秀吉ゆかりのお堂や三重の塔。横浜に古い名建築を集めた日本庭園がある。
実業家・原三溪が自邸に作った三溪園。
5000点に及ぶ古美術のコレクターでもあった男の物語。
横浜の邸宅に夢のような庭園の風景をつくりあげた原三溪。
明治から昭和にかけ生糸貿易で財をなした実業家である。
「美しいものは一人で楽しむのではなく皆で分かち合うもの」と庭園を無料公開。
絵画にも造詣が深かった三溪は、5000点に及ぶ古美術を収集。
国宝「孔雀明王像」にまつわる興味深いエピソードも紹介する。
さらにパトロンとして新進の画家たちを物心両面から支援した三溪。
彼が目指した理想の美の世界を探る。
【ゲスト】武者小路千家 家元後嗣…千宗屋,造園家・ランドスケープ・アーキテクト…涌井雅之,横浜美術館副館長…柏木智雄,【司会】小野正嗣,柴田祐規子
日曜美術館「原三溪 美の理想郷を追い求めた男」
放送日
2019年8月18日
プロローグ
日本を代表する港町横浜。
その一角に昔と変わらぬ緑豊かな場所があります。
四季折々の自然の中に歴史ある名建築を散りばめた三渓園。
一人の男が自らの邸宅に20年もの歳月をかけて完成させた美の理想郷です。
原三渓。明治から大正にかけて生糸貿易で財を成した実業家でした。
こだわりぬいて集めた瀟洒な建物が風景の中に溶け込みます。
三渓が庭園作りとともに心血を注いだのが古美術の収集。
コレクションの中には日本美術の至宝が数多くあります。
35歳の時、破格の高値で手に入れ世間を驚かせました。
後に国宝となり仏画の最高峰に位置づけられました。
コレクションの数は5000点。
いずれ理想の美術館を作ることを夢見ていたと言われています。
さらにパトロンとして日本の美術界を担う画家たちを物心両面で支援しました。
その思いに応えるように次々と名作が生まれます。
近代化の波が押し寄せた時代、日本の原風景を探すように美しき世界を作り上げた原三渓。知られざる物語に迫ります。
原三渓とは
原三渓が作り上げた夢のような庭園。
園内をめぐっていくと17もの名建築が現れます。
古くは室町時代から桃山、江戸。
その多くが重要文化財に指定されています。
秀吉が母、大政所の病が癒えたことを喜び建立した小さなお堂・旧天瑞寺寿塔覆堂です。
その装飾には桃山時代の華麗な細工が施されています。
極楽浄土にいるという人の姿をした鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)。このお堂だけでなく多くの建物が京都や鎌倉などから移築されました。
原三渓は江戸が明治となった年に岐阜で生まれました。
母方の祖父は高橋杏村という優れた南画家。その影響で原三渓も子供の頃から絵を学びました。
16歳の作品です。美への探究心は既に芽生えていたようです。
しかしその後は東京専門学校、後の早稲田大学に進み政治や法律を学びました。
25歳の時横浜一の生糸商、原家の婿養子となります。
近代的な経営手腕で事業を拡大させ、やがて日本一の富岡製糸場を経営。
海外に支店を出し世界に向けてビジネスを展開しました。
その潤沢な資金を投入して、明治35年から20年の歳月をかけて作り上げた三渓園。
自らも大きな茅葺の田舎家を建てて暮らしていました。なぜ三渓は古い建物に心惹かれたのでしょうか。
園内を行くとひなびた寺に出会います。
駆け込み寺として知られる鎌倉の尼寺東慶寺。
鎌倉では鶴岡八幡宮、円覚寺に次いで3番目に勢力のあった寺でした。
しかし三渓が貰い受けた時、仏殿は雨漏りがするほど荒れていたといいます。
それは歴史の大きな変革によってもたらされました。
明治の初め廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。神道を推し進める明治政府は、仏教を排除するため仏像や仏具、お堂などを破壊。
寺は受難の時代を迎えます。三渓は捨てられていく建物を守ろうとしたのです。
そこには幼い頃の強烈な記憶があったからだと言われています。
三渓のふるさと岐阜。
母方の実家近くにあったのが由緒のある日吉神社。
境内には三重塔が天を突き刺すように立っています。
この三重塔も廃仏毀釈の標的になりました。
神社に三重塔があるのはおかしいと打ちこわしの命が下ったのです。
心の拠り所だった塔を守ろうと村人たちは大胆な方法を考えます。
「国の命令。それに逆らうというのもおかしいですが、
三重塔に覆いをかけて、ただ今壊しておりますということを視察に来られた方に見ていただいて、視察が終わりましたらまたそれを取り除いて三重塔をそのままにしてあったと聴いております」
塔を壊しているように装い、塔を守ったという話は幼い三渓の心にも深く刻まれていたのです。
三渓園の小高い丘に凛と佇む三重塔。造園を始めて12年目。
三渓は京都の旧東明寺でこの美しい塔を見つけ移築しました。
三渓の美の理想郷そのシンボルです。
明治39年。庭園の入り口にはこんな看板が掲げられました。
遊覧ご随意に。三渓は庭園を無料で開放したのです。
美しいものは一人で楽しむのではなく皆で分かち合うもの。
三渓の生涯変わらぬ信念でした。
スタジオ
庭屋一如
実業家としてだけでなく高名な茶人としても知られた原三渓。
その美意識を結集した風雅な建物があります。聴秋閣。千さんが訪ねました。徳川家光が京都二条城に建て、後に春日局が賜ったという歴史を刻んでいます。原三渓は移築に際し、ざわざここに水を流しせせらぎを作りました。自然な流れになるように水底の石組みや踏み石など一つ一つ選んで配置しました・「この空間を作られてるわけですけれども、流れの中に佇んでる様子を見てるとまるで水の上に浮かぶ屋形船がそのまま建築になった、そんな印象を感じています」風景を建物に取り込みたいと考えた三渓は二階の火灯窓の中心に三重塔がピタリと収まるよう緻密に計算して移築しました。「中に入ってみると茶室というよりは、東屋という感じで、自然との一体感というものが感じられる建物だと思いますね。建物の中にいながらこの自然の中に身を置いて自然と一体となる。自然を楽しむというそういうコンセプトの建物だと思います。あたかもこの場所にも300年ずっと佇んでるかのような落ち着きとたたずまいを見せてますけれども、そこが見事だなと思うんです」秋になると三渓が植えた紅葉が周囲をつつみます。錦織なす一服の絵画のようです。
スタジオ
コレクター原三渓
美の理想郷に佇む原三渓。三渓はまた古美術品の大コレクターでもありました。
三渓園の一角にはこんな建物があります。
大正時代にはまだ珍しかったコンクリートで作られた堅固な蔵。
鉄の扉には尊敬自身の筆で国華の文字。
国華とは国の誇りという意味があります。
ここには三渓が長年にわたって収集した国華の名に恥じない古美術品の数々がしまわれていました。
20代の半ばから集め始めた名品。
茶道具をはじめ絵画や彫刻など多岐に渡りました。
美術コレクターとして三渓の名を一躍世に知らしめた1枚があります。
後に国宝となった孔雀明王像。災いや煩悩を取り去るという孔雀に乗った明王。
孔雀の羽は青や緑の深い色彩で濃密に描かれ、
身にまとう衣や胸飾りには金泥や金箔を細く切って貼った截金文様が散りばめられています。
元々所有していたのは明治の元老井上馨。
古美術の収集家としても知られていました。35歳の三渓は目を奪われました。
仏画が100円ほどで手に入った時代、井上は1万円という法外な値段をふっかけます。
しかし三渓は迷うことなく大金を工面し手に入れました。
幼い頃から上質な美術に触れてきた三渓。
そこで養われた審美眼で次々と名品をとらえていきます。
《寝覚物語絵巻》更級日記の作者、菅原孝標の娘が書いた夜半の寝覚を絵巻にしたものです。
平安時代の波乱に満ちた女性の生涯が華麗に描かれています。
金や銀の砂子や切箔を散らし、優美に描かれた物語絵巻。
王朝文化を今に伝える銘品としてのちに国宝に指定されました。
三渓が記録した古美術品の目録です。
購入した値段と品物が書かれています。
コレクションはおよそ5000点ありました。いつかは美術館を建てたい。
そんな夢もあったと言われています。
銘品揃いの三渓のコレクション見たいという人は後を絶ちませんでした。
三渓も快く受け入れていました。
三渓園を訪れた人が書き残した芳名帳。
海を越えて様々な国の人がやってきたことがわかります。
三渓園に半世紀以上を勤めた川端留治さん。
三渓のもてなしの流儀を聴き伝えてきました。
「世界中からお客さんが見えましてね、大きな部屋を3つも用意して、時間のない人にはお茶菓子程度で、
今日はゆっくりという人にはお食事の用意までしたのですよ。人さまが来られて、ああ素晴らしいという、そういう美しいものがたまたま私の所有物になっていてもそれは個人の所有物するものじゃない。これは皆さんと一緒に楽しむものだということに本当に徹していましたね」稀代のコレクターでもあった三渓は日本の美術界の行く末にも心を配っていました。
親交があった岡倉天心。
天心は美術界が西欧化に進む中、日本美術院を創設。
新たな日本画を生み出そうと模索していました。
そこで学ぶ才能ある若い画家たちを、三渓はパトロンとして支援。
当時6円もあれば暮らせた時代、月々100円を2年間にわたって援助し、経済的な苦労なく制作に没頭できるようにしました。
三渓が支援した画家の中には後に日本の近代絵画を担う、横山大観、下村観山、安田靫彦たちがいました。
三渓は彼らを自宅に招き貴重な美術品を鑑賞させ美の真髄を教えようとしました。
歴史画の名品を残した安田靫彦はこう記しています。
「我々は毎月のように三渓邸に招かれ、泊りがけで名品を拝見し、各々意見を述べあい、三渓氏も同輩のごとくになって品評の仲間に入られ、時には興奮よってすることさえしばしばであった」
芸術論を戦わせる日々は若い画家たちの血となり肉となり名画を生み出す力となりました。
それまで神格化された存在だった聖徳太子を人間的な姿で捉えた画期的な作品と評価され、第6回文展で最高賞に輝きました。
幹が低く這うように伸び竜の姿を思わせます。
この木をモデルにして描いたのが下村観山の《弱法師》三渓が最も期待を込めて支援した画家でした。
視力を失い諸国を放浪する弱法師、俊徳丸が夕日に向かい極楽浄土を祈ります。
梅の花につつまれる俊徳丸。悟りの境地を幻想的に描いた観山の傑作は後に重要文化財となりました。 芸術家たちを支援した三渓はある画家にこう話しました。
「君個人を のではないのです日本の美術のためなのです」
今、横浜美術館では原三渓の美術という展覧会が開かれています。三渓がパトロンとして支援した画家の作品やコレクションの数々が展示されています。
スタジオ
横浜美術館副館長・柏木智雄
最後に鑑賞した名品
大正12年9月1日に発生した関東大震災。大規模な火災は街を焼き尽くし横浜も焼け野原になりました。三渓が経営していた会社も全焼。経済の生命線であった港も破壊されました。三渓園でも高台にあった松楓閣などが倒壊。今もなおがれきの一部が残され、その惨状を伝えています。横浜の大実業家であった三渓は町を復興させるため陣頭指揮を執ることになります。三渓の働きは驚異的でした徹夜でバラックを建て、震災から17日目には生糸市場を再開。さらに巨額の予算を国に働きかけるなど丸3年横浜のために尽くしました。震災を機に三渓はあれほど情熱を傾けた古美術品の収集をピタリと止めてしまいました。やがて第一線を退き、好きな絵を書いて楽しむ日々となります。夏、三渓園を彩るハスの花は最も好んだ題材でした。早朝に花開き、昼には萎む。儚い美しさをめでました。昭和12年8月、ハスの花の季節に三渓に悲劇が訪れます。最愛の跡取り息子善一郎が45歳の若さで急逝したのです。三渓園の中でも最も静謐な空気漂う月華殿。早朝より息子の追善の茶会が開かれました。悲しくも美しい茶会として今も語り継がれています。薄茶の席にかけられたのはやさしき姿の観音像。若くして殺された悲劇の将軍源実朝が描いたものです。茶碗は朝鮮から伝わった名もなき陶工が作った井戸茶碗。銘君知らず。息子への愛惜の思いを細やかに茶会の席に散りばめました。涙を誘ったのが三渓が考案した浄土飯。ハスの花に包まれているのはハスの実を散らしたごはん。汁を注ぐと馥郁たるハスの香りがこの世の無常を慰めたと言います。追善のお茶会から2年後の昭和14年8月。再びハスの花季節が訪れます。三渓は病を得て床に伏すことが多くなりました。亡くなる直前、三渓はコレクションの中からどうしても見たいとある絵巻を所望しました。室町時代の水墨画家、雪舟の筆と伝えられる四季山水図巻。枕元に広げて眺めたと言います。絵巻の旅人とともに参詣は深山の風景を楽しんだのでしょうか。それとも自ら作り上げた日の理想郷三慶園を心の中で巡っていたのでしょうか。原三渓。最後に鑑賞した名品です。
取材先など
放送記録
書籍
展覧会
横浜美術館開館30周年記念 生誕150年・没後80年記念 原三溪の美術 伝説の大コレクション | 開催中の展覧会・予告 | 展覧会 | 横浜美術館