今年生誕150年となる洋画家・岡田三郎助。
着物姿の女性を洋画の手法で描き、独自の「美人画」を生み出した。
女性のライフスタイルさえ変えたと言われるその画業に迫る。
今年生誕150年となる佐賀県出身の洋画家・岡田三郎助。
5年間のフランス留学で、洋画の技法を学ぶと同時に、日本美術の良さを再認識した岡田は、帰国後、会得した洋画の技法で着物姿の日本人を描く。
その彫りが深く西洋風の女性像は、多くの女性の心をとらえ、やがて活動的な女性のライフスタイルを生み出すことにつながったと言われる。
「西洋と和の融合」を信条に多くの傑作を残し、大正から昭和をかけぬけた生涯に迫る。
【ゲスト】アコーディオニスト…coba,佐賀県立美術館館長…松本誠一,【司会】小野正嗣,柴田祐規子
日曜美術館「洋画に日本人の魂を~画家・岡田三郎助~」
放送日
2019年6月30日
プロローグ
片肌を脱ぎ佇む女性。
洋画でありながらも日本画のような雰囲気を漂わせる独特の佇まい。
日本近代洋画の代表作とも呼ばれるあやめの衣です。
描いたのは佐賀県出身の洋画家岡田三郎助。今年は岡田の生誕150年の節目にあたります。
岡田は29歳の時フランスで5年間洋画を修行しました。
目の当たりにしたのは歴史に名高い名画の数々。圧倒的な技量を前に、とても追いつけないと思い悩みます。
「日本人である自分がどういう絵を描いて行こうかっていうこと。西洋と日本画を融合しようとした」
帰国後からは洋画の技法を使って着物姿の女性を描きます。
流行の髪型や装飾品で着飾った新しい女性のイメージ。
伝統的な枠組みにとらわれず自由に生きようとする新たな女性の生き方を後押ししていきます。最先端の技法で日本の女性たちを描き、生き方に影響を与えていった岡田の絵。明治大正昭和。激動の時代を生きる女性に寄り添った一人の画家の奇跡に迫ります。
岡田三郎助
町の中心にある県立美術館の敷地におととし東京にあった岡田のアトリエが移築されました。
築111年の木造の洋風建築。岡田は七十歳で亡くなる直前までここで絵を描き続けていました。天窓から差し込む柔らかな光を好んだという岡田。
佐賀県立美術館では岡田の作品を定期的に入れ替えながら常設展示をしています。
美人画の岡田と呼ばれるだけあり、会場には美しい女性を描いた数多くの作品が展示されています。
岡田晩年の傑作裸婦。
肌のキメ。ひとつひとつを写し取るような色使いです。
岡田の最高傑作といわれる美人画が神奈川県箱根町の美術館に所蔵されています。
1927年に制作されたあやめの衣。
色を愛しほとんど黒の絵の具を使わなかったという岡田。
緑青茶黄色。
色を塗り重ね、髪の艶を描きました。まるで手で触れられるかのような存在感。
桃色に染まる耳たぶは肌をあらわにする女性の心の内の現れでしょうか。
岡田はこの絵を描くにあたってある西洋の絵から構図を借りています。
花を摘むフローラ。火山灰に飲み込まれた古代ローマの都市ポンペイから見つかった有名な壁画です。
無数の西洋絵画を見てきた岡田は自らの絵画にその豊富な知識をしばしば活かしていました。一方でこの作品には日本的な要素も詰まっています。
例えば人物の背景は薄い黄土色一色。日本画の金屏風に習い、奥行を徹底的に排しました。1300点に及ぶ着物をコレクションしていた岡田。
モデルの女性には江戸時代に作られた琳派模様の豪華な一枚を着せました。
尾形光琳も描いたかきつばたと八つ橋が鮮やかです。
さらにある特殊な技法を使ってこの絵が放つ独特の佇まいを生み出していました。
その技法を見るために特別に作品を額から外してもらいました。
「通常麻布。キャンバスを使ってその上に絵の具をのせるんですけども、
この作品はキャンバスの上にクラフト紙をかぶせてその上に絵の具をのせているというそういう特徴があります」
岡田はキャンバスに重ねるようにクラフト紙を貼りその上から絵を書いていました。
フランス留学中に知ったその技法について岡田はこう記しています。
「西洋に面白いものがありましたそれは紙に染料を引いてそれをまたはキャンバスに貼ってあるものです。
それがまた不思議に美しい色を保っています」
絵の具の油を吸収するクラフト紙。その効果で光沢がなくなり、あたかも日本画のような佇まいです。
「岡田は和と洋というものを生涯のテーマとしているわけですが、まさに和と洋の融合というものの一つの帰結点であり、日本近代洋画の中の傑作美人画の傑作とも言われるし当然岡田の傑作中の傑作であると思うんですよね」
あやめの衣。岡田三郎助の手によって西洋と日本が融合した世にも稀な一枚です。
スタジオ
では本日のゲストをご紹介しましょう国際的に活動しているアコーディオニストで作曲家のCOBAさん。そして佐賀県立美術館館長で長年岡田三郎助の研究をしてきた松本誠一さんです。
洋行で学んだもの
1869年。文明開化と共に佐賀の家に生まれた岡田三郎助。実家は鍋島藩に仕えた武士の家系。
6人兄弟の末っ子として大切に育てられます。その後、父の転勤で上京。そこで運命を大きく変える出会いがありました。
同郷の外交官、百武兼行。岩倉使節団の一員としてロンドンで政治経済を学ぶ傍ら西洋絵画を学びました。
百武の代表作臥裸婦は日本人が初めて描いた裸婦の一つ。
眩いばかりの光沢や油絵ならではの存在感に岡田はすっかり心を奪われます。
洋画家を目指し、美術学校などで腕を磨きました。そして29歳の時、大きな転機が訪れます。文部省の第1回の留学生として芸術の都フランスのパリへと渡ることになったのです。芸術を通して西洋を理解することが求められていました。
岡田が師事したのは
。黒田清輝にも油絵を教えたフランス美術界の大物でした。
留学中コランの下で岡田が描いた作品です。降り注ぐ光の下、彫りの深い西洋人の女性を色彩豊かに描いています。
当時フランスでつけていた日記が佐賀県立美術館に残されています。
「これが手帳です」その中に師匠コランから指示された課題が記されていました。
岡田が足繁く通ったというルーブル美術館。世界中から名画が集まるこの場所で岡田は日夜模写に明け暮れました。偉大な画家たちの圧倒的な技術を我が物としたい。しかし歴史も風土も異なる東洋から来た岡田にとって それは到底不可能に思えました。
当時岡田が模写に挑んだ絵の一つがルネサンス期のドイツを代表する画家ホルバインの肖像画でした。
キャンバスの大きさを原画に揃え岡田は精緻な描写を試みます。構図や陰影。特に岡田が苦労したのが背景の装飾品。
光り輝く宝石の質感をいかに表現するか。三年をかけましたが最後まで満足な仕上がりにならなかったと言います。知人に宛てた手紙に苦しい胸の内が綴られています。
「今は色の手習いだ。教師の絵と比較すると、どうして自分はこんなに不注意に画を描いたろうと気が付いては常にやり直しをやる実に万物を真面目にみうるまでが容易なことではないと思う」
失意の底にあった岡田を勇気づけたのは師匠のコランでした。
日本に強い関心を抱いていたコランはアトリエを日本の美術工芸品で飾り付けていました。そしてそれらを自らの会にも積極的に描いていたのです。
文化の垣根を越えて自分が美しいと感じたものを描く。コランの姿が岡田の胸を打ちました。「日本人である自分がどういう絵を書いていこうか。油絵の技術力の上において当然西洋には太刀打ちできないと言うどっか意識が残ってると思うんですよね。そうした時に自分なり、日本人になりの油絵って物を作っていこう」帰国後、岡だが絵の主題として選んだのは着物姿の日本人女性でした。しかし構図は西洋の伝統的な肖像画。レオナルドダヴィンチのモナリザと同じ、四分の三正面です。着物の柄や質感も欧州で身につけた洋画の技法で丁寧に描き込みました。2年後にはさらに日本的な要素を盛り込んだ作品を発表します。この絵では女性が体と顔の向きを正面からずらしています。日本画の伝統的な構図です。背景には金屏風。琳派模様の立葵が鮮やかです。岡田は洋画を通して日本の美しさをもう一度発見して行きました。折しも時代は日本が日露戦争で大国ロシアに勝利し、一等国を目指して歩み始めていた頃。芸術でも西洋を模倣するだけでなく、日本独自のものを見いだす流れが生まれていました。その中でたどり着いたのが代表作あやめの衣。洋画を通して日本を発見して入った岡田の長い道のりの一つの到達点でした。
スタジオ
結構カルチャーショックっていうかありましたか。
「とんでもないカルチャーショックです。ローマ空港からテルミニ駅についてその駅の構内で口笛が聞こえたんです。ヴィバルディを吹いてね。なんじゃこりゃと。でも彼らは日本でいう民謡とかそういうものと同じように自分たちの祖先の作ったもんだっていう意識でビバルディとか当たり前のように。自分の持ってる楽器と同じものを持ちながら、子供たちがね僕18で行ったんですけど、10歳12歳の子供がとんでもないものを演奏していてのけぞりました」
「技術的、歴史的に圧倒的な力ですね。驚きを超えてるんじゃないかなというくらい」
「見えてくるものがあるんですね。自分は一体何者なんだろうというのは、1万キロ離れたヨーロッパだからこそ日本を俯瞰できるというか、自分の今まで暮らしてた国って何なんだろうね。自分はそこから来たんだけど実際どこから来てどこに行くんだみたいなことをやっぱり真剣に考えるのが留学した時代なんですよね。ものすごくそれは彼を苦しめただろうし、焦燥感の中でもでも確かな行く道と言うか自分の道みたいな鉱脈を与えたんだろうなとは思いますね」
岡田は個人の選択を声て背負っているもの、新しいその芸術文化っていうのを西洋、フランスから日本にもたらすってような使命っていうのもを背負ってたんじゃないかと思ってたのでは。
「その当時の国費の留学生。国から派遣をされるそれは大きな使命に国家を背負ってた。その第一号だから、日本人としてどういう絵を書いていくか油絵を書いていくか、その立ち位置って言うか、そういうものをまずはフランスにいた時から考え始めたと思った」
海外で勉強すると日本が少し前と違った風に見える。自分が出てきた土地が違った風に見える。そうするとでも元々持ってる日本で培ったものがあるから複眼的になるって言うんですかね。向こうで流行ってることをそのまま今度単なるコピーっていうか猿真似みたいになっちゃって、全然人達にとっても響くものにならないっていう課題があると思うんですよね。
「その一回行くじゃないですか。四年くらいね。しかし四年くらいだとかぶれたままなんです。帰ってきてかぶれたままでいるんです。けどでもそれでは若いときはちょうどいい時期。しかししばらくするとまた視点が変わっていって自分の本当の表現というものがだんだん見えてくる。複眼はまさにその通りで、目線が一個増えるような感覚はありますね」
女性の時代へ
西洋の絵画技法を通して日本を再発見していった岡田の絵。図らずもその後の人々の暮らしに大きな影響を与えていくことになります。
国内最大の呉服店三越。1902年後需要が低迷する中大胆なビジネスモデルに転換します。
多様な商品を陳列して販売するデパートメントストア。その宣伝の仕事が岡田に依頼されます。
それは着物の最新トレンドを打ち出すための宣伝ポスターでした。
ちなみに従来のポスターは浮世絵風。こうした中で登場した岡田の写実的な描写は絶大な宣伝効果を生み出しました。
「従来の表現方法で着物を着た人物を描くよりも、写実的に描かれた女性像の方が本当に身近に感じられると。一般の方も自分もあの着物を着てきたらこういうことができるんじゃないかとか色々想像することができたと思うんですね。一般の方々の購買意欲を高めるというかそういう効果そういう意味があったんじゃないかなと思います」
多くの人に知られることになった岡田の美人画。また新たな仕事が舞い込んできます。
大手新聞社が企画した日本一の美人を写真で決めるコンテスト。
その参加者を募る告知ポスターのメインビジュアルを書いて欲しいと頼まれたのです。
岡田はこの絵にこれからの時代を生きる理想の自身のイメージを投影しました。
大きく潤んだ瞳。ふっくらとした唇。
繊細な色彩感覚に裏打ちされた描写が、まだ見ぬ日本一の美女への妄想を掻き立てます。
指にはこのコンテストの優勝商品となるダイヤモンドの指輪が輝きます。
岡田は次第に西洋化する社会の変化を感じ取り、新時代の女性のイメージを描きだしました。
結局コンテストには7,000枚を超える応募が殺到。
最終審査の結果見事優勝を勝ち取ったのは大きな瞳とふっくらとした唇。
岡田の絵を彷彿とさせる16歳の美少女でした。
「新しい表現。目鼻立ちがしっかりしていて真っ暗とした唇をした可愛らしい女性像を描くことで一般の女性達にですね、これからは女性の時代だぞ。これから女性が頑張っていく時代なんだということを暗に示していたんじゃないかなと思います。これからの女性モダンな女性の象徴の作品だと思います」
さらに岡田は活躍の場を広げていきます。
取材先など
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