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響くアートの愛好家

よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~

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よみがえる藤田嗣治~天才画家の素顔~

ランスで、藤田嗣治の秘密を解き明かす遺品が発見された。

20世紀前半のパリで、愛らしい猫や乳白色の肌の女性を描いて、ピカソらと並ぶ画壇の花形となった藤田。

しかし第二次大戦中がらりと画風を変えて凄惨な戦争画を描く。

戦後、非難にさらされる中フランス国籍を取得。二度と祖国に戻ることなく死去した。

以後日本では実像が厚いベールに覆われてきた。新発見の遺品が語る意外な真実とは?

戸田恵梨香がパリを訪ね素顔に迫る。

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放送:2018年9月8日

芸術のパリ。
今からおよそ100年前。人々を驚かせ大人気となった日本人がいました。
画家・藤田嗣治です。
パリでは今年藤田の展覧会が開かれ、たくさんの人が訪れていました。
「パリで芸術が花開いた1920年代の伝説の画家ですよね」
「藤田はフランスのみならず世界に誇れる存在だと思いました」

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おかっぱ頭にロイド眼鏡がトレードマーク。

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描いたのは愛らしい猫。

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そして独特の魅力をたたえた乳白色の肌の女性たち。
作品はパリの美術界で高く評価されました。
でもそれに比べて日本では、藤田の作品は長い間見ることすらできなかったといいます。
それはいったいなぜなのでしょうか。

 

 

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20世紀前半のパリで日本人画家として初めて成功した藤田嗣治

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しかし、日本ではその姿は暗い時代の記憶と結びついてきました。
第二次世界中日本に戻った藤田は、戦争画を描きます。

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戦後、戦争責任追及の矢面に立たされ、日本を去った藤田。

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やがてフランス国籍を取得。二度と祖国に戻ることなく、異国で世を去りました。
その人と作品は厚いベールに覆われることになったのです。

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しかし近年、藤田の素顔に迫る新たな資料が次々と公開されています。

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初めてパリを訪れた藤田が日本に送った手紙。

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若い藤田が心に刻んだ画家としての覚悟が記されていました。

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フランスの自宅には録音テープが埋もれていました死の2年前の藤田が残した貴重な肉声です。

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「これは誰にも今まで聞かせてもいません。いつか私の全貌を伺うという時に役に立つかもわからないと思って用意をしておるだけのことでございます」
それは誰の遺言とも言うべき言葉でした。
彼は後世に何を伝えようとしたのか。
天才画家・藤田嗣治の素顔が蘇ります。

 

藤田が初めてパリに来たのはまだ画家の卵だった26歳の時でした。
「あっちこっち芸樹しかないじゃないですか。どこを見ても。ここで何が残せるんだろうって考えるんだろうなぁ」

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パリ・モンパルナスには後にエコールドパリと呼ばれる外国人が集まっていました。

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イタリア出身のモディリアーニ

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ロシアのシャガール

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そしてちょっと先輩。スペインのピカソ
日本人の藤田は彼らと競うように絵の腕を磨き、ついには肩を並べるまでになりました。

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藤田の成功の理由はどこにあったのでしょうか。

 

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藤田嗣治1886年。東京新宿に生まれました。家は士族の名門で父は陸軍の軍医総監を務めました。

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幼い頃からが画家を志した藤田は東京美術学校で西洋画を学びます。

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美術学校の卒業制作の自画像。
鋭い視線が印象的です。
まだ日本に西洋画が入って間もない頃でした。
学校で学ぶ絵に満足できなかった藤田は、1913年パリへと渡ります。
26歳の時でした。

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パリについて二日目。藤田が訪れたという場所があります。あののピカソのアトリエです。ピカソは若き藤田を快く招き入れました。
当時ピカソキュビスムという新しい絵画に取り組んでいました。
それを知った衝撃を、藤田は後にこう語っています。

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「日本で想像する以上の絵画の自由さ。新しい形に躊躇なく飛びつく革命。日本の美術学校で習得した作風を全部放棄する決心をした。ピカソの家から自分の家へ帰るや否や、僕はいきなり絵の具箱を床の上に叩きつけてしまった」
「自分が見せるべきものを見つけなくちゃいけない。自分に何ができるんだっていうスタートラインに立ったのかな」

 

 

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当時パリに来た日本人の多くは伝統的な美術学校・アカデミーで学びました。ところが藤田は誰の指導も受けず独学で西洋の絵を吸収しようとします。

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特に関心を示したのは当時のパリで注目されていた新しい絵画です。

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パリに渡った翌年の作品です。

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ピカソらのキュビスムを主張そのままに、対象を様々な視点から見つめて描いています。

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同じ年の作品「巴里城門」。
素朴派の画家アンリ・ルソーのように風景を単純化して描いています。
これらの絵を描いた1914年の夏、第1次世界対戦が勃発しました。
戦火におびえパンを買う金にも事欠く日々。
しかし藤田はパリにとどまり続けます。

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一体何が当時の藤田を突き動かしていたのか。
近年若い藤田の思いを伝える貴重な資料が公開されました。

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藤田が日本の家族に宛てた手紙です。
ここには藤田がパリにとどまり続けた理由をうかがわせる、画家としての覚悟が記されていました。

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「せっかくこの世に生まれて人まねをしたり、俗人を喜ばせるような絵をかいて死んでは天に対してもすまぬ事。何の真似でもないもので初めて世界の藤田であって絵が尊い宝となるのである」
こうした姿勢からやがて藤田の傑作が生み出されることになります。

 


1918年第1次世界大戰終結戦。戦後の美術界では、後にエコールドパリと呼ばれる外国人画家たちが脚光を浴びます。
中でも評判を呼んだのが、日本から来た藤田が発表した斬新な絵でした。

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初期の代表作の一つ。「ジュイ布の裸婦」

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裸婦は西洋絵画において繰り返し描かれてきた画題の一つですが、藤田の裸婦はそれまでとは大きく異なるものでした。

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体を縁取る細く伸びやかな線。

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油絵の具ではなく墨を使っています。
そして何より藤田独自の表現として絶賛されたのが女性の肌。

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グランフォンブラン=偉大な乳白色の肌と呼ばれ、以後藤田の代名詞となりました。

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エコール・ドパリ研究の第一任者ソフィー・クレブスさん。
藤田の裸婦がパリの美術会に与えた衝撃を分析しています。
「藤田の裸婦に西洋の人々はノックアウトされました。あの乳白色の肌の女性は実に魅力的でした白い肌に藤田は墨で陰毛まで描いています。

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これほどエロチシズムを強調した裸婦はありません。裸婦なんてありきたりと思っていたフランス人を大興奮させたんです。当時パリには多くの日本人画家が来ていましたが、彼らは皆、芸術とは誰かに習うものだという固定観念にとらわれ、自分のオリジナルなものを見せてみろ、と言われても何もできませんでした。藤田だけがその壁を超えたから成功できたんです」

 

乳白色の肌という独自の表現はどのようにして生まれたのか。
藤沢その秘密をこう書き残しています。

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カンバスそのものが、慨に皮膚の味を与えるような質のカンヴァスを考案することに着手した。

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藤田は画面全体に肌の色を塗り込めた特製のカンヴァスを考案します。
そこに輪郭線を加え、影を加えて体を浮かび上がらせて行ったのです。
こうした技法を発想したヒント。

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それは日本の浮世絵にありました。
春信、歌麿などが描く浮世絵美人の肌の多くは紙それ自体の色を活かしています。
藤田は祖国日本の美術の特徴を巧みに取り込み、独特の裸婦を生み出したのです。
見知らぬ国に単身で乗り込み、ついに傑作を生み出した藤田。
この作品はベルギー王室の所蔵となったものです。
「ほんと線がすごいですね。たった一本の線で女性の柔らかさとかがわかりますものね」
藤田の裸婦はフランスの権威ある展覧会サロンに出品され、次々と入選を果たしました。
絵に漂うアンニュイな気分。
第一次世界大戦後のパリ独特の時代の空気を映しています。
「舞踏会の前」。女性たちがこれから向かうのは仮面舞踏会です。
人々はこうした宴で、酒と偕楽に溺れました。
パリは戦後の喪失感と開放感がないまぜになったいわゆる狂乱の時代でした。
パリの夜の舞踏会。藤田が踊っています。おかっぱ頭にロイド眼鏡の風防は人気となり、大通りにマネキンまで飾れます。あだ名はフウフウ。お調子者という意味です。
人々から愛された藤田は狂乱の時代の寵児となりました。

 

ところがこの頃、藤田は思わぬ非難にさらされます。
声を上げたのは祖国日本の画家たちでした。
「芸術家としての真の喜びを忘れひたすら人気取りひとつのために全力を注ぐ有様。画家の身上は画業以上に態度において決定されるものである。男性としての近代的気節を守り得るものでない限り、よき芸術を生むことができるはずはない」
また藤田は異国趣味の絵が珍しがられただけの宣伝屋。その振る舞いは国辱だと決めつけています。しかし藤田から見ればそれは受け入れられない中傷でした。
実は藤田は酒が飲めませんでした。宴で大騒ぎした後もアトリエに戻り絵を描くのが普通14時間。仕事を励む際には18時間筆を持ち続けたと言います。
パリでの成功の時期にすでに生まれていた祖国日本との軋轢。
それはやがて藤田を波乱の人生へと導いて行きます。

 

藤田没後50年の今年日本でその作品の全部を紹介する展覧会が開かれています。
ここでパリで一世を風靡した乳白色の裸婦とは全く印象の異なる絵に出会いました。
「この空気。恐怖しかない。突然重たい現実を突きつけるような強さが圧倒的だなってますね」
藤田の絵がこんなに大きく変わったのはなぜなのでしょうか。
藤田の絵を変えるきっかけとなったのは20世紀という時代の激動でした。
1929年。世界恐慌。不況の波は美術史上も飲み込みました。
絵の値段は暴落し狂乱の時代は終わりを迎えます。
藤田は乳白色の裸婦に変わる絵の模索を始めました。
新たな発想を求めて中南米などを世界各地を巡った藤田。
やがて日本に戻ります。
藤田の新たな境地を示す映画秋田にあります。
縦およそ3.6 M 横20 M の壮大な作品「秋田の行事」です。
祭りや年中行事などの人々の暮らしが親しみやすく描かれています。
日本に戻った藤田は巨大な壁画を積極的に描くようになっていました。
その理由を藤田はこう語っています。
「画家がいたずらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思う」
パリで描いた絵はサロンに集まる一握りの美術愛好家のためのものでした。
この頃の藤田は、そうではない大衆のための絵を描こうとしていたのです。
当時の日本は中国大陸への進出を加速させていました。
軍部は画家に戦いを記録した戦争画の制作を求めます。
戦争科は国民の戦意高揚を図るため日本各地で展示されました。
それまで美術に縁の薄かった人々も多く訪れました。
藤田は51歳の頃から戦争科の製作に参加。
やがて画家たちのリーダーとなって行きます。
戦争画を書いていた頃の自画像です。
エコールドパリの時代のトレードマークだとカッパ頭をすっぱりと切り落としています。
「自分を丸裸にしてる感じ。俺は日本人なんだっていうことを認めてもらうための手段だったのかな」
戦争画を描くことで藤田は日本の画家仲間と一体になることができました。
長い画家人生を通しても一度きりの日本の美術界との蜜月でした。
藤田はどのような戦争画を描いたのか。
それは大きく二つの時期に分けられます。
初期の戦争がのひとつ「武漢進撃」
1938年。日中戦争に従軍指定が来ました。
作戦の様子が淡々と記録されています。
一方後期の戦争科は印象が一変します。
1943年アッツ島玉砕。
母体はアリューシャン列島のアッツ島
圧倒的勢力のアメリカ軍に追い詰められた日本軍は全員が突撃して壊滅。
軍はこれを玉砕として国民に発表しました。
折り重なる遺体。日本兵アメリカ兵も見分けがつかないほどです。
藤田はどのような姿勢で描いたのか。
当時こう語っています。
「日本にドラクロアベラスケスのような戦争画の巨匠を産まなければならぬ」
「フジタの戦争末期の絵は、明らかにパリのルーブル美術館に並んでいる歴史的出来事を主題にした絵。つまり歴史画を参考にしているでしょう。歴史画の特徴は、写真とは違い描くときに写生に縛られないことです。いくつものシーンを重ねて現実の出来事をよりドラマチックに描くのです。アッツ島玉砕でも、戦う兵士や折り重なる遺体を現実にはありえない密度で重ねて全体を劇的な作品に仕上げています。藤田はルーブル美術館の偉大な歴史画に連なる傑作を書きたいと、真剣に願っていたのではないでしょうか」
この絵が東北青森で展示された時のこと。
会場に出向いた藤田はお年寄りが家の前に膝をつき拝んでいる姿を目にしました。
感動した藤田は、この絵こそ最も会心の作だと述べています。
軍の要望で戦争がを書くときの新しい表現を真摯に求めた藤田。
しかし戦争画は藤田の運命を大きく変えることになります。
1945年。終戦
戦後政策を担った連合国軍総司令部GHQは、軍人や政治家など戦争責任の追及に取り掛かります。
この動きに日本の美術界は敏感に反応しました。
戦争中名のある画家たちの殆どが軍の要望で戦争画を描きました。
その中で責任を取るべきは誰なのか。
画家たちの間でアンケートが行われたといいます。
そんなある日、藤田の家に後輩の画家が訪ねてきます。
その画家も戦争画を描いていました。
後輩に酒を勧めてもてなした藤田。
藤田の手記によれば、この時後輩の画家*1は涙ながらにこう言いました。
「どうか先生みんなに代わって一人でその罪を引き受けてください」

「私は内田にこう言った。・・・私が戦犯と極まれば私は服しましょう。死も恐れませんが出来れば太平洋の孤島に流してもらって紙と鉛筆だけ恵んで貰えれば幸です。答えて後は一切その話は打ち切って小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田にだけ、私は酒は一口呑まないからってすすめて話がいろいろはずんで来た。 何んな事があっても私は先生を見捨てたり致しません。必ず私一人丈でお世話をいたします。何うか先生皆んなに代わって一人でその罪を引き受けてください。酒が入って内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。」(夏堀全弘著『藤田嗣治芸術試論』より)

その後 GHQ戦争犯罪人のリストを発表。画家の戦争責任が問われることはありませんでした。

しかし藤田は日本を離れる決意を固めていました。
終戦の4年後。ニューヨークへ立つ藤田はこう言い残しました。
「絵描きは絵だけ書いてください仲間喧嘩をしないでください」
以後藤田が祖国・日本の土を踏むことは二度とありませんでした。
ニューヨークで書かれたカフェです。
藤田は再び女性を描き始めました。
しかしその表情はかつての干支はどこか印象が異なっています。
「なんか光と闇の二面性を描いてるのかしらこの絵で。顔半分で表情が全く違うじゃないですか。片目は正面見つめてるけど。片方は下を向いて、どこか儚げな表情をしてるからなんかそういう現実と現実じゃない部分があるのかな」
女性がいるのはパリのカフェです。しかしカフェは藤田が知るパリではないと言います。
「あの絵のカフェは藤田がいた1920年代のパリのカフェではありません。人物の服装や店の内装を見ると、さらに前。19世紀末のカフェだとわかります。背景にはマドレーヌと書かれています。これはブルーストが19世紀末を書いた小説「失われた時を求めて」の冒頭に象徴的に登場するお菓子のマドレーヌのこととも考えられます。あの絵は彼が体験した20世紀の辛い現実を描いたものではありません。彼はまさに失われた時。純粋に絵を描くことに専念できた19世紀末のような環境に戻ることを願っていたのだと思います」
ニューヨーク滞在を一年足らずで終えた藤田は再びパリに戻ってきました。
そのパリで最初に描いた作品の一つ。
かつて藤田が活躍したモンパルナスの風景です。
戦後エコールドパリの画家は去り。町は様変わりしていました。
帰ってきた藤田を一人の亡霊と雑誌は冷ややかに表しました。
しかしそれでも藤田はパリにとどまります。
1955年藤田は日本の人々を驚かせます。
フランス国籍を取得し、日本国籍を抹消。その四年後にはキリスト教の洗礼を受けたのです。新聞では日本を捨てたとの活字が踊りました。
深まってゆくばかりの藤田と日本の溝。
1970年代。藤田が世を去った後も日本の美術館にはこんな評価がありました。
「戦争にでもなると罪のない人民を質に駆り立てる作品を買う。藤田嗣治はそんなことをしておいて、敗戦したら日本人国籍を抜いて平気でフランス人に化ける。こんなものを芸術家と言えるのであろうか」*2


日本では藤田の没後30年以上にわたってその画業を見直す展覧会が開催されることがなく藤田の人と作品は厚いベールに覆われて行きました。
フランス人となった藤田はどんな暮らしをしていたのでしょうか。
「あと1時間風景がかわりました」
74歳の時藤田はパリ市内の家を引き払います。
そして郊外の農村ビニエールバクルに移り住みました。
古い農家を改修した小さな家。
ここで妻と二人亡くなるまで暮らしました。
「涼しい」
現在この家を管理するアン・ル・ディベルデルです。
「この家にあるもののほとんどは藤田が自分で作ったものです。この衝立もそうですよ。藤田が一から手作りしたものなんです」
衝立は妻への誕生日のプレゼント。
この小さな飾りもひとつひとつ藤田が金属の板を叩いて作ったと言います。
「どれだけの才能があったのか」
藤田の日々の暮らしが目に浮かぶよう。
これらの食器もみんな藤田のお手製です。
「こちらは藤田愛用のレコードプレーヤーです」
日本を捨てたと言われてきた藤田ですが、日本で聞いていたレコードは浪曲や落語などどれも日本のものばかり。
「渋っ」
家の中ではドテラで過ごし、食べる料理ももっぱら日本食
暮らしぶりは日本人そのものでした。
家の最上階にあるのは藤田が絵を描いたアトリエ。
「すごい。まるで昨日まで藤田がここで絵を描いていたかのよう。言葉を失いますね。圧倒的すぎて」
アトリエの来客はほとんどありませんでした。静かに流れていく時間の中で藤田はひたすら絵を描き続けました。
「何か描く事って言うか。作ることに呪われてた人なのかなって思いましたね。圧倒的なエネルギーパワーがここにある気がします。作るために生きてきた。生まれてきた人なんですね」
この家に調査されないまま保管されてきた貴重な遺品がありました。
「これは藤田が使ったテープレコーダーです。藤田はこれで自分の声を自分で録って自分で編集していたんですよ」
藤田は合わせて12時間に及ぶ録音テープを残していました。
今回の取材でこの中になくなるおよそ2年前に録音された肉声があることが初めて分かりました。
「このテープを公開するのは世界で初めてです」
「すごい」
「今日は1965年夏のある日。フランスの寒村で放送は隠居の藤田がいたします。もう私も来年はちょうど満八十歳になりますので私が生きてる間にどんな声をしていたか残しておいて後世の人に聞かせておくことも満更無駄なことではないと思います。今日北斎歌麿の声が残ってたらどんなでしょう」
それは死を意識し始めていた藤田が残した遺言とも言うべき言葉でした。

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書籍

 

www.tobikan.jp

*1:日本美術会・書記長の内田巌・洋画家・1900年2月15日~1953年7月17日。内田は藤田が1932年頃パリで面倒を見たこともある後輩で、疎開先でも生活をともにした仲だったといわれる

*2:「美術クラブ」1979年刊 出展:講談社文庫・近藤史人著「藤田嗣治『異邦人』の生涯」第5章「美の国」へ