地域のアートスポットを紹介するシリーズ・にほん美の地図。
今回は山形県。
文明開化を告げる建築や世界的な写真家の美術館、新たな陶芸の町を司会の小野正嗣さんが訪ねる。
山形市の郷土資料館の建物は明治11年に建てられた重要文化財の擬洋風建築。
病院として使用されたが、その設計の裏に隠されたある意図とは?
貧しさゆえ6歳のとき逃げるように酒田から上京した土門の複雑な故郷への思いを一変させた出来事とは?
大石田町では、全国的にも珍しい陶器風呂の制作風景を取材。
陶芸家2人がこの町に移り住んだ理由とは?小野さんが探る。
「にほん 美の地図~山形~」山形市・酒田市・大石田町に美を訪ねる【日曜美術館】
放送日
2019年5月26日
プロローグ
小野正嗣さんが春の東北に旅に出ました。地図を描くように各地のアートスポットを訪ねその土地の美と出会うため。日本美の地図の始まりです。
小野さんが訪れたのは山形県。
地域に根ざす歴史、文化、風土、自然を美という視点から日も解きます。
山形市にある明治の文明開化を告げるこの建物には
東北ならではの伝統の技が隠されていました。
地元の熱意と土門を愛する人々の熱意が結集して立てられました。
そして大石田町には地元の土で新しい陶芸の里を作ろうとする人たちがいます。
日本美の地図山形に出かけましょう。
山形市
最初に訪れたのは山形市。
県の中央に位置する出羽山地と東の境にそびえる奥羽山脈との間に挟まれた盆地です。
この最上義光が建てた城の跡地に最初のアートスポットがあります。
案内をしてくれるのは地元の大学教授志村直愛さん。建築士の専門家です。山形の近代化を象徴する貴重な建物がここに移築されているといいます。
明治11年に建てられた旧済生館本館。国の重要文化財に指定されています。
西洋建築の技術が入ってくる前に日本の大工職人たちが見よう見まねで作った擬洋風建築と呼ばれる建物。独創的なデザインと大工職人の高い技術が詰まった傑作です。
この建物は和と洋の建築の特徴が入り混じっています。
屋根は日本古来の瓦が使われていますが、柱は古代ギリシャの脊柱のような作り。
しかし実は木で作られています。石造りに見えるよう、木材を彫って凹凸をつけているのです。
建物の中にも和洋折衷が散りばめられています。
「螺旋階段」西洋建築に欠かせない螺旋階段。
明治の職人たちはここに伝統的に使われてきた唐草文様を施しました。
そして階段を支える柱にはだれもが知る東北の伝統技術が使われています。「こけしではないですか」この丸みが似てますよね。こけしを作るとき使われる伝統の技が使われていたのです。いよいよ最上階です。この建築の一番の見どころがここから見えるそうです。
それは中庭を囲んで十四角形になっている建物の構造。日本でも西洋でもあまり類を見ないオリジナルのデザインです。当初円形をめざしていましたが木材ではきれいに作れずこの形になりました。
明治の文明開化の息吹を伝える旧済生館本館。何のために作られたのでしょうか。
実はこの建物には重要な役割があったのです。「県立の病院としてできた建物だったのです」明治初期。東北地方における西洋医学の拠点として建てられたものだったのです。
内科外科産婦人科など様々な診療科がある県立病院でした。現在は医学の歴史を学べる山形市の郷土館として一般に公開されています。
これは日本で初めて麻酔を使った外科手術の模様を描いたもの。指導しているのはこの人。
ローレツ先生とありますが外国人です。
描かれていたのはオーストリアから明治政府によって招かれた医師・アルブレト・フォン・ローレツ。日本に最先端の西洋医学を紹介し、さらに医学教育にも力を注ぎました。
ここで学んだ若い医学生たちが明治維新後の日本の医学の発展を支えていったのです。
この病院が作られた背景には、もう一つの意図が隠されています。
これは当時最上階からの景色を描いたもの。日本最初の油絵画家・高橋由一の山形市街図です。通りの人々が向かうのは当時の山形県庁。他にも警察署や学校など全ての建物が明治維新後に建てられました。つまり病院を含めたこの一帯は山形市で行われた新たな街づくりの中心地だったのです。
町を作ったのは山形の初代県令三島通庸。のちに警視総監まで務めたやり手です。三島にはまちづくりに対しある狙いがありました。当時政府は西南戦争など全国で勃発する不平士族の反乱に手を焼いていました。三島は山形でも反乱が起きるのではないかと考えたのです。そこで行った施策の一つが旧済生館を含めた明治の文明開化を象徴するような街づくりでした。進んだ西洋医学を導入し、人々に医療の恩恵を与える。明治政府の施策の正しさをアピールし、人々の批判や不満を抑えようとしたのです。この旧済生館は明治維新の歴史と近大医学の発展を物語るアートスポットだったのです。
酒田市
市内を巡る屋形船が観光の名物です。酒田は日本海に面した港町。ここはかつて江戸や京都に物資を運ぶ北前船の寄港地でした。
1万トンもの米を蓄える倉庫や日本一の面積を持つ地主として栄えた本間家の旧邸宅もあります。
当時の繁栄ぶりが街の随所に残っています。市街地から車で15分。
酒田出身の写真家の美術館があります。
土門拳記念館です。
土門拳は昭和の時代に活躍した世界的な写真家でした。
この日の展覧会のテーマは昭和を見つめる目。ここには土門拳の全作品。
およそ7万点が収蔵してあり、期間ごとにテーマ立てをして順次展示しています。
土門は日本の戦前から戦後の復興、その後の経済成長まで激動する昭和を撮り続けました。
明治42年に酒田市に生まれた土門拳。家は没落した士族の末裔といわれ、出稼ぎに出ていた両親に代わって祖父母の下で育てられたといいます。借金取りが来るような日々。土門はいつしか故郷に対し、複雑な感情を抱くようになります。そうした思いをのちにこうつづっています。
「僕の産地も原籍も、奥州は山形県である。冬は低く垂れこめて晴れる間もない雪空と、日本海の鉛色の海の白い波がしら。このことは今後僕という男の性格と死後を考察する上になかなか必要だと思うのでここに明記する次第」
土門が6歳の時一家は生活の打開を図って逃げるようにして上京。40年以上土門は酒田に戻ることはありませんでした。その後父親の女性問題をきっかけに土門は母と二人で暮らすようになりました。
土門が18歳の時に描いた水彩画です。当時絵描きを目指したほどの腕前です。絵の才能のおかげで授業料を免除され、ようやく旧制中学校卒業できました。
卒業後は職を転々としながら絵を書いていましたが、自分の才能に見切りをつけが絵の夢を諦めます。この頃世界恐慌の煽りで街には失業者があふれていました。
夢も希望も失った土門は自殺を考えるまでに思い悩んだといいます。そんな中、母親のつてで写真館で撮影助手の仕事を始めます。土門と写真との運命的な出会いでした。
やがて報道写真を撮り始め、アメリカの雑誌に載るほどの腕前となります。
戦時中は軍事訓練の模様や従軍看護婦などの報道写真を撮り続けます。そして戦後、土門は日本の美のリアリズムを追求します。日本各地の仏像を撮ったシリーズ古寺巡礼。仏と対峙し納得する写真が撮れるまで何十回も通い詰めたという土門。戦争で誇りを失った日本人に日本の美の尊さを見せたいと30年にわたって撮り続けました。 土門の弟子だった藤森武さん。鬼の土門といわれた仕事への執着を憶えています。「こういう写真は普通の人は撮れないですよ。ここまでアップして撮ってもこの鑿の後。これが大事なんです。ふつうは鑿目を強調しない写真を撮るんですよ。ところがこれを大事にして撮るんです。こういうところがリアリズム写真家の真骨頂」
それが酒田で初めて開催された個展です。故郷が生んだ大写真家の作品を見ようと多くの人が訪れました。その二年後土門は47歳で酒田の地を訪れました。実に41年ぶりに酒田に戻ってきた土門はレンズを故郷の人々に向けました。そのとき土門が撮った撮った写真です。酒田の歴史や風土が育んだ祭りと、生き生きとした故郷の人々の表情。土門の心境に変化が芽生えました。自分のルーツがここにあることを再確認したのです。
建設にあたっては親交のあった多くの芸術家たちが協力をしました。この枯山水の庭を作ったのは華道家の勅使河原弘。
山形県を貫くように流れる最上川の川沿いにある大石田町です。ここに新しいアートスポットがあると聞いて尋ねました。
やってきたのは町の温泉施設。30年前にふるさと創生事業で掘り当てた温泉です。
実はこれ、アート作品。地元の陶芸家が作ったものなのです。お風呂を作ったのは高橋さん。自宅兼アトリエとして住んでいます。
取材先など
放送記録
書籍
展覧会