綿密な絵付け陶器 ミクロの超絶技巧
ミクロレベルの緻密さと繊細さ。
職人の卓越した技法により、生み出された絵付け陶器の数々。
超絶技巧シリーズ1 妖しく輝く“京薩摩”
4週にわたってお送りする明治と現代の超絶技巧対決、今回はその第1回。
紹介する作品は清水三年坂美術館で展示されている。
錦光山宗兵衛作「花見図花瓶」。
明治時代後期に作られた高さ31.5cmの京薩摩です。
苔むした樹皮の質感と色合い。
これが陶器なのかと思うほどの質感です。
桜の花弁1つ1つが繊細な筆致で描かれていて、
御老体がそんな桜を陶然と眺めていれば、
一休みする赤い振り袖姿の女性らの姿がある。また、編まれたい草の質感を筆の先端で表現している。
超絶技巧が注ぎ込まれた、黄金の輝きと絢爛たる色彩を放つそんな作品には謎が秘められているという。
この小さな花瓶が明治という国家の命運の鍵を握っていたのです。
妖しく輝く“京薩摩”
京薩摩は明治時代初頭に生まれた焼き物です。
何故作られたのか、どうやって作るのかなど謎が秘められている。
京薩摩が誕生したのは今から150年ほど前のことです。
京都東山の粟田口は窯元が集まる粟田焼と呼ばれた焼き物の一大産地でした。
その一つが錦光山です。錦光山は江戸時代より徳川将軍家や公家たちと縁が深い名門の窯元でした。
しかし明治維新によりその大きな後ろ盾を失ってしまいました。
そんな折六代目錦光山宗兵衛は海外で評判を呼んでいたある焼き物に注目しました。
華やかなは海外の人々に高く評価されました。その評判は日本全国の焼き物業者の間にまたたくまに広まりました。
薩摩焼を手本に変身をはかった京薩摩は緻密な絵付けで図抜けた評価を得たのです。
再現不可能と言われた京薩摩に独学で挑戦し続けている人がいます。
京都・伏見に工房「空女」を構え、その代表を務める小野多美枝さん。
もともと絵付けの仕事をしていた小野さんは15年ほど前に美術館で京薩摩と初めて出会いました。
京薩摩で特筆すべきは細やかな絵付けにあります。
釉薬を施して焼き上げた白素地の器に「骨描き」輪郭線を描くことからは始まる。
それを終えると彩色し、
焼成して色を定着させた後に金彩を施して焼き上げれば完成となる。
錦光山宗兵衛の作品「花見図花瓶」には圧倒的緻密さと繊細な筆致により、菜の花、菫などが描かれている。また、花瓶の口は金彩が施された百合、撫子、紫陽花などで覆われている。
明治時代半ばになると錦光山は広大な敷地のなかにいくつの工房を構えるまでに成長しました。
絵付け職人だけでも約500人を擁していたという。
「花見図花瓶」に関して、繊細な絵付けを可能にしたのは輸入された洋絵の具でした。
従来の「和絵の具」は透明性が高く、
濃い色を表現するには厚く盛り上げる必要があるため細かい描写には向かなかったのです。
しかも焼いてみてようやく目的の色になるのです。
一方「洋絵の具は」不透明で薄く塗っても覚寺市に発色させることができました。しかも焼く前と比較して発色の変化はあまりありません。
焼き上がりが想像しやすかったのです。
7代目の錦光山宗兵衛は絵付け職人として最先端の西洋技術を導入し、技術革新を図った。さらに経営感覚も優れていたという。
当時海外で流行していたのはジャポニズムの影響を受けたアール・ヌーボーの様式でした。
「花見図花瓶」の花瓶の口は浮き彫りをした花をデザインして流行の波に乗ろうとしたことが伺えます。
新しいデザインを取り入れた京薩摩は西洋人が好んだ日本の美を徹底的に研究して作られていた。
京薩摩 錦光山「花見図花瓶」
1920年代の日本では世界的な大不況の煽りを受け、隆盛を誇った錦光山も消滅したという。
黄金の輝きを放ち、絢爛たる色彩が描かれた「花見図花瓶」をはじめとした京薩摩は世界中に流出して行きました。
「花見図花瓶」は清水三年坂美術館の村田館長らのもと約20年前に入手されたもので、約1000万円の値がついたという。
それでもオークションに出品されれば、この何倍もの値段になるという。