日曜美術館「ムンク 自我の叫び」
あの世界的な名画が来日した。ノルウェーの画家・ムンクの「叫び」。
その誕生の背景とは?
そして多く残されたムンクの自画像に込められた思いとは?
その創作の秘密に迫る。
売りのひとつがムンクの自画像。
そこには死の恐怖におびえ、精神をわずらい、そして女性とのいさかいも絶えなかったムンクの人生を投影するような表情が伺える。
また有名な「叫び」は描かれた人物が叫んでいるのではなかった。
それでは何の叫びなのか?
さらに同じ背景で、ある有名な哲学者の肖像もムンクは描いていた。
それは誰なのか?
【ゲスト】作家・写真家…藤原新也,【司会】小野正嗣,高橋美鈴
放送日
2017年12月2日
自画の叫び
あの名画が日本にやってきました。
真っ赤に染まる不穏な空。
性別もわからない骸骨のような人物。
世界中の人々の心を捉える「叫び」。
描いたのはノルウェーの画家エドヴァルド・ムンク。
80年の生涯で2万点以上の作品を残しました。
「ムンクが描いた叫びは複数あり、これは最後の一枚です。ムンク自分が気に入ったモチーフは何回も描きました。彼にとっては実験的な意味があったのではないかと思います」
今回来日したのは47歳の頃とされる「叫び」
最初のものから17年後に描き直されたものです。
同じ作品を繰り返し描く一方でムンクは生涯自画像を描き続けました。
「物語を紡いでいる人はあまりいない。その物語をどんどんめくっていけば行くほど面白い」
自らを作品に投影し人間の内面を見つめ続けたエドヴァルド・ムンク。
写真家・藤原新也さんが独自の視点でムンク「自画の叫び」を紐解きます。
ムンクの人生
およそ100点の作品がノルウェーの美術館から来日しました。
叫びで有名なムンクですが実は生涯に80点以上の自画像を描いていました。
今回自画像のタイトルがある作品9点が来日。
そこにはムンクの生涯を投影するような表情が読み取れます。
写真家の藤原新也さん。かつてムンクの本に文章を寄せたことがあります。
絵を学んだ経験もある藤原さんは、ムンクが自画像を書き続けた心情にも興味があるといいます。
「僕も高校の時自画像は描いたけど、自分が混乱しているときだった。混乱しているときに自分を見つめ直すみたいなことで一生懸命自分を見つめる。鏡に映してね」
ムンクが初めて自画像を書いたのは19歳。
自信と野心がみなぎる姿に描きました。
当時の友人によればムンクはプライドが高く融通も聞かず指図されることを嫌う鼻持ちならないタイプだったと言います。
そんな若き青年画家が夜な夜な通った場所があります。
作家や知識人。前衛芸術家などボヘミアンと呼ばれる人たちが集うたまり場でした。
彼らは保守的な価値観を否定し、脱宗教、自由恋愛などを主張する進歩的な考えを持っていました。
彼らとの一夜を描いたリトグラフ。
左端に自分の姿も描いています。周りは過激な思想を戦わせる大御所ばかり。
未熟さを思い知らされたムンクは自分自身を店の片隅でうなだれた姿だして描きました。
もっと画家として学びたい。ムンクは26歳で政府の奨学金でパリへ留学。
そこで印象派など最先端の芸術に触れます。
しかし日常の風景を光の効果で描くような表現をムンクは気に入りませんでした。
オスロ市のムンク美術館に当時の日記や手記が保管されています。
そこには汝自らを記録せよというボヘミアの言葉に習い、人間を描くのだというムンクの決意が記されていました。
「もうどんな室内画も読書する男たちも編み物をする女たちも描かれるべきではない。これからは呼吸し感情にふるえ悩み愛し合う生きた人間でなければならない。私はそれを描く。それが私の義務なのだ」
ムンク魂の叫び。それは常に死を意識した生い立ちに深く関わっていました。
生まれつき病弱だった少年は5歳の時、当時死の病だと恐れられた結核で母を亡くします。
母の死後厳格だった父は神経症となり、幼い息子に当たり散らします。
「結核と精神障害という人類の最も危険な敵を私は両親から貰い受けた。病気と狂気と死が私のゆりかごの傍らに立つ暗黒の天使だった」
そしてムンク14歳の時、母親代わりとして慕っていた姉が結核で亡くなります。
ムンクは姉の死の間際の姿を繰り返し描きました。
32歳父につぎ弟も肺炎で失った年に描いた自画像。
彩色のないモノトーンのリトグラフです。生気を感じさせない虚ろな表情。
暗黒に包まれたその絵には骸骨となった腕が描かれ、墓標のように自らの銘を刻んでいます。
藤原さんはこの自画像がモノトーンで表現されていることに注目しました。
「白黒だけど、僕らは写真を作るときに部分的にややここをやや落としたほうが全体引き立つな、立体感出るなとかやるんですよ。それをこれはやっているんですよ。薄っすらと骨の上にグレーをかけている。同じ白なんだけどこれは薄くグレーがほんの僅かかかっている。だから顔が際立っている。同じ白だと立体感が出ない。より白く見せているのは、結核は当時白いペストと言われたでしょ。白いベストというイメージを際立たせている」
この自画像には常に死を感じ続けたムンクの思いが現れているようです。
そのリトグラフから四年後39歳の時に描かれた自画像です。
その名も「地獄の自画像」実はこの作品はある衝撃的な事件の直後に描かれました。
当時ベルリンで暮らしていたムンクはトゥラ・ラーセン女性と恋仲でした。
ある日別れ話のもつれから彼女は銃を発砲。
ムンクが左手で中指の一部を失ってしまいます。
その時の写真を生涯持ち続けました。
絵には苦悶の叫びと死の実感が赤く燃え上がる炎と黒い影で表されているかのようです。
知人の多くが女性のトゥラに肩入れしたためムンクは極度の被害妄想に襲われ、酒に溺れ精神を病んで行きました。
藤原さんはこの絵の背景にある動物の姿が見えるといいます。
「今日現物を見てはっきりしたんだけど、ここに狼がいるんですよ。これ鼻で足、狼が彼を見ている。西洋では狼は地獄の使者。タイトルも地獄だし。女性とのことはドロドロの地獄で、その挙げ句に殺傷沙汰が起きている。だからそれ地獄ってものともリンクしてた。この人やっぱり自虐的なとこがあって、地獄に落ちた自分を描きたいわけで。これもやっぱり芸術家の性って言うか。彼は病に墜ちれば墜ちるほどそれを描きたくなる人。それによってエネルギーを出す人」
神経症が悪化しアルコール中毒になったムンクはデンマークの病院に移り8ヶ月の療養生活を余儀なくされます。
その年に描いた自画像。青空の下で不安げな顔をしています。
長い療養生活を終えたムンクに転機が訪れます。
祖国ノルウェーへの帰国です。
個展の依頼や大学の壁画の制作も舞い込み、創作だけに没頭できる穏やかな時間が訪れました。
再び自信を取り戻したかのような自画像。
祖国へ帰国してからの心境をパトロンにこう書き送っています。
「無数の厄介事をどうにか持ちこたえて、私は今ノルウェーの岬に腰を下ろしています。内的な革命を全て経験した後で安らぎを手にしたいと願うばかり。創作に向けての意欲は充実しています」
彼は自分の作品を私の子供達と呼び、売れたとしても同じ絵をまた描き手元に置きました。
そうした充実した日々に不穏な空気が漂い始めます。
1937年。ナチスはムンクの82点の作品を不道徳で退廃的な芸術として没収しました。
退廃芸術家の烙印を押されていたムンクは命の危険にさらされたのです。
そんな状況で描かれた79歳の作品。
「自画像、時計とベッドの間」
整然としたベッドの間。
自分の子供達と呼んだ絵の前に佇むその姿に表情はありません。
ムンク最晩年の自画像です。
「これかなり残酷な絵だと思う。ここまで枯れてしまって、その枯れた状況をさらけ出せるというのはなかなか難しい。顔の表情にしても為す術もない。この時計が針がない。短針長針が。時計というのは常に未来へ向かっているんです。消えてしまっているって事は明日がない。生の終焉というのかな。その哀れな姿すらを描こうとしてる。これほどの老いの中で直立不動してる。ほんと悲しい絵だね。こういう絵まで描いてしまうムンクは非常に愛すべき人だと思う」
自画像が語るムンクの生涯
藤原「これは独房の絵です。ベッドがあってほんと狭い部屋で寝最初見たとき独房だと思いました。収監されたときに死を迎えている。刑務所に入れられる前に写真を撮るでしょ。残酷に自分を撮って分析している。客観的に見て、ダブルイメージではなく5つくらいの隠し絵があってね。扉が開いているでしょ。扉の向こうは闇なんです。死の直前で時計がない。未来がない。ベッドカバーがちゃんとかかってるって事は、芝居で言えば緞帳が降ろされたベットカバーを描いたムンクは、ここで終わりといっている。トコトコっと歩いていくとそこに死の世界がある。謎解きの多い絵で、はたして彼が意図して描いたのか、無意識で描いたのか。そこ謎。わからないですね。特に死の直前まで体験しながら逆に昇華させて芸術に向かっていくと言うそれは彼の真骨頂ですね」
本当に驚くのは自分が慕ったお姉さんの死ですね。何度も繰り返し描く。描くたびにその記憶は戻ってくるじゃないですか。
藤原「あれは一番悲しい。姉が死に直面した身でありながらあれほど美しい絵はない。美を見ることは救いなわけですね。美にのめり込むことによって自分は救われてる。彼の中にはハンデを背負っても常に美に昇華させていく絵描き魂というか」
叫び
展覧会の見所の一つムンクの代表作叫び。パステル画や版画など現存するだけで5点。その中で最後に描かれたこの叫びは初来日。47歳頃の作品と言われています。
「こういう人物を写真撮るときにポージングだよね。どういうポーズをさせるかという。僕自身はポーズをさせない写真家なんだけど、写真家によってはポーズを求める人がいるんです。こういう嘘めいたポーズは普通させない。だけど嘘くさくない。そのポージングが彼の中にある人生と非常に一致した状況。だからこれが嘘くさくなく」
ムンクはこの作品を書く前に試行錯誤を繰り返しています。藤原さんが注目したこのポーズもそうした中で生み出されました。
叫びは当初絶望という名の作品でした。
28歳の頃に友人と旅をした時に着想を得たと言います。
最初は帽子をかぶった男の後ろ姿として描きました。
その後帽子のないうなだれた男の姿に。
当初から変わらないのは赤い空。友人によるとムンクは悲しげな顔で血のような空を語り描き続けていたと言います。着想から2年。
絶望する男からあのポーズが生まれます。
ムンクは叫びの意味をこう記しています。
「二人の友人と道を歩いていた。太陽が沈み。空が血のように赤くなった。物憂い気分に襲われた。群青色のフィヨルドの上に、血のような炎の舌のような雲がかかっていた。友は歩み去ったが私は一人恐怖におののいた。そして聞いた。大きな果てしない自然の叫びを」
この人物は自然の叫びを聞いたムンク自身でした。
叫びはムンクの自画像とも言える作品だったのです。
藤原さんはムンクが聞いた自然の叫びとは何か気になりました。
「彼は自然を切り裂くような音が聞こえたと書いているでしょ。その音は何だろう。自然の叫びとは木を切り倒すと木が悲鳴を上げるじゃない。叫びとは木の叫びかもしれない」
この推理のヒントとなったのが「黄色い丸太」と第された絵。切り倒された木を正面から捉えた一枚です。
ムンクが叫びの構想を試行錯誤していた時期。
西欧列強の産業革命を支えたのが北欧の豊富な木材でした。藤原さんは森林伐採が進む状況の中でムンクが自然の叫びを聞いたのではないかと考えました。
「なんであんな材木の絵を描いたのか。いろんなものが結びついてくるというか。ムンクの叫びをみんな見たがるか。今の情報化社会は許容量以上の情報が流れ込むじゃない。耳をふさぎたくなるような環境でしょ。だからこの絵を見てどこかに響くものがあるんですよ」
今回の展示には興味深い作品があります。
叫びに似たような背景が描かれた絵です。
タイトルはフリードリヒ・ニーチェ。ドイツの哲学者ニーチェの肖像画です。
なぜムンクは叫びに似た背景を使ったのでしょうか。
そしてなぜニーチェを描いたのでしょうか。
19世紀後半ニーチェは保守的で道徳的な価値観を否定しました。
著書ではすでに神は死んだ。宗教に頼らず己を追求し超人になれと説いています。
ムンクはあのボヘミアンと呼ばれる人々と過ごした時代にニーチェの思想に出会い。深く傾倒していました。
ニーチェの死後肖像画制作の依頼を受けたムンクはその話を喜んで引き受けたのです。
ところが最終的に背景を書き直しました。
理由はわかりませんが依頼者に送ったこんな手紙が残っています。
「今完成しました。私はこの堂々とした作品に有頂天です。私は彼を堂々としかもを装飾的に描くことに決めました。ありのままに描くことは適さないと思ったからです」
なぜ叫びに似た背景を描いたのか。謎のままです。
「叫び」真の意味は
藤原「ニーチェの背景に夕焼けを持ってきたのは叫びと同じ状況を彼はここで描いてるということですね。それやっぱり神は死んだ。私はたちはそれに代わるものは持ちえないという非常に複雑な状況中で叫んでるという風に解釈をできなくはない。ましてや橋でしょ。時代の一つの橋渡し、架け橋で間をつなぐものと両岸があるってことですよね。宗教の時代があればこちらには産業革命の時代があるという関係。夕焼けっていうのは朝焼けではないのでどんどん暗くなっていく。絶望の一瞬意前という感じがあってそれとそのニーチェの言葉が非常にリンクしてくる。たまたまそういうポーズが会った時は非常にリアル。させたんじゃなくて。彼はいただいて心情に重ね合わせた」
ムンクと女性
生涯独身だったムンク。若い頃から危険な恋をいくつも重ね、満たされの思いで苦しみました。そんな女性達との泥沼の愛憎すらも芸術の糧として作品の中に刻んで行きます。この展覧会でもムンクと女性との関係から生まれた作品が多く来日しています。
初恋の相手との抱擁を描いた接吻。
モデルはあのボヘミアンたちが通うグランカフェの常連だったミリーです。
彼女はすでに夫がある人妻。不倫の恋でした。
藤原さんはリアルな出来事を芸術に高めるムンクの技量を感じると言います。「これは本当リアルなんです。ありのままに光のあるところで抱擁している。 幻想的なんだけど幻想に落ち込まない。リアルさを常に保っている。ヤジロベエみたいに。それが彼の特徴で、仮にこれが幻想的な絵になっていくと、突き刺さるものがない。それが彼の中にあるのは常に現実を写実しようとしている。場面をね。だから強い。現実を見てる写真家と似てるよね。」
ムンクを嫉妬に狂わせたダグニー・ユール。彼女もまた人妻でありながら複数の男性と関係を持つ自由奔放な女性でした。
彼女をモデルにした妖艶な女性の姿。
その縁取りには胎児と精子を思わせるモチーフが描かれています。絵のタイトルは聖母マリアを表すマドンナ。神聖なイメージとは程遠く。当時の宗教観ではありえない表現でした。
あまりの衝撃に酷評されたものの、後の代表作となりました。
ムンクはあのトゥラ・ラーセンとの間に起きた発砲事件さえも作品に描きます。
鋭く描きなぐったような線で構成されたマラーの死。
ムンクはこの絵について友人にこんな手紙を残しています。
「僕と僕の愛する者との死は大変な苦労を僕に要求した。これはむしろひとつの実験だと思っている。かなり太く時には1メートルを超える長さの線を垂直水平直角に走らせることで仕上げたんだ。この絵を描いた後、再び仕事に取り掛かる元気を回復するにはかなりの時間が必要だよ」
ムンクは死の危険もあった愛憎劇でさえ、作品の実験材料としたのです。
「人間の性みたいなものを奥底まで描いているからどんな時代に生きる人にも刺さる共通項がそこにある。性は人間の性の根本みたいなわけで、それを描き尽くして底の底まで描いているということは、僕らの中にもそれらはあるわけだから、常にムンクがリアルに迫ってくるのはそういうことだから」
ムンク自我の叫び
藤原「僕にも会って、見たの無いシーンを逆に美に昇華していく過程で作品が生まれることがある。ムンクの女性はやっぱりあの母親が非常に若くして死んだ。姉もそうですね。女性との関連も当然あってそれはひとつま母親に対するコンプレックスになってですね。それからもう一つは持っ父親との関係もある。クリスチャン・ムンクというのですが、もろ名前でそうなんだけど狂信的な信者でムンクが画家を目指した時には「罪深い職業」と言っているんです。ちょっと女性の絵に書くと破り捨てたりしている。それくらいキリスト教のモラルみたいなものを押し付ける。家を出たムンクは最初のミリーという年上の女性と不倫を起こすわけですが、その人妻の旦那が軍医なんです。(父に対する復讐ですか。非常に出来すぎている)どっかに無意識にあったんではないかと思ったんだけどね」
マドンナですが
藤原「問題は胎児でしょ。胎児がすごく暗いんです。消して今生まれいづる明るさがない。 上見ているんです。恨みの目なんです。
マドンナの顔を見ている。女性の罪深さみたいなものをですね描きつくしているんだなと思って。目は意図的です。ものすごいメッセージ性がある」
藤原「人ってトラウマを抱えていない人はいないと思っている。ムンクの場合トラウマの深度が深かったのでしょう。その深さを埋める過程で名画が出てきたんでしょう。非常にドラマティックな人生と思います。僕はこういう人とは付き合いたくないけど、愛すべき人だと思います。最後にドアの向こうに消えていくという」
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