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響くアートの愛好家

日曜美術館「“決闘写真”を撮った男 林忠彦」

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日曜美術館「“決闘写真”を撮った男 林忠彦

太宰治坂口安吾川端康成谷崎潤一郎…日本を代表する作家たちの肖像写真を撮り、素の姿を巧みに切り取った写真家・林忠彦

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被写体に“決闘”を挑み続けた生涯に迫る。

今年生誕100年を迎えた林忠彦は、作家の懐に入り込み、数多くの肖像写真をものにした。

戦後、林がカメラを向けたのは市井の人々だった。

復興に向け、たくましく歩む日本人の姿を写した写真には、林の優しい眼差しが満ちている。

後半生、取り組んだのは風景写真。

風景の中にも、かつてその場所に息づいていた人々の暮らしや営みを感じさせる写真に挑んだ。

昭和の時代、生涯をかけ、「人間」を写した林。その哲学を紐解く。

 

【ゲスト】写真評論家…金子隆一,写真家…坂田栄一郎,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

 

放送日

2017年9月16日

 

プロローグ

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バーのカウンターであぐらをかき仲間と談笑する太宰治

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鋭い目をキラリと光らせた瞬間をとらえた川端康成

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谷崎潤一郎は傍らに妻が座り表情が和らいだ一瞬を切り取りました。

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写真家林忠彦は昭和を代表する文豪たちと対峙し、普段見せない素の姿やその人物像をよく表す瞬間をフィルムに収めました。

生涯をかけて撮影した作家や芸術家たちは400人以上。

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林は自らの人物写真を決闘写真と呼びました。

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生誕100年を機に故郷の山口県周南市で開かれている展覧会にはそうした決闘の証が展示されています。

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「一カットでその人物を彷彿とさせる写真。カメラマンから見て、その人の本当の素顔を写すと決闘で勝ったという感じではないか」。

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戦後大量に創刊された大衆娯楽雑誌

林はそうした雑誌に戦後の混乱期、たくましく生きる日本人の姿や時代の雰囲気を活写し発表し続けました。

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晩年カメラを向けたのは人物ではなく風景でした。かつて底に生きていた息遣いや営みを感じさせる風景を写真に残したい。

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病を押し最高の一瞬を収めるための情熱を死の間際まで燃やし続けました。

常に被写体に決闘を挑み続け、時代を記録した林忠彦。その生涯に迫ります。

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写真家・林忠彦

戦後の日本を代表する文豪たち。林忠彦は作家それぞれの素の姿や性格、文学の世界観を写真で浮き彫りにしました。

堕落論を書いた坂口安吾。妻ですら足を踏み入ることを許されなかった書斎に入ることを許され、撮影した一枚です。床に散乱した書き損じの原稿や手紙。新聞などの山。厚くホコリが積もっていたといいます。身の回りのことには頓着しない人気作家の性格を巧みに捉えた林忠彦の代表作です。

放浪記の作者林芙美子。10年近く通してもらえなかったという書斎で穏やかな表情を引き出し、フィルムに収めました。

皮肉屋で通り、家の玄関に来客を拒む札が掲げられていたという内田百閒。小鳥と遊ぶあまり知られていない作家の横顔を捉えています。

著名な作家や画家などを撮影し続けた林忠彦。その名が広く知られるきっかけになった写真があります。

織田作之助昭和15年に発表され多くの読者を獲得した大衆娯楽小説「夫婦善哉」の作者です。この写真を撮影した場所が今も残っています。

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東京銀座にあるバー・ルパンです。

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出版社が近くにあったため、当時作家や編集者たちの溜まり場となっていました。

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ここを毎日事務所代わりに使っていた林。この場によく来ていた人気作家織田作之助に写真を撮らせて欲しいと頼みました。そしてこのカウンターで撮影を行ったのです。織田が結核で亡くなる一か月ほど前のことでした。そしてこの日、林はもう一人、大物作家の撮影を行いました。

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林忠彦の四男で自らも写真家の林義勝さんです。父からその時のことをよく聞いたときます。

「その撮影をしているときにたまたま一番奥に一人の作家が座っていて、奥の方から大声が聞こえてきて、酔っ払って"織田作ばかり撮らないで俺も撮れよ”という声が聞こえた。その時父は太宰治だということを知らなくて、うるさい男だけどあれ誰ですかと聞いたら、編集者が彼は今売出しの太宰治で、アレも撮っておいたほうがいいよと言われたらしい」

その時後林の手元に残っていた照明用の閃光電球はわずか一つ。シャッターチャンスは一回だけでした。

そして撮影したのがこの写真です。

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スツールにあぐらをかき、ポケットには新聞。作家仲間と楽しそうに談笑する太宰治。亡くなる前、太宰自ら机の上にこの一枚を飾ったといいます。

「この距離があまりないでしょ。引きがないので。その当時はここんトイレがあったのです。トイレの中に入って便器にまたがって下から撮影した。

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長椅子にあぐらをかいている。これは面白い。これだよと思ってそのカットを撮りたくて、ドアを開けてトイレの中から撮ったのです。父の写真の撮り方ってのは環境的ポートレイトです。周りの環境を生かしてその人らしさを表現する。顔の表情だけではその状況はあまりわからない。だけど、全体を入れることによって情報量がたくさん一枚の写真の中に写り込む。写り込んだ情報量は写真を見る人にいろいろな情報を与えるわけですよ」

林が撮影した作家のポートレイトはその後雑誌編集者の目に止まります。

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昭和22年に創刊された小説新潮。戦後、自由にものが書けるようになり、人々は新しい時代の小説に飛びつきました。作家は一躍スターのような存在になっていきました。

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小説の作者がどんな風貌をし、どんな生活を送っているのか。読者の好奇心を満たしたのが巻頭を飾った写真のコーナーでした。林はその腕を見込まれ撮影を担当することになります。

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執筆の様子や作家の個性を炙り出したそのポートレイトは評判を呼び林はその後20年以上も作家を撮り続けることになります。

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林は人物写真のことを決闘写真と呼びました。相手と対峙し、僅かな時間の中でもっともその人らしい瞬間を写真に切り取るという意味です。

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人物写真を撮る時の手法について林は生前 NHK のインタビューにこう語っています。

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「写真を撮るまでが、僕は長いんですよ。色々セットしてね。セットしてる間に、この人どういうひとだなとか。どういう雰囲気が一番合うなとか、どの顔がいいとか、喋っているときがいいとか、黙っている時がいいとか、光がいいとか、そういうのを観察する時間が割に長い。そこにたっぷり時間をかけて支度しながら見ているわけですよ。撮りだしたらいっきに。十分かからないです」そんな林にも撮影に苦しんだ作家がいました。

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伊豆の踊子、雪国を書き、のちにノーベル文学賞を受賞した川端康成です。

「この二枚が昭和20年代に撮った、最初に撮った写真です。あんまり寄っていないんです。

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父も川端さんに近寄りがたいというか。緊張している様子が、川端さんからもそうだし、父の撮っている様子がなんとなく伝わってきます」

その8年後。昭和37年に撮影した写真です。依然として川端を遠くから撮影しています。

「それでも寄っていないでしょ。かなり遠いところから狙って撮っている。その距離感がなかなか縮まらなかったという感じがこの写真から見てもよく判る気がします」

そして昭和45年。ついに納得行く写真が撮れます。

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「人に見せるものではないんですが、この写真を撮る経緯が写っている。最初に中庭で撮影をして、そのつぎに中庭に来ていただいて中庭で撮って、それから最終的にここまで寄って撮ったという。これはワイドレンズを使って撮っているんで実際50センチぐらい。このぐらいの距離で撮っている。で、一瞬目がキラッと光ったのを見て、あの鷹のようなキラっと光った目を撮りたいと思って、ぐっと寄っていったんです」

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最初の撮影から実に20年以上経っていました。

「ココまでは父にとっては返り討ちされたような写真なんです。ここで初めて決闘して相手をグサリと切り取ることができた。決定的な写真でしょうね。自分から相手をグサッと斬りつけたという実感が持てた写真。それくらい自分にとって完璧な仕事ができたと思います」

 

ゲストは写真史家で、戦後の写真の歴史にお詳しい金子隆一さん。
林忠彦ポートレートは当時はどんなふうに受け止められていたんでしょうか

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金子「いわゆるポートレート・肖像写真といいますが、その人の存在を描くということが肖像写真という言い方で言っていいと思います。それに対して林忠彦さんの写真は、本人も言っていますけど人物写真です。人物写真とは映してる人の行動とか心理の動き、それを写すものが人物写真ですよ、その人が具体的にどういう生き方をしてい、その生き方のアクティブな姿そのものを捉えようとしている。それが林忠彦さんの人物写真の大きな特徴なのではないか。撮り方の革新をもたらした写真家という言い方をしていいのではないかと思います」

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「この写真は貴重なカットです。太宰の隣にいる背広姿の背中。この人は坂口安吾です。織田作、安吾、太宰。戦後の無頼派と呼ばれる三羽烏がまさにこの場にいたという。太宰は安吾と喋っていたんですね。林忠彦さんは小説新潮に発表したときは薄っすらと僅かに背広があるようなトリミングで発表した」

 

神奈川県の葉山町。日本を代表する肖像写真科の坂田栄一郎さんです。坂田さんは28年にわたりニュース週刊誌の表紙を飾る世界の著名人の肖像写真を撮り続けてきました。林忠彦の肖像写真に大きな驚きを感じるといいます。

坂田「(坂口安吾の写真)これ見たときには、そこに活けばこれくらいの写真は撮れるよと、思っちゃう人もいるかも知れない。作家というのは書斎で撮られるのを嫌う人がたくさんいます。ましてやこういった散らかった状態で、奥さんにも見せない。普通だったらやめてくれよそんなところで撮りたくないよとこち割られちゃう人はたくさんいると思います。
これが、全体が坂口安吾なんです。坂口安吾のにおいとか体臭とかすべてがここに凝縮されているわけです。この写真の中には。ほんとに坂口安吾の真の姿なんです。この真の姿というのはなかなか捉えられないですよ」
「(織田廣喜の写真)これもね。普通キャンバスの向こう側から撮れないでしょ。何年も友達だとはいえ、こうしてくれとか、ああしてくれって言ってるわけじゃないですから。真剣な眼差しで描いてるわけですから。筆を立てて。こういう瞬間をキャンパスのこっち側か撮ってるわけだから全く邪魔になるわけでしょ。この近くですよ。これ見ると望遠レンズで撮ったと思えないもの。非常に近い距離で撮ってる。まさに決闘写真だと思いますよ。一対一で対峙して。それで撮れなかったら自分の負けですから。やっぱり林さんのエネルギーは尋常じゃないですよ。こういう人と向かい合って来られるんですよ」

 

林忠彦大正7年、現在の山口県周南市に生まれました。実家は祖父の代から写真館を営んでいました。今その写真館は林の長男康彦さんが継いでいます。母に買ってもらったカメラで10歳から写真を撮り始めたという林。その写真を見せてもらいました。林は地元のアマチュア写真クラブに入り、写真館の外に出て自由なスタイルの写真に挑戦していたといいます。19歳になった林は林が報道写真家になって間もなく太平洋戦争なかった中国と日本を行き来しながらベンチに向かう兵士などの写真を撮影しました終戦の翌年中国から山口に引き上げてきた林は写真学校に入学。卒業後勘当同然で山口を離れ、報道カメラマンととして生きることを決意します。「本来写真館の三代目。長男ですから、写真館継がなきゃいけない立場なんですが、それに飽き足らず東京に出て活躍したいというのがあった」林が報道写真家になって間もなく、太平洋戦争が勃発。中国と日本を行き来しながら戦地に向かう兵士などの写真を撮影しました。終戦の翌年、中国から山口に引き上げてきた林は再び東京に向かいます。空襲で焼け野原となった東京。そこで戦争が終わり復興に向かう日本人の姿やその湧き上がるエネルギーを精力的にフィルムに収めていきました。タバコを口にくわえ大人びた口調で話す子供達。親を亡くしながらもたくましく生きる様子をとらえました。食べるものにも事欠く中、同じく腹を空かせた犬を背負う子供達。代表作の一つです。林はラジオ番組でこう語っています。「あれは昔の参謀本部の跡で撮ったのですが、犬がお腹が空いているんですね。おとなしくおぶされていてですね。子どもももちろんお腹が空いていたのでしょうが、野犬を子どもがかわいがっている姿を見て、ああ二本もこの子どもたちが大きくなって、こういった優しい心があれば大丈夫だというほのぼのとしたものを感じました」林はこうした写真の発表の場を戦後相次いで発見された大衆娯楽雑誌に求めました。粗悪な紙に印刷された安価な娯楽雑誌は同時出回った密造焼酎になぞらえカストリ雑誌と呼ばれました。ピーク時には27以上の雑誌の仕事をかけもっていたという林。寝る間も惜しんで撮影した写真には苦難の時代を生きる人間の力強さや希望が映し出されていました。路面電車や汽車が走る銀座。踊り子が劇場の屋上に寝そべっています。1枚に多くの情報を込めることで見るもののイメージを掻き立て、時代の雰囲気を表現しています。今回、林忠彦の展覧会を企画した有田純一さんです。銀座の焼け野原で配給を受ける人の列を撮影したこの一枚に林忠彦の魅力が現されているといいます。「銀座和光が遠くに見えて、その右側に三越が見えます。その前が全部亡くなっていますよね戦災で。そこにチャップリンの紛争をしたサンドイッチマンが立っているんです。この状況を見ただけで、この一枚を見ただけで戦後の状況を伝える。これが林の作品の醍醐味ですよね」

 

山口県下関市の城下町に残る土塀。長州藩士たちが幕末の動乱を駆け抜けた時代を思い起こさせます。長崎県平戸市の高台にあるキリシタン墓地。隠れキリシタンへの迫害の記憶を呼び覚まします。林忠彦は後半生、風景写真の中にかってそこに息づいた人々の営みを表現することに挑み続けました。写真集の出版を手がけた編集者の小西晴美さんです。人物写真を撮り続けた林ならではのこだわりを風景写真にも感じたと言います。「人物を撮ってきた経験が、風景を撮る時も人を感じる"風景的人物写真"っていうことで風景の中に人の歴史とか営みとかをどうやったら感じさせることができるんだろうという風に実験的に作られたんじゃないかなと」長崎のオランダ坂です。オランダさんと呼ばれた異国の人たちの居留地にあったためその名がつきました。雨に濡れた坂の石畳。早朝にみぞれが降り林は慌てて駆けつけます。するとみぞれはやみ日が照り出しました。その一瞬を捉えた1枚です。「先生の中で雨が降った時に撮ろうとずっと思って何度か前に持って行ってらしたらしいんですけど、ある時にその光がその坂の石畳を舐めるような感じで、石の質感がすごく出てるんですね。石が摩滅して人が歩いたであろうっていうその歴史の気配とか、人が歩いた気配とかその一枚で気配を出すっていうのが最も出てる写真じゃないかなと」

そして最晩年。林がテーマにしたのが東海道でした。そのきっかけになった場所があります。静岡県湖西市白須賀海岸です。四男の義勝さんにその場所を案内してもらいました。江戸時代、東海道五十三次の宿場のあり大勢の旅人が往来したこの海岸には立派な松の並木がありました。昭和31年この地で撮影した写真です。茶屋のような建物が残っていましたが松林が少なくなり細く痩せてしまっていることに林は衝撃を受けます。「松並木のまるで羽が抜けたような松並木を見てすごく危機感を感じた。このままほっておいたらきっと江戸時代というか、当時の美しい街道の光景がなくなってしまうだろうと思ったわけです。そのときにひらめいた。六〇年前に。これはいつか江戸時代の面影を残す東海道を残しておこうと、そこでひらめいたのです」昭和六〇年から東海道に残るかつての面影を撮影し始めた林、息子の義勝さんとともに撮影に回ったときの映像がNHKに残っていました。脳内出血の後遺症で右半身が動かなくなり、車椅子に乗っての撮影でした。この時撮影した豊川稲荷の隣りにあるキツネの石像。赤い布を浮き立たせるため薄暮の瞬間を待ちシャッターを切りました。箱根の杉並木。七回かよってものにした一枚です。林が写したかったのはかつてこの道を行き交った旅人たちが見た景色。靄がかかり絶妙な光が差し込むタイミングを狙いました。静岡県浜松市浜名湖。林がこだわったのは棒の先に留まった二羽のカラスです。カラスの姿をかつての東海道の旅人の姿と重ねていたといいます。実はこの時林は肝臓がんの宣告を受け、治療を受けながらの撮影でした。自らの命はあと五年と覚悟を決めていたといいます。「治療をするとその後2日間くらいは薬の副作用で本当具合が悪いわけです。二日後には体調が良くなるわけです。良くなるときに合わせて撮影に出るわけです。だけど良くなったと言っても普通の人から見たら具合が悪いくらいの体調。それを絶対言わない。これは自分の仕事で東海道に挑んでいるのだから、そんな顔をスタッフに見せたら申し訳ないと思うんでしょうね、だから弱音は絶対はかなかった」そして平成2年9月。5年間かけて製作を行った東海道の写真集が出版されました。それを見届けるかのように林は三ヶ月後72年の生涯を終えたのです。最後まで被写体に決闘を挑み続けた写真家林忠彦。昭和の時代を記録した林の写真は今もその輝きを放っています。

「自身もあの風景的人物写真という言葉を使って自分自身の風景写真は普通の風景美を撮った写真ではないんだよっていうことを自分でもそのことを非常に意識して言われていた」
不思議な表現ですよね"人物的背景写真"ではなくて"風景的人物写真"。
「人が写っていなくてもそれは自分にとっては人物を撮るのと同じような人物写真なんだよっていうことの意味だった」
東海道の箱根。杉林のこの道を撮るのに7回通ったっていう話ですね
「手前が暗くて光が通っていてこうなんかくむこうに私たちの目が惹きつけられていくような。私がここを歩いているそういう思いにさせる。江戸時代の旅人が天下の険を超えその箱根の関所を越えてそして京都へ向かっての旅を続けていくその気持ちがまさにこの1枚の風景となって現れている」

坂田栄一郎「びっくりしたんだけど、しっぽが全部黒くシルエットになっていて、耳の部分はあたっている。それでこの赤だけがちょっと際立って像がこうまるで生きてるもののように浮き上がっている。昼間撮るのはやめて夕方撮ろうといったときに林さんの頭の中では仕上がりはこういう映像なるって言うことは全部わかってると思う。それで薄暮をねらったと思う。それが決闘。(確かに人ってのは一回きりですもんね。その一瞬)でも風景も一瞬。一回こっきりだと思う」

「人間と人間が作り出したものを見てきたのは林忠彦ではないかと思います。風景もそうだと思います。カストリの時代のあの子供たちの写真もそうだし、復員の兵士達のにぎやかな笑顔も同じだと思います。その人たちの心であったりとか、帰ってきたよっていうその言葉であったりとか、そういうのものを林忠彦は捉えている。林忠彦の写真がまた見たくなる魅力ってところにあるのはそういう理由が林忠彦の写真表現の中に含まれているからだと私は思います」

 


 

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