チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「心の磁石が北をさす~洋画家 相原求一朗~」

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日曜美術館「心の磁石が北をさす~洋画家 相原求一朗~」

北海道を描く洋画家の第一人者と言われた相原求一朗

生誕100年を迎え、故郷の川越市美術館で展覧会が開かれている。

なぜ故郷と無縁の北海道を描いたのか背景を探る。

大正7年、川越の商家の家に生まれた相原は、親の反対で美術学校に行くことをあきらめ家業を継ぎながら独学で絵を学んだ。

そんな相原の転機は戦争で満州に従軍したこと。

そこで描いたスケッチブックに後に北海道に通うことの理由を解くカギがあった。

それはいったい何なのか?

そして北海道の冬の景色にこだわった理由とは?

北海道出身の女優の高橋恵子が相原の北海道へのスケッチ旅行の足跡をたどり、その謎をひもといていく。

【ゲスト】高橋恵子,作家…高橋玄洋,【司会】小野正嗣,高橋美鈴

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放送日

2017年12月23日

 

 

プロローグ

北海道から初雪の知らせが届く頃。決まって訪れる画家がいました。

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相原求一朗。自ら撮影した8 mm フィルムには寒風吹きすさぶ壮絶な風景が映し出されていました。

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いつ止むとも知れぬ雪。乗降客を待つ小さな駅。

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北海道出身の女優高橋恵子さんが画家の足跡をたどります。

「あの家はこれですかね。このへんの感じ」

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何が相原を北の大地へ向かわせたのか。

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読み解くカギは戦時中書き溜めていた異国の風景です。

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それがなぜ北海道と結びついていくのか。

北の大地を静かな熱情で描いた画家の生涯に迫ります。

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北海道の画家

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相原求一朗は北海道のそれも厳しい冬の時期の風景を数多く絵に描いた画家です。

柏の森がすっかり葉を落とした秋の一日。

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北海道出身の女優・高橋恵子さんは北海道中札内にある相原求一朗美術館にやってきました。

「やっぱり北海道の風景。雄大な感じ。この山は知ってます。

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斜里岳。私は小学校6年まで北海道にいましたけれども、最後にいた場所が斜里だったんです。この山を見ながら学校に通ってたんです。

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こうして見るととても姿形も美しいですね。いつもそこにあるって言う感じ。見ると安心するんですよね」。

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北海道を描き続けた洋画家、相原求一朗。

初期から晩年に至る作品を展示した美術館。

風景の中にそこはかとない人間の息づかいが感じられます。

北海道をスケッチする旅の途中で出会った町。

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かつて石炭産業で栄えた歌志内の夕暮れです。

「北海道で暮らしてらしたわけじゃないのにこれだけ北海道の、特に寒い時期多いですよね。人が暮らしているということの、何て言うんでしょうね。それがいかに普通のことじゃなくてかけがえのないものっていうふうに思われたんじゃないかなと思います」。

 

相原求一朗という画家

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相原求一朗が暮らした街。それは北海道から遠く離れた埼玉県川越でした。

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大正七年1918年相原家の長男として生まれました。

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生家は代々穀物や肥料を商う川越の名家でした。

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11歳の時に描いた絵。色づいた稲穂が広がる秋の田園風景。

担任の先生に甲の上。よくできましたと褒められたそうです。

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少年漫画の模写も夢中でしました。

将来は画家になりたいという夢を持ちますが、長男であるために許されず。生涯に渡り家業と画業、両方を担うことになります。

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川越に残る相原邸。実業家そして画家として80年の生涯をここで送りました。

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納戸は画家相原の一面を伺える資料で溢れています。

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長年相原の秘書として働き取材旅行にも同行した石黒誠さんです。

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相原が残した膨大なスケッチや日記。そのどれもが北海道一色。

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「北海道に初冠雪が降ると先生が踊るような形でそろそろ準備だ。帯広なら帯広の気象庁に電話していつ頃が天気が良いということを聞いておけと。

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帯広なり旭川なり札幌なり一日で500キロも移動する時がありますから」。

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更に納戸には相原が北海道のスケッチ旅行を自ら記録した8ミリフィルムが残っていました。

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相原は忙しい仕事の合間を縫って3日からせいぜい5日というわずかな日程でスケッチ旅行に出かけたと言います。

相原を北海道に駆り立てたものとは一体何だったのか。

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その鍵となるのが満州点描秒と題された一冊のスケッチ帳です。

使い古した軍靴の紐で閉じられています。

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描かれていたのは異国の風景でした。

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昭和15年相原は21歳で召集され、旧満州

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現在の中国東北部で四年半の兵役に就きました。旧満州の東の端。牡丹江から弟に宛てた手紙が残されています。

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「本日はちょっとお願いがあるんですが」

意外なことにスケッチブックや絵の具を送ってほしいという願いでした。

戦場でも相原は絵を描いていたのです。果てしなく広がる大地。

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のどかに草を食む牛たち。もの皆凍る極寒の冬。手紙にはこう記されていました。

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「戦場にあっても私は筆を手放すことはできません。現在の私にとっては唯一の友なんですから」。

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特に相原は大陸の空を染める夕焼けを何枚も描きました。

死と隣り合わせにある日々の中で見つめた命の輝き。

この時の風景が後に出会った北海道の風景と心の底で響きあったと言います。

「北海道の風土がかつて多感な青春時代を過ごしたあの満州の原野に酷似していることにまず愛着を感じノスタルジーを掻き立てられた」

相原の8ミリは帯広の残照をとらえていました。

「私は不覚にも涙した赤い夕陽の満州がここにある」。

それから毎年毎年決まって極寒の冬相原は北海道への旅を続けました。

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手書きの地図には書きたい場所が克明に記されています。

8ミリフィルムにはバスを乗り継いで襟裳岬に向かう映像もありました。

凍てつく風景の中、精力的にモチーフを探しています。

 

高橋恵子がたどる画家の足跡

高橋恵子さんが相原の足跡をたどります。

「ここが襟裳岬です私も相原さんの旅したところを追体験してみようと行って参りました。やっぱり風が冷たいです」。

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襟裳岬。それは北海道の風景の中でも特に相原の心を捉えた場所でした。

好んで描いたのが灯台の東側にある断崖絶壁。

相原が潮風にさらされながら描いた場所です。

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凍える手で撮影した8ミリにもこの断崖が写っていました。

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そこから生まれた作品です。絶壁に建つ一軒の家。漁師小屋でしょうか。

小屋の存在が相原を度々この場所に向かわせたと言います。

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「相原さんはどの辺で描かれてたんでしょうね。あの家はこれですかね。この辺の感じ。寒い海に向かって一軒ぽつんとあそこに家がへばりつくように立ってますけれども。なぜ相原さんはこの場所こんなにこだわって描いてらっしゃるのかなと思うんですけど」、

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相原は最も厳しい冬の季節にもここを訪ねています。

画家のまなざしは過酷な自然の中で生きる人の営みに向けられます。

相原の風景画から人間の息づかいが感じられるようです。

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襟裳の町に一軒の旅館があります。56年前の相原の8ミリ。

襟裳に来るたび止まりました。

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この旅館で育った手取敦子さんです。

当時旅館を切り盛りしていたのが敦子さんの母親のコヨさん。

いつも着物姿で働いていたと言います。

「まあきっぷがいいですし、お客さんと仲良くなったらもう家族と同様みたいでお話ししたり。お友達みたいになったんだないかなと私は思うんですけど。だから何泊もしたのかもしれません」。

この旅館の事を相原は日記に記していました。

「襟裳の小さな旅館は50がらみの母親と娘二人でやっている。漁師あがりの節くれだった手で母親が料理を作る。昨晩のお客は私だけ。ミシミシと階段の音がしてやがて怒ったような表情で体格の良い妹の方が膳を運んできた。昆布の酢の物、昆布と油揚げの味噌汁それに牛乳が一本付いている。娘はおはようございますと聞き取れないような声で言ったが、後は一言も口をきかないで降りていった」。

相原が書き記した娘とは実は敦子さんの妹のことでした。

「おはようございますって言っても聞こえないようなかすかな声で。相手はわからないようにね、きっと声出すんでしょうね。まだ慣れないですしね」。

コヨさんは夫が中国で戦病死し、三人の子供を育てるため旅館を始めたそうです。

「相原さんも満州で過ごしたことがあって」「だからそういう話もきっと気があったんでしょうね」

戦争の悲劇は相原にとって他人事ではありませんでした。

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暗い闇を自らの胸の奥に抱えていたのです。終戦間近の昭和19年

搭乗していた輸送機が不時着。戦友の多くが亡くなる中、相原は奇跡的に助けられたのです。

死んでいった者。生き残った自分。癒せぬ傷が相原の心に刻まれました。

 

北海道を描く

戦後再び相原の川越での暮らしが始まりました。

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伴侶を見つけた相原は家業を継ぐかたわら本格的に絵を描き始めます。

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1950年に描いた白いビル。相原が所属した新制作派協会展で見事初入選を果たします。

以来毎年入選し、順調な画家人生が約束されたかに思われました。

ところがこの頃画壇に吹き荒れていたのが抽象画の嵐。

アクションペインティングなど型破りな手法が前衛と持て囃され、それまでの絵は時代遅れと否定されていきます。

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不惑と言われる40歳を迎えた相原は思い悩みました。

「私は昭和34年頃から絵画制作に対し大きな疑問が次々と生まれて思うように絵が描けなくなってしまった。私としては大変な冒険とも思える抽象作品を出したが見事に落選した。その翌年にも抽象作品3点を搬入したが、これも全点落選してしまった」。

「家へ帰ってきてもどうもご立腹で、なかなかね。当たるのもやっぱりこっちの社員の方にも回ってきまして。やむを得ないことだと思います」

すがるような思いで訪れた北海道。その旅がスランプを出すきっかけとなりました。

根室本線に乗って石狩と十勝を結ぶ狩勝峠にさしかかったときのことでした。

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「ひときわ高く売れるのきしむ音がすると目もまばゆい狩勝の展望が音を立てるように迫ってきた。白樺の木々の抜けるような白さ。紅に染まった灌木の林の鮮やかな赤。色面構成は そのまま抽象の画面であった。しかしそこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである」。

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木々の一本一本に筆を走らせ狩勝峠の眺望を描きました。

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ダイナミックな北海道の風景を目の当たりにして抽象だ具象だとこだわっていることの虚しさを相原は悟ったのです。

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「今まで抽象でなくてはならないとかたくなに考えていた呪縛から解き放たれた思いでこれからは自分自身の絵を描こうと心に決めた」。

画家人生を変える転機となった北海道への旅。

以来相原の心の磁石は吸い寄せられるように北をさしたのです。

 

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時は流れ昭和62年旧国鉄広尾線幸福駅。明日で廃線になるという日に、相原はここを訪れました。

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幸福駅2月1日。人の気配が消えていく駅への哀惜を込めた作品です。雪の中で描く相原の姿を鮮明に記憶している人がいました。

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土産物店を営む杵淵ケイ子さんです。

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「ここら辺りから描いていた。雪が降っていてあたりは真っ白で1時間くらいいました」。

この日のことを相原はこう綴っています。

「ふと見ると国鉄の職員が3人。厚い防寒服に身を固めて手に手にハンマーを持ち、雪を払いのけながら黙々と線路の点検を始めた。明日最終日の無事故を願っての最後の作業であろう。まもなく3人の姿は粉雪の中に見えなくなったが、断続的に聞こえてくるハンマーの鈍い金属の音は広尾線の終わりを告げるにふさわしい最終楽章の響きに思えてしばらくスケッチの手を休め、耳を澄まして立ち尽くしていた」。

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冬の景色に執拗にこだわった相原。そこには特別な思いがあったという人がいます。

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長年親交があった作家の高橋玄洋さんです。

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冬の北海道を描いた作品が自宅に飾られています。

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この絵と出会ったのは銀座の画廊。色とりどりの絵の中で色彩のない寒々とした1枚に目が止まったと言います。

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「寒さの緊張度っていますかね。それも厳しい温度って言うんですかね。そういうのが僕はの相原先生の一つの他の人にはない特徴だったような気がしますけどね。中国東北部の寒さの中で体験された死って今大きかったんじゃないでしょうかね。部下の方々で亡くなられたかたのことだとか、死に関してはかなり敏感でいらしたように思いますけどね」。

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自らも戦争体験のある高橋さんは相原の描く冬の風景には 死のイメージが重なっているといいます。

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「そこにある戦争体験の中の生死の問題みたいなのは生涯の先生のテーマの中にあるんじゃないでしょうかね」。

 

無常観を描く

晩年の相原がこだわったのが北海道の山でした。

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1996年亡くなる3年前。十勝幌尻岳を描こうとしていました。

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この時案内した樋口勝久さんです。当初吹雪で山は見えなかったと言います。

ところが相原の思いが通じたのか山が姿を見せ始めました。

一瞬の晴れ間を相原は見逃しませんでした。その間わずか30分。

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一気呵成に描きました。描きたいという一念が神々しい冬の山の姿を浮かび上がらせました。

中札内の美術館には相原が訪ね歩いた北海道の名産が雄々しい姿を現しています。

その中にとりわけ大きな異色の作品が展示されていました。

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縦1メートル80センチ横は2メートルを超えています。相原は150号という今まで描いたことのない大作に亡くなる前年挑んだのです。最後のスケッチ旅行に同行したの石黒さんでした。1年半前から患っていた病が悪化する中。大雪山系の黒岳に向かいました。

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「相当弱っていまして、自分でも取材というものに対して相当無理してでかけていったように思います。もう桶には描く時間が少ない。決められた一枚の絵でも残したいということをいっておられました」

相原がその時移した写真です。

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山並みを5枚合わせて構想を練りました。

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しかしできあがった絵は現地で取材したにもかかわらず実際には存在しない風景となりました。

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相原はパノラマ写真から雪の峰を、黒い崖を、鋭く落ち込んだ谷を大胆に切り取っていったのです。

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天と地と」と名付けられたこの作品。明るい山頂とは対象的に奈落の底のような切り立った谷が描かれています。石黒さんは、この絵を描いていた相原の姿が忘れられないといいます。

「先生の後ろ姿はなんか強いものが燃えているようで声をかけることは難しいかったですね。自分の魂を行けて描いているもんですから、気力が燃えたぎっているようです」。

命を削って描いた作品には迫り来る死をまるで覗き込むかのように暗く深い谷。それから半年もたたずに相原は旅立ちました。

 

天と地と」渾身の絶筆です。

まとめ

「最後にこれだけの絵を残されたということは、絵を描くということに対してすごく自分の存在の意義を見出すされてたんじゃないかなと思って」

「素晴らしい生涯だったような気がしますよ。堂々と描いたんじゃないか。自分の道っていうのね」

 制作プロダクション:オフィス天野

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