず仕留めるアグレッシブなハンターのように芸術作品を追い求め、もう一方では非常に鋭い感受性があったからこそ優れた作品を見極めコレクションを築くことができた。そういう人物でした」
ビュールレはドイツに生まれ、十代の頃から美術に関心をいだいて育ちました。
やがてスイスに移り、機械の製造で成功を収めます。
きっかけは兵器でした。
世界的なベストセラーになったエリコン20ミリ砲。
これで事業は成長。
1940年代、ナチスドイツへの納入業者になります。
兵器で得た莫大な富を、戦後ビュールレは惜しげもなく美術品に注ぎました。
ビュールレの死後、コレクションは美術館として公開されました。
ビュールレが印象派に惹かれるようになったきっかけとなったモネ。
鮮やかな色彩に心を奪われたといいます。
セザンヌもビュールレが愛した画家でした。
肖像画の傑作として世界的に知られる作品です。
その中でもイレーヌはビュールレにとって特別な一枚でした。
「ビュールレがイレーヌの辿った生涯についてどこまで知っていたのか記録は残っていません。わかっているのはイレーヌの肖像画を娘の部屋に飾り毎日のように眺めていたということだけです」
放送記録
書籍
展覧会
スイスの大実業家エミール・ゲオルク・ビュールレ(1890-1956年)は、生涯を通じ絵画収集に情熱を注いだ傑出したコレクターとして知られています。主に17世紀オランダ絵画から20世紀の近代絵画に至る作品、中でも印象派・ポスト印象派の作品は傑作中の傑作が揃い、そのコレクションの質の高さゆえ世界中の美術ファンから注目されています。 この度、ビュールレ・コレクションの全ての作品がチューリヒ美術館に移管されることになり、コレクションの全体像を紹介する最後の機会として、日本での展覧会が実現することとなりました。
本展では、近代美術の精華といえる作品64点を展示し、その約半数は日本初公開です。絵画史上、最も有名な少女像ともいわれる《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)》、スイス国外に初めて貸し出されることになった4メートルを超えるモネ晩年の睡蓮の大作など、極め付きの名品で構成されるこの幻のコレクションの魅力のすべてを、多くの方々にご堪能いただきたいと思います。