日曜美術館「東京の原風景~夭折(ようせつ)の絵師・井上安治が描いた明治」
明治10年代の東京の姿をリアルに描き出した、知られざる明治東京名所絵のシリーズがある。
描いたのは、26歳で夭折した絵師、井上安治。
“光線画”で名高い小林清親に弟子入りし、江戸伝来の浮世絵とは全く異なる新時代の風景版画、134点のシリーズを生み出した。
番組では、井上安治の明治東京名所絵を、現在の風景との比較や、明治の文豪の思い出の文章をまじえながら紹介し「東京の原風景」に思いを馳せる。
ドイツ文学者…池内紀,ガスミュージアム副館長…高橋豊,山口県立萩美術館・浦上記念館学芸員…吉田洋子,名橋「日本橋」保存会副会長…細田安兵衛,【司会】小野正嗣,高橋美鈴
放送日
2018年5月13日
明治維新150年。大きな変貌を遂げてきた東京。
その原風景を描いた知られざる風景版画のシリーズがあります。
明治という新時代の風景をありのままの姿で描いた「東京真画名所図解」。
134点の絵を描いた絵師の名は井上安治。
数え26歳で亡くなりましたが江戸伝来の浮世絵とは全く異なるリアルな風景版画を生み出しました。
井上安治が描いた風景はいまどのような姿になっているのでしょうか。
旧新橋停車場。
元の建物は関東大震災で焼け落ちましたが、平成15年に再現されました。
当時の錦絵は、文明開化の象徴とも言える駅舎を華々しく描いています。
安治はその新橋の駅を夜の中に沈めています。
駅舎には明かりが灯っていますが通りは暗く、通行く人は黒い影となっています。
侘しささえ漂う文明開化の風景です。
新橋から横浜まで敷かれた日本で最初の鉄道。
安治は蒸気機関車の勇姿を描いています。
暮れなずむ空のもと煙を吐きながら汽車が疾走していきます。
上野駅はレンガ造りの洋風建築。完成したのは明治17年でした。
安治が描いたのはレンガの色が映える初代の駅舎。
馬車や人力車も見え、大勢の人で賑わっています。
ここでは明治の一時期だけ意外なことが行われていました。
池の周りを走る競馬が開かれていたのです。
上野不忍池競馬(うえのしのばずのいけけいば)は1884年(明治17年)から1892年(明治25年)まで東京上野不忍池で行われていた競馬。共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われていた。馬券は発売されずギャンブルとしての開催ではなく、屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催された。
安治はその競馬の様子を横長の画面に描いています。
明治天皇が臨席したことがあるほどのほどの一大イベントで、
紳士淑女が大勢詰めかけ競馬に熱狂したといいます。
明治10年ころの銀座の風景です。
大火に見舞われたのをきっかけに銀座にはいち早く西洋風の煉瓦街が誕生しました。
安治は現在の銀座3丁目から四丁目にかけての風景を描きました。
文明開化の象徴の一つだった時計塔があったのです。
夜の銀座の煉瓦街。絵の中心に時計塔が高くそびえています。
通りにはレールが敷かれ、鉄道馬車が走っていました。
東京日比谷。オフィスビルがそびえるこの場所には文明開化の象徴の一つ「鹿鳴館」が立っていました。
明治16年。外務卿に就任して条約改正交渉に取り組んだ井上馨が外国の貴賓の接待、宿泊設として建設した建物です。
制度、文物、習俗を欧風化して欧米諸国に日本の開花を認めさせ交渉を促進するためイギリス人のジョサイア・コンドル設計による明治初期の国際的社交機関として建てられた洋館です。
しかしやがて行き過ぎた欧化政策だと批判を浴び、鹿鳴館は歴史の表舞台から消えます。
安治が描いた鹿鳴館は夜。
建物には高校と明かりが灯り、夜会でも開かれているのか人影も見えます。
庭のベンチにはシルクハットをかぶった紳士が一人。
満月でも見ているのでしょうか。外は静けさが漂い、虫の音でも聞こえてきそうです。
富国強兵をうたっていた明治政府。
今の国会議事堂がある永田町辺りには陸軍参謀本部がありました。
旧陸軍を率いた最高の統帥機関・ 参謀本部。
明治19年に建設された建物は昭和20年の戦災で消失。
軍の崩壊と運命をともにしました。
緑に覆われた皇居のお堀越しに白い参謀本部の建物が見えます。
遠目に眺めると建物の威圧感は消え、ホテルのような雰囲気さえあります。
海軍発祥の地と言われるのは築地です。
かつてこの一体は海軍用地で、兵学校や軍医学校などが立ち並んでいました。
暗い空。雪に覆われた築地の風景です。
赤レンガの洋館は当時の盲学校の建物。海軍の兵学校は右側の低い建物です。
通りを行く人も見えますがひっそりとした雰囲気が漂います。
富国強兵と並ぶ明治政府のスローガンが「殖産興業」。
その事業の一つが荒川区にありました。
千住に残る「旧千住製絨所煉瓦塀」
明治12年。政府の肝いりで作られたこの工場は、それまで輸入に頼っていた明治政府の制服や軍服を国内で賄うため建てられました。
その最先端の工場が田んぼ越し、並木の向こうに見えます。
近寄るといくつもの建物が連なり、工場の規模の大きさが伺えます。
20代の青年が何を考えていたのかわからないですが、日本が体験した近代化を克明に描いています。浮世絵のように艶やかなものにしないで、ある通りに描いておこうというある種の使命感があったような気がします。*2
井上安治は明治維新を目前にした1864年、江戸・浅草で生まれました。
17歳の時、絵師としてデビュー。26歳の若さで亡くなるまでの9年間、東京の風景を中心に200点以上の絵を描きました。
安治が絵師になれたのは師匠・小林清親のおかげでした。
清親は文明開化で変貌する東京の姿を詩情豊かに描き出しました。
清親の代表作の一つ。
華やかなイルミネーションが飾られた博覧会の会場です。
光と影を駆使したその絵は「光線画」と呼ばれ人気を博しました。
安治が清親に弟子入りした時のエピソードが残っています。
ある雪の日、清親がスケッチをしていると、そこに少年が近づいてきて二時間あまりもじっと見つめていました。
その熱心な姿を見て清親が話しかけたのが弟子入りのきっかけでした。
清親の陰に隠れ、ほとんど無名だった安治に着目したのが漫画家で、江戸風俗研究家でもあった杉浦日向子さんです。
杉浦さんは安治をテーマにした漫画を残しました。その中で安治の絵の特徴を、広重や清親の絵と比べながら解き明かしています。
広重描く「名所江戸百景」には、わくわくするような異郷の香りがする。
清親や安治の描く東京を見ると、はじめて、自分が毎日踏んでいる地面を思い出す。清親らの視点は、いつも人間の目の高さだった。
清親が描いた日本橋の問屋の風景。
大勢の客で賑わう店の風景をごく普通の角度から見ています。
安治の絵は五重塔が遠くに見える谷中の様子。
こちらも目の高さから見た光景です。
杉浦さんは清親と安治のよく似た絵を取り上げながら師と弟子の違いを解きます。
安治の風景画の四分の一は師清親の画稿をなぞっている。
安治は清親のダミーだといわれるが、両者の資質の違いはあらわれている。
たとえば「江戸橋の景」
清親は手前に、走る車夫と、富士の横の入道雲を大きくとらえる。
安治はそのどちらをも描かない。
黄昏の画面は静まり返っている。
杉浦さんが比較している二点は、同じ場所。同じ構図の風景です。
人物と入道雲が加わると絵に動きが出るのがわかります。
たとえば「厩橋」
清親は夜空に一閃する稲光りと、傘をすぼめて家路を急ぐ人物を描く。
安治は暮れゆく町の、ゆったりとしたひと時を描く。
これも、同じ場所。同じ構図ですが、清親のかみなりが光った瞬間の光景と、安治の穏やかな夕景では、絵から受ける印象はまるで異なります。
二人の比較は安治が得意とした夜の表現にも及びます。
たとえば夜。清親はわずかな光の中にも色を見出そうとする。安治の夜は他のどの絵師よりも暗い。
満月の夜の情景ですが、安治の絵は実際に見たままの暗さを思わせます。
総じて清親の絵は動きがあり劇的で
映画のワンシーンのように甘やかで切ない。
安治のは拍子抜けするほど淡々とし
渋い色調にもかかわらず、画面は湿り気ない奇妙な明るさに満ちている。
安治が対象に冷ややかだったのではなく、それが彼のやり方だった。
清親は芸術家たらんと欲したが、安治はたぶん、自分のことを画工だと思っていただろう。
「清親は自分は幕臣だったので、江戸をまだ引きずっていて」
「第一国立銀行という新しい時代の建築物なのですが、
和服姿の傘を指した女性が意図的にだとは思いますが、佇んでいます」
「新しい建築物と古いものを対比させて、江戸というものをどうしても強調したかったのだと思います」
「安治は若いので江戸的なものが混ざっている今の東京を感情移入することなく淡々と、現実をそういうものだとして描くことができたと思います。
江戸的な感性を抜けて西洋が自分たちのものになっている。熟されている時代に一歩踏み出したのが安治だったのでしょう」
清親と安治の違い
「時代に対する両者の気持ちの持ち方が大きく違うということと。安治の余計なものを入れないスッキリした画風は若さの持つ力だと思います」
・・若いからこそ対象に対して残酷にもなれるし、距離を持つことができる。
「余計なもの。夢とか政府が囃し立てているものはすべて切り捨てて、自分が面白いと思うものだけに限るというのは若さの持つ力でしょうね」
・・師匠の方は絵の中に物語を作っているように思った。弟子の方は坦々と記述している。
「清親は華やぎがあります。安治のは若さの持つ酷薄さといいましたが、同時に優しさがあるのです。華やぎはだんだん飽きてくるのです。仕掛けをしている分だけ、古びるのが早いですけど、仕掛けがなく対象に性格な姿勢をとっている方が、作品とすれば残ってほしいと思います」
・・そうですね。下手に技巧を凝らしたり、ひねりを加えたりしようとすると 早く古びてしまう。
「食べ物で言えば"甘み"でね、甘さのところから・・・腐っていく」
かつて東京は水の都でした。
江戸時代交通の中心は水運で川や堀が縦横に巡っていました。
明治に入り次第に陸運へと切り替わっていきますが、
安治が描いた東京は水辺の光景にあふれています。
隅田川にかかる両国橋。木造の橋でした。
かつて両国橋の辺りは水流が激しく、流れを和らげ川岸を守るため数多くの杭が打たれました。いつしかそれは百本杭*3と呼ばれるようになりました。
夕暮れ時の隅田川。百本杭の無効に両国橋が見えます。
隅田川の下流。広々とした水面に大小の帆船などが浮かんでいます。
遠くに洋館が並び、永代橋などが見えます。
隅田川に合流する日本橋川。高度経済成長の時期に高速道路が作られ、今はその高架下を流れています。
文明開化のシンボルの一つだった鉄橋。
鎧橋*4の近くには煌々と明かりが灯る洋館が建っています。明治の財界の指導者。渋沢栄一の邸宅です。
鎧橋の上流には「日本橋」があります。
江戸開闢以来、五街道の起点として栄えてきました。
明治になってからも日本橋は東京のシンボルの一つでした。
安治の描いた日本橋川には数多くの船で賑わっています。
向こうには、まだ木の橋だった日本橋が見えます。
川沿いには魚河岸*5がありました。
江戸時代から続いた日本橋魚市場は、明治10年(1877)4月14日に日本橋魚市場組合を設けた。江戸東京の食品流通を担って300年続いた日本橋魚市場は、大正12年(1923)9月1日の関東大震災で壊滅した。
満月に照らされた日本橋です。
洋館には明かりが灯り、橋の上を大勢の人々が通り過ぎています。
日本橋が木の橋から石の橋に作り変えられたのは明治44年になってからでした。
その端は関東大震災や戦災をくぐり抜け今もその姿を留めています。
ただ、東京オリンピックを機に作られた高速道路の下になってしまいました。
今、高速道路を取り払い日本橋川の風景を取り戻そうという動きが出ています。
まとめ
26歳で夭折した安治は「井上探景」と号しました。
風景は人間の情緒に働きかけます。
風景を自分なりに探し出し、絵に留める役割を安治は感じていたのかもしれません。
今、安治の描いた風景画を見ることによって、ちょっと不便だけど、安治が感じていた思いにソウゾウを巡らすのもいいかもしれません。
井上安治が描いた明治
1864(元治元)年に生まれた井上安治(いのうえやすじ)は、15歳で「光線画」の作品で人気を博していた小林清親(こばやしきよちか)へ入門しました。
翌年の1880(明治13)年には早くも作品を発表し、以後、師の清親の作風を模倣しつつも、自身の感性で捉えた東京風景を描きました。
中でも四ッ切り判サイズを中心とした134点からなる一連の作品は、現在「東京真画名所図解」(とうきょうしんがめいしょずかい)と通称され、1881(明治14)年頃から亡くなる1889(明治22)年まで、井上安治の活動期ほぼ全般にわたって手がけた代表作になります。
取材先など
放送記録
書籍・資料
*1:荒川区登録有形文化財。明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
*2:みづゑ(904)1980年 美術出版社 遠眼鏡の風景--井上安治・東京真画名所図解展(MIZUE JOURNAL) / 池内紀 / p62~63 (0072.jp2)<2137561>遠眼鏡の風景--井上安治・東京真画名所図解展(MIZUE JOURNAL) / 池内紀 / p62~63 (0072.jp2)<2137561>
*4:東京都中央区の日本橋川に架かる橋である。左岸(北東側)は日本橋小網町、右岸上流側は日本橋兜町、同下流側は日本橋茅場町となり、東京証券取引所も近い。上空は首都高速の高架橋に覆われている
*5:日本橋と江戸橋との間の北河岸一帯には魚問屋・魚仲買・汐待茶屋・飲食店などが軒を並べていた。向いの南河岸の四日市には干魚や塩魚を扱う問屋があった。さらに、上総や安房の外房や伊豆半島に紀伊など関西方面から画期的に進んだ網漁法をもつ漁民が進出してきた。寛永6年(1629)には、伊勢の海士船の鮑漁や承応年間(1652~54)紀州の漁民が房州の浦々に出漁した記録が残されている。