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響くアートの愛好家

日曜美術館 「いつまでも向かい合う山~田淵行男が写した山の宇宙~」

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日曜美術館
「いつまでも向かい合う山~田淵行男が写した山の宇宙~」

 

日本の山岳写真を変えた男といわれる田淵行男

写真家としてのみならず、高山蝶の研究家としてもその才能を発揮します。

山の神髄に迫りたいと願った男が見たものとは?

幼くして両親と死別した田淵は、その心の穴を埋めようとするかのように自然の美しさにのめりこんでいった。

山岳写真を芸術の域にまで高めたとされる技術も、後に学会でも高く評価される蝶(ちょう)の研究や、細密画も、プロをもうならせたアルバムの装丁のセンスも、そのすべてが独学。

その情熱を支えたものは何だったのか。

若き写真家、石川直樹とともに田淵行男の実像に迫る。

 

【ゲスト】探検家・写真家…石川直樹,【司会】小野正嗣,高橋美鈴


 

プロローグ

1940年12月1日未明。前の晩から雪になっていました。

「私は山では3時に飛び出して三脚を立ててブルブル震えながら緊張して日の出を待つ。そしてシャッターを切るのは1枚きりの一本勝負だ。結局いつでも一枚に全てを賭ける真剣勝負の気持ちでかかることになる」。

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79年前長野県の朝熊山で撮られた写真は日本の山岳写真に革命をもたらします。

記録としての山岳写真から芸術的な表現を目指した写真へ。

後に大きな論争を巻き起こした1枚。撮ったのはまだ無名の写真家でした。

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当時35歳だった田淵行男。中学校で教師をしていた遅咲きの新人でした。

生涯で残した写真は73,000点余り。山で過ごした日数は7000日にもなる寡黙な山男。

美しく珍しくそして尊い山の姿をどうすれば家族や親しい友人と共にできるのか。そんな願いが田淵を駆り立てたのです。

時には山の厳しさや神々しさ。時には花咲く野原。時には山での暮らしを。そして美しい蝶までも。ひたむきに山で美を追い求めた写真家の足跡を見つめます。  

時代を変えた山岳写真

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長野県安曇野。40歳の時に移り住んで以来、田淵はこの地を愛しました。

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地元の人たちを中心に作られた記念館です。

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田淵が残した写真73,000点や愛用の品々を収蔵しています。

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1956年発売の国産カメラ「リトレック1」。

寒さに強く南極観測にも採用されたカメラ。冬山での信頼性も高く長く田淵の相棒を務めました。

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無名だった田渕が鮮烈なデビューを飾った写真集。

発売も10日で完売するほどの売れ行きでした。

写真集がそれまでになかった世界観を示したことが注目されたのです。

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田淵行男の山岳写真集が出たことによって、それまでの山の写真のあり方ってのは、高い山に登ったとか、この山に行ってこういう景色を見ましたっていう。それを言ってみれば山に登ったこともない読者に説明するっていうか、こんなすごいっていう形でできていたわけだけど、田淵行男の山の写真っていうのは、登山かと言うより一人の人間。一人の芸術家が山に入ってそこで目にしたもの。山の本質っていうものを芸術家の目で捉えるということで、逆にそれが登山に興味を持っている人だけではなくて、一般の読者にもアピールして、新しい山の写真が始まった。夜明けの時代を迎えたという感動を与えた風に思います」。

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写真家の石川直樹さんです。

石川さんはヒマラヤの八千メートル峰をはじめ山の写真を取り続けてきました。

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石川さんは田淵行男の人生に刺激を受けてきました。

「いろいろ感じるところがあります」。

そんな石川さんが気になっている初期の代表作があります。

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「1940年の12月1日に撮られた作品です」。

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せり出してくるような山肌の迫力。山頂を含めた山の全容がわかるような説明的な写真ではありません。

あえて一部を切り取ることで浅間山の性格を伝えているのです。

「初冠雪なんでしょうか。山肌が印象的です。模様って言うかねあのディティールから浮かび上がってくるテキスタイルみたいな形とか線とかにすごくじっくり見る方ですよね。すごく気持ちを揺さぶられたんでしょうね。それでこの山肌をガツンと撮ってますよね」。

この作品を田淵はどのようにして撮ったのでしょうか。

79年前田淵が出発したのと同じ午前3時。

その日は夜から初雪が降っていました。初冠雪の日。

雪の山を田淵は狙っていました。

「普通の登山者が見てないところをね見てたんじゃないかなあと思ってその田淵さんの視点の中にこう入っていきたいですよね」。

どこに三脚を立てばあのアングルで撮れるのか。石川さんは田淵の写真を手がかりに歩いて行きます。

「ここで撮影して、ようやくはっきり同定できる場所に来た。この写真見てて開けた時に青い輪の形がまさにこれだと」。

80年近い歳月と移ろいゆく山の風景。

「雲が非常に速いスピードで動いてます。ここなんですね多分。下で見るとスジの模様みたいに見えたのが近づくと道ぐらいの幅があるんだとか色々気づくことがありますよね。その距離を縮めたり離れたりすることで山ってどんどん変化するっていうか、それを間近で感じられるのかなと思います」。

中腹に差し掛かった時、石川さんが動きました。

田淵の写真で印象的だった雲。実はすいじょうきでした。

「すごい吹き出してますね」。

火山ならではの山の躍動感。田淵はこう綴っています。

「山はいくら眺めても何も言わない。山はいつまで向かい合っていてもも気にしない。それを良いことにして私はじっと山を眺める。いつまでも山と向かい合う」。

「やっぱり山が動いてるっていうか脈々と息づいてるって言うか。水蒸気の形もね一瞬一瞬で変わってくし雲も動いてるし太陽の光も影になったり日向なったり常に変化してますからね。自分が山と関わっているっていう感じがすごくありますよね」。

この日、田淵が撮影したポイントは見つかりませんでした。残された可能性は別の山から狙ったというものです。

「登山道のどこかからかなと思ったんですけど、距離感がそれにしてはおかしくて、登山道だとしたらかなりちょっと離れないと撮れないかなと思ったんです。多分黒斑から朝熊山は結構距離があるんで、望遠のレンズを使って撮影したんじゃないかなと思うんです」。

考えられたのは谷を挟んだ反対側の山。あらかじめ考え抜いて狙った渾身の一枚だったのです。

「あの写真1枚本当に複雑な模様が浅間山の表面にあってで水蒸気が出ててで空が黒々としていて、あれは本当に川口さんがそういう撮り方をするためには、本当に山と深く関わらなきゃいけない。山を見て見て見て凝視した末に写真が生まれたんじゃないかなと思います」。

プロをもうならせた装丁のセンス

田淵が作った山のアルバム。

全ての文字は紙を切り抜いて作り、自らの写真を立体的に見えるようにデザイン。

時には地図も素材になりました。山での楽しいひと時が伝わってくるようです。

田淵が好きだったゴゼンタチバナ

これらはすべて子供が使うような彫刻刀で作り出されました。

その表現はさらにバラエティ豊かなものになっていきます。美しいロープのシルエット。山小屋のスタンプ。

高い完成度を持つアルバムですが、田淵は家族や友人に見せるだけ。

長い間世に出ることはありませんでした。

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「1930年代はドイツやアメリカからモダニズムという新しい芸術・デザインのあり方が入ってきて。特に日本はドイツの影響が大きいのです。近代的なデザインのスタイル。シンプルな、そぎ落としていくようなデザインの形っていうのを彼は知らず知らずのうちに身につけていて、それを自分の写真集の中に込めようとした」。

アルバムで培ったセンスは写真集に生かされました。

写真集のレイアウトを自ら手がけるようになった田淵はその作業に没頭します。

もっと自由にもっと楽しく。

それは写真にとどまらずあらゆる手段を駆使して山の世界を伝える挑戦でした。

その一つのピークが66歳で世に出した代表作「山の意匠」。

そこには山で出会える美しいものをありったけ詰め込んだおもちゃ箱のような世界が繰り広げられています。

田淵が訪ねた山小屋の焼印やスタンプのコレクション。

それさえも山の雰囲気を伝える作品へ。

写真を発表する場としての写真集から山を感じられる本へ。

「田淵さんの写真集は日本の写真集の歴史の中で特異なものだったりするんですよね。すごいですよね。骨の写真とロープの写真。スタジオみたいなとこでライティングして撮っていると思うんですよね。だから広告写真で言う物撮りみたいな撮り方をしていて、こういった写真を自然写真集の中に取り入れるということは誰もやっていないと思いますよ。こちら側は自然のものをそのまま写した写真だけど、これはフォトグラムという方法で影絵のように撮っている。デザイン的に処理する。自分がやりたいことったのはこの小さな箱みたいな世界だけども、その箱の中に来全部詰め込むことができて、一つ一つ取り出して見せて面白がるせるって言うか、そういう喜びっての写真集を作りながら感じだったと思うのす」。

田淵が世に出した写真集は36冊。そのほとんど全てに田淵自身が命を吹き込んだのです。

蝶に魅せられた男

三千メートル級の山々が聳える北アルプス

冬は氷点下二十度にもなる極寒の世界。そこに氷河期から生き残った高山蝶が生息しています。

およそ1万年前、広く分布していた蝶に異変が起こります。

氷河期が終わり地球は温暖化。寒冷な気候を好む蝶たちは標高の高い所に追いやられて行ったのです。

行き場を失った蝶がたどり着いたのはアルプスなどの限られた山々でした。

そんな蝶たちを知った田淵は自らの境遇を重ね合わせ、特別な愛情を持つようになっていきます。

明治38年鳥取県日野町に生まれた田淵は4歳の頃に母を、13歳で父を失います。

遠い親戚に預けられ、各地を転々とする生活を送りました。

快活だった少年は次第に寡黙になって行きました。そんな少年が心惹かれたのは野山で懸命に生きる小さな虫たち。

中でも美しい蝶は夢にまで現れたとにいます。23年にわたって田淵に師事した水越武さん。身近に接する中で田淵の悲しみを感じることもありました。

「幼いときに両親を亡くされて非常に孤独だったと思います。寂しいと言うか孤独感を抱いてて、山で昆虫などと親しくする。生き物と親しくするというのは唯一の慰めであったんではないかと。その中で人生を通して生き物たちから山に対して愛情をそそがれるんですが、田淵さんにとっての信頼できる唯一の存在であったような気が私の中にはします」。

大学で博物学を学び教師になった田淵は東京で家族と暮らし始めます。

1945年戦況の悪化に伴い知り合いを頼って家族と共に安曇野疎開します。

教師の職を失い小学校で使うスライド教材作りの仕事で日銭を稼ぐ生活。

家族の暮らしを支えながら田淵は蝶にのめり込んでいきます。

そんな田淵が見つけた聖地。北アルプスにそびえる常念岳です。

本州に生息する10種類の高山蝶のうち8種類が生息しています。

湯治高山蝶を研究する者は少なく、謎に包まれた生き物でした。

田淵はその正体を知る調査に着手します。1959年に田淵が発表した地図。

タカネヒカゲとミヤマモンキチョウの飛行ルート。

ここから場の行動パターンが解明されていきます。

やがて田淵は学会でも高い評価を受けるようになりました。

研究の成果は絵も変化を与えました。

これは田淵が中学生の時に描いたジャノメチョウ。

この頃から腸を精密に描こうとするこだわりが見えます。

そして40代の時に描いたミヤマモンキチョウ

色と形柔らかさまでが伝わってきそうな体毛の描写。

納得がいくまで観察を続ける田淵ならではの極地。

そんな蝶の研究と細密画も実は山の写真と密接なつながりがあると飯沢さんは言います。

全ては山のために。山の空気や風までも親しい人に届けたい。

そんな田淵は晩年パーキンソン病を患い少しずつ山が遠くなっていきました。

1973年、田淵は再び水越さんと山へ。狙ったのは蝶の山常念岳

「夕日がどんどん傾いて、なんとか間に合うように歩かれて、やっとたどり着いて西日が当たる時刻に空気も透明感が会って非常に美しかった。

我々も感動を受ける田淵先生の傑作写真の一つではないかと思います」。

つるべ落としに日が沈む10月。

山が見せた一瞬の表情。山でシャッターを切るのは一枚きりの一本勝負。

そう語った男が残した一枚でした。

 

 

放送日

2019年1月6日

 

取材先など

【蝶の山脈】NHKで田淵行男氏のドキュメンタリー: 登山にまつわるあれこれ|北アルプス・八ヶ岳 

放送記録

av98ingram.wpblog.jp

 

書籍

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展覧会