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日曜美術館「知られざる藤田嗣治~天才画家の遺言~」

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日曜美術館「知られざる藤田嗣治~天才画家の遺言~」

f:id:tanazashi:20180820175827p:plainフランスに、画家藤田嗣治の肉声の遺言が埋もれていた。

「狂乱の時代」のパリでピカソと並ぶ評価を得ながら、日本では厚いベールに覆われてきた天才画家の意外な素顔とは?

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パリ郊外、藤田嗣治の自宅に残された録音テープを取材班が分析、中に遺言とも言うべき肉声があることがわかった。

藤田は20世紀前半のパリで、猫や乳白色の肌の女性を描いて、ピカソと並ぶ画壇の花形となった。しかし第二次大戦中画風を変えて凄惨な戦争画を描く。

戦後、画壇からの非難にさらされてフランス国籍を取得。二度と祖国に戻ることなく異国で死去、以後日本では実像が厚いベールに覆われてきた。

天才の意外な真実とは?

【出演】イラストレーター…宇野亞喜良,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

放送日

2017年9月9日

 


透明感をたたえた女性の白い肌。
素晴らしき乳白色と絶賛された裸婦像です。
作者は藤田嗣治
今からおよそ100年前フランスパリにわたり日本人として初めて高い評価を得ました。
トレードマークはおかっぱ頭にロイド眼鏡
社交界でも人気を集め、パリで最も有名な日本人の一人となりました。
しかし戦争が藤田の運命を大きく変えます。
第二次世界大戦中日本に戻った藤田は戦争画を描きました。
戦後戦争責任追及の矢面に立たされた藤田は日本を離れます。
そして二度と祖国の土を踏むことなく異国で世を去りました。
その人と作品は日本では厚いベールに覆われることになったのです。
そんな藤田の素顔に迫る新たな手がかりがあることが今回の取材で初めて分かりました。
晩年の心情を伺わせるメモがフランスに残されていたのです。
さらに晩年を過ごした家に死の2年前に藤田が残した録音テープが埋もれていました。
「これは誰にも言わで聞かせてもいません。いつか私の全貌伺おうという時に役に立つかもわからないと思って用意をしてるだけのことでございます」
それが遺言とも言うべき言葉でした。
いったい何を伝えたかったのか。
藤田嗣治の知られざる素顔に迫ります。

 


東京都美術館に来ています。
藤田嗣治没後50年ということで、その画業の全体を展開するような大規模な回顧展が現在開かれています。
藤田というと小野さんは長くフランスにお住まいですからよく名前聞いているのではないですか?
「日本から来ましたと言ってそれでその絵の話になると、必ずあの藤田だねと。なにを隠そう誰の誕生日を一緒なんですね11月27日で変化あるしかも名前を一時かぶってます」
藤田の作品や人生が広く知られるようになったのはここ10年あまりのこと。その後作品の公開や研究が進んでいます。今日は最新の研究の成果も踏まえながら藤田の実像に迫っていきたいと思います。

 

藤田嗣治1886年現在の東京新宿区に生まれました。
幼い頃から絵の才能を発揮した藤田は19歳で東京美術学校西洋画科に入学。
日本の西洋画壇を牽引していた巨匠・黒田清輝等に学びます。
黒田は光を正確にとらえ、対象の形や色彩をあるがままに描写しようとしました。
黒田がパリで学び、10年余り前に持ち帰った技法です。
当時の日本は西洋の絵画を吸収しそれを根付かせようとしていた頃でした。
藤田が卒業制作に描いた自画像です。
作品は黒田から"悪い絵の見本"と評されます。
画家としての将来は見えませんでした。
1913年。意を決した藤田は単身パリへと渡ります。
26歳でした。
当時パリに来た日本人画家の多くが学んだのは伝統的な美術学校アカデミーです。
しかし藤田は違いました。
居を構えたのはモンパルナス。
当時ここには世界中から成功を夢見る野心的な画家たちが集まっていました。
後にエコールドパリと呼ばれるモディリアニや、パスキン。
彼らと競うように藤田は腕を磨きます。
大きな衝撃を受けた画家はピカソでした。
パリについて二日目。
藤田はピカソのアトリエを訪れます。
そこで目にしたのはキュビスムという全く新しい絵画でした。
「日本で想像する以上の絵画の自由さ。新しい形に躊躇なく飛びつく革命。家に帰ってまず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩きつけました」
藤田がパリに渡った翌年の作品です。
ピカソキュビズムから受けた衝撃を示すように、様々な視点から対象を見つめています。
パリで新しい絵画の流れに触れながら、藤田の模索が始まりました。

 

この年1914年の夏。
第1次世界対戦が勃発。パリは連日ドイツ軍の空襲にさらされます。
藤田は蓄えが底をつきパンを買う金にもこと欠きます。
それでもパリに止まりひたすらカンバスに向かいました。
栄光の日々は終戦とともに訪れました。
再開されたサロンで次々と入選を果たしたのです。
初期の代表作の一つ「タピスリーの裸婦」
体を縁取る細く伸びやかな線。
油絵の具ではなく日本の墨を使っています。
そして何より藤田独自の表現として絶賛された女性の白い肌。
グランフォンブラン=素晴らしき乳白色と呼ばれ、以後藤田の代名詞となりました。
乳白色の肌という独自の表現はどのようにして生まれたのか。
発想のヒントが日本の浮世絵にありました。
春信や歌麿などが描く浮世絵美人の肌の多くは、紙それ自体の色を活かしています。
藤田は画面全体に肌の色を塗り込めた特製のカンバスを考案。
その上に輪郭線を書いて体を浮かび上がらせました。
女性の肌はカンバスそのものの質感を生かした独特の魅力を持つことになりました。
藤田は祖国日本の美術の特徴を巧みに取り込み、誰も見たことのない白い肌を生み出したのです。
「当時パリには多くの日本人が彼が来ていましたが、彼らは皆芸術とは誰かに習うものだという固定観念にとらわれ、自分のオリジナルなものを見せてみろと言われても何もできませんでした。藤田だけがその壁を超えたから成功できたんです」
「舞踏会の前」仮面舞踏会で出番を待つ女性達です。
ここには当時のパリ独特の時代の空気が映し出されています。
人々はこのような宴で酒と快楽に溺れました。
パリは戦後の喪失感と開放感がないまさになったいわゆる狂乱の時代でした。
パリの夜の舞踏会。
藤田が踊っています。おかっぱ頭にロイド眼鏡の風貌も人気に。
大通りには藤田のマネキンが置かれました。
パリで狂乱の時代の寵児となった藤田。
ところが思わぬ反発を受けることになります。
声を上げたのは祖国日本の画家たちでした。
「芸術家としての真の喜びを忘れ、ひたすら人気取りひとつのために全力を注ぐ有様。男性としての近代的気節を守り得るものでない限り、よき芸術を生むことができるはずはない」さらに藤田は宣伝でで有名になったに過ぎず、その振る舞いは国辱とまで決めつけています。
しかし藤田から見ればそれは受け入れることのできない中傷でした。
実は藤田は全く酒が飲めません。
宴で大騒ぎした後もアトリエに戻って絵を描くのが常でした。
「普通14時間。仕事を励む際には18時間位筆を持つ」
パリに渡り日本人として初めて高い評価を勝ち取った藤田。
しかしこの時祖国日本との間には深い溝が生まれていました。


では今日のゲストをご紹介しましょうイラストレーターの宇野亜喜良さんです。
よろしくお願いいたします。
藤田がとても好きだと伺いましたが。
「そうですね。藤田の絵の中にヨゴシ。輪郭からちょっと外したところにぼけ足があるんですね。オーラを纏っているような。それを僕は真似をしています。白を際だたせるためにやっている。藤田は女性の肌が美しく見えるという対比物としてヨゴシを入れているような気がするのです」
ここにフランス人を大興奮させた絵が間近にあるんですけど、どんなこんなことを感じますか?
「なんか女性らしさを出すって言うか、そういうこととそれからこのジュイというんですか。布の女性の着るものにすごいデリケートな。そこを書きたいために女性を選んでるみたいな。ちょっとオーバーに言うとそういうところがありますよね。だからこれも丁寧にその感じ」

 

パリで一世を風靡した藤田。しかしその後子画風を大きく変えていきます。きっかけとなったのは20世紀という時代の激動でした。1929年世界恐慌。不況の波は美術史上も飲み込み絵の値段は暴落します。狂乱の時代は終わりを迎えました。藤田は乳白色の裸婦に変わる絵を模索し始めます。色彩の多さが印象的な作品。ブラジルの人々を描いています。藤田がフランスを離れ中南米など世界を回りました。そこでヨーロッパとは異なる芸術に出会い絵を変えていきます。旅は3年近く。そして最後に戻ってきたのは祖国日本でした。この頃の日本は中国大陸への進出を加速させていました。やがて軍部は画家たちに戦意高揚を目的とした戦争画。作戦記録画の制作を求めます。戦争画は広く国民が鑑賞できるよう、日本各地を巡回して展示されました。藤田が戦争画の制作に参加したのは51歳の頃。まもなく画家たちのリーダーになっていきます。戦争画を書いていた頃の自画像です。エコールドパリ時代のトレードマークだったおかっぱ頭をすっぱりと切り落としています。藤田が戦争画に積極的に関わっていった背景には何があったのでしょうか。

 

戦争画を描くまでは決して日本の画壇の中でうまく溶け込んでたかって言うとそういうものでもない。20年半パリにいたっていうことが、日本の画壇との非常に大きな距離を作ってしまった。それは戻ってきてからもずっとギクシャクした関係を作り出してくるわけですよね。それを一変に戦争画が取り払ってしまったのではないかという気が」

藤田はどのような戦争画を描いたのか。それは大きく二つの時期に分けられます。初期の戦争画のひとつ「武漢進撃」。作戦の様子が写実的に淡々と記録されています。一方後期の戦争がは印象が一変します。「アッツ島玉砕」舞台はアリューシャン列島のアッツ島。圧倒的兵力のアメリカ軍に追い詰められた日本軍は全員が突撃して壊滅。軍部はこれを玉砕として国民に発表しました。激しい波が打ち寄せる北の海を背景に死闘を繰り広げる兵士たち。この絵をどのような姿勢で書いたのか。藤田はこう語っています。「日本にドラクロワ、ベラスケスのような戦争画の巨匠を産まなければならぬ」

「藤田の戦争末期の絵はあきらかにパリのルーブル美術館に並んでいる歴史的出来事を主題にした絵。つまり歴史画ご参考にしているでしょう。歴史画の特徴は写真とは違い、描くときに写実性に縛られないことです。いくつものシーンを重ねて現実の出来事をよりドラマチックに描くのです。アッツ島玉砕でも、戦う兵士や折り重なる遺体を現実にはありえない密度で重ねて全体を劇的な作品に仕上げています」

ヨーロッパの伝統的な歴史画を描こうとした藤田。この絵を描いた頃、座談会でこう発言しています。

戦争画というものは、始めたら面白くてやめられないですね」

「43年の7月に藤田は戦争画は面白いという見方をしだしていた。ある意味戦争画を面白いというのは僕は不謹慎だと思うんですけど、藤田に取ってみるとそれは絵になると自分の思っている絵がかけるという風に中でどこかでその気持ちの転換があったじゃないかと思うんですよね。前の絵の方がまさにその軍の注文に忠実な作戦記録画。絵ではないわけですよ。写真なんですよね。後のほうがやっぱり藤田が絵として描いている。藤田っていう一人の絵描きになってしまった」

アッツ島玉砕を完成させた頃、友人に宛てた手紙です。

「私も今度この戦争画を描いて、この世に生まれた甲斐のある仕事をしました」

 

1945年。終戦戦争画を描いたことで藤田の運命は大きく変わることになります。占領政策を担った連合国軍総司令部 GHQ は軍人や政治家などの戦争責任の追及に取り掛かります。この動きに日本の美術館は敏感に反応しました。戦時中名のある画家のほとんどが軍の要望で戦争画を描いていました。画家の中で責任を取るべきは誰なのか。ある日藤田の自宅を後輩の画家が訪ねてきます。その後輩も戦争画を描いていました。酒を勧めてもてなす藤田。藤田の手記によると、この時後輩の画家は涙ながらにこう言いました。「どうか先生。みんなに代わって一人でその罪を引き受けてください」その後GHQ戦争犯罪人のリストを発表。画家が戦争責任を問われることはありませんでした。しかし藤田は日本を離れる決意を固めていました。終戦の四年後羽田空港を発つ藤田はこう言い残しました。「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください」この後藤田が祖国日本の土を踏むことが二度とありませんでした。やがて藤田はおよそ10年ぶりにパリに戻ってきます。パリで最初に描いた作品の一つ。かつて藤田の脚光を浴びたモンパルナスの風景です。戦後エコールドパリの画家仲間たちは去り。街はすっかり様変わりしていました。パリの雑誌は帰ってきた藤田を一人の亡霊と冷ややかに表しました。1955年藤田は日本の人々を驚かせます。フランス国籍を取得し、日本国籍を抹消したのです。その四年後にはキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はレオナール。その後の藤田は作品にレオナールフジタとサインするようになりました。日本の新聞には日本を捨てたとの活字が踊りました。深まっていくばかりの藤田と祖国の溝。1970年代、藤田が世を去った後も日本の美術館にはこんな評価がありました。
「戦争にでもなると罪のない人民を質に駆り立てる作品を描く。藤田嗣治はそんなことをしておいて敗戦したら日本人国籍を抜いて、平気でフランス人に化ける。こんなものを芸術家と言えるのであろうか」一方、正しく理解されないなら忘れてほしいと作品の公開に身長になります。日本では藤田の没後30年以上にわたってその画像を見渡す展覧会が開催されることもありませんでした。こうして藤田嗣治という人と作品は厚いベールに覆われていったのです。
フランス人となった藤田はどんな思いで暮らしていたのでしょうか。藤田が洗礼を受けたフランス北東部の街ランス。2014年、遺族から市におよそ2000点の作品や遺品が寄贈されました。現在その調査が進んでいます。その中に漢字辞典がありました。藤田が覚えている漢字を記しています。長い異国での暮らし。漢字を忘れそうになっている自分に気付いたのでしょうか。最後に近いページにはフランス語がありました。
「こんな人生うんざりだ!」
晩年の藤田はこんな言葉も残しています。
「日本に生まれて祖国に愛されず。またフランスに帰化してもフランス人としても待遇も受けず、迷路の中に一生を得る薄明画家だった」戦後孤独に沈むことの多かった藤田ですが絵を描く意欲は衰えませんでした。多く描いたのが子供の絵です。戦後藤田はモデルを使わなくなりました。描かれているのは藤田の心の中にいる子供たちです。もう一つ数多く描いたのが宗教画でした。聖母マリアの隣に跪いているのは修道士姿の藤田自身です。
「この絵はとりわけ色彩がクリアだと思うんです。初期のフランドル絵画の研究成果が表れているところではないかなという風に思います」
フランドル絵画はヨーロッパで油絵の技法が完成した15世紀の絵画です。明るく発色の良い色彩描写。そして緻密で写実的な描写を特徴としています。藤田のこの絵からも鮮やかな色彩と緻密な描写が見て取れるといいます。戦後も新しい技法に挑戦していた藤田。
「油絵の技術を極めたいっていうことで油絵描きとして僕はここまで出来たっていうことを見せたかった作品ではないかなという風に思います」

 

パリ近郊の農村ヴィリエ・ル・バクル。藤田は74歳の時パリからここに移り住みます。古い農家を改修した小さな家。ここで妻と二人亡くなるまで暮らしました。この家に調査されないまま保管されてきた貴重な遺品がありました。
「これは藤田が使ったテープレコーダーです。藤田はこれで自分の声を自分で録って自分で編集していたんですよ」
藤田が合わせて12時間に及ぶ録音を残していました。今回の取材でこの中に亡くなるおよそ2年前に録音された肉声があることが初めて分かりました。
「もちろんこのテープを公開するのは世界で初めてです」
「今日は1965年夏のある日。フランスの寒村で放送は隠居の藤田がいたします。もう私も来年はちょうど満八十歳になりますので、私が生きてる間にどんな声をしていたか残しておいて、後世の人に聞かせておくことも満更無駄なことじゃないと思います。今日北斎歌麿の声が残ってたらどんなでしょう」
それは死を意識し始めていた藤田が残した遺言とも言うべき言葉でした。
「必ず絵には永久に生きてる魂があると思ってあります。最近私は私の声も声と同時に残しておきたいと思い出したのでございまして、私の絵もこの私の声も永久に残るように思っております。それではまたいつもの悪戯をいたします。ここはフランス片田舎。たれぞう見えたかな。はいはいただ今すぐ開けますから」
自分の声を後世に残すために藤田が選んだ方法は自ら芝居を書き自から全ての役を演じることでしたか。
「どなた様でございますか。またどちらから、どんな用でお越しになりましたか。またどうなりましたか」
舞台は藤田の家。また訪ねてきたのは

「さてはあの世からのお迎えでございましたか。その通りだ。俺は死神様だやっと上がり上がったの。しばらくお待ちくださいませ。もう少ししたいことが残っております。おいとっつあん未練がましいが、なんだとまだ仕事がしたい。いいかげんにおさらばしたらどうだいえ。いえ名声とか財宝とかいうものは、もう私には興味も未練もござりません。もう少し仕事をしてみたいのでござります。どれだけの力が私にあるかを一つまとめて試したいのでござりまする。この80年に戦禍を逃れ、人の誹謗にもめげず、こうやってここまで生きてきたことは何でござりましょう。全く天の神様のおかげだと信じております。その神様へお礼の気持ちで小さなお御堂を捧げたいのでござりまする」
80歳を前にしてまだ描きたいと願う藤田。やがて死神はその願いを聞き入れ去っていきます。
「そんならあばよ。とっつあん。風邪なんかひくなよ。元気でいろよ。ご親切な死神様もあるもんだ。これでこのじいやも少し働けるかなよかったよかったよね」

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これだけ素晴らしい数々の絵を残している人が、それでも尚、声も遺したかった。
そうですねどういうことなんでしょうか。
自分を忘れないでくれっていう感じがちょっとします。自分を責めないでください藤田嗣治という画家がここにいてそれを聞いてると人間の感じがしましたね。
人間としての藤田を残したい。私は藤田にとって何だったのかなってすごく考えたんですね。その絵は永久に残るからの彼にとってどこがいい場所だったのかっていうものかは時ですね日本でもないなんでもない彼が書いた絵こそが唯一の彼にとっての故郷だった。

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藤田が最後に力を試したいと死神に語った小さなお御堂。それがこの礼拝堂です。藤田は建物の設計段階から自らの意向を反映させるため細かく指示を出しました。壁画のために選んだのはフレスコ画ルネサンスの巨匠たちも手がけた伝統の技法です。フレスコ画は壁に漆喰を塗り生乾きの家に素早く書かなければなりません。技術と体力が必要とされる難しい技法です。80歳を前にした藤田は初めてこの技法に挑みました。礼拝堂の関西の2ヶ月後藤田は病に倒れます。そしておよそ1年後81歳で世を去りました。壁画の片隅に藤田は自らを描いています。最後の自画像です。20世紀の激動を生きた藤田嗣治。毀誉褒貶に晒された生涯でしたが、絵に対してはいつもひたむきでした。今フランス人レオナール・フジタとしてここに眠っています。
「私は一生かけて描いた数々の絵はどこへ行かに残るでございましょう。そうしてその絵を描いた当時の生き生きした生命もいいからお受け取りになることもできると思います。必ず絵には永久に生きてる魂があると思っていると思います」

 

取材先など

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放送記録

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書籍

 

 

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