2週連続で女性画家を特集!「人生100年!女の生き様」と題し、約100年にわたる画家人生を辿りながら、名画誕生の物語をご紹介します。
1週目は、明治から平成にかけ100年近い歳月を生きた日本を代表する洋画家・三岸節子。
『自画像』は美術学校を卒業した節子が、展覧会で初入選した20歳の時の作品。
あどけなさを残す面影に、泣きはらしたような目、漂う不安、戸惑い…実はこの時、節子のお腹には新進気鋭の画家で夫・三岸好太郎との子が宿っていました。
一方、最後の大作となった100号の『さいたさいたさくらがさいた』は、もう歩くこともできなかった93歳の節子が命を燃やした一枚。美や儚さをも超越した、桜の老木の圧倒的な生命力が描かれています。
そこには自らの命を燃やしながら挑んだ節子のある執念が…。
その生き様はなぜかいつも茨の道でした。
例えば夫・好太郎の野生児のような奔放さと天才的な絵の才能に惚れ込んだ節子は、身も心も捧げていきますが、若い画家同士の結婚は貧困を極めます。
さらに、女遊びの激しい好太郎に振り回される日々…節子は辛いほう、苦しいほうへ歩いていくのです。
『自画像』と『さいたさいたさくらがさいた』、この2枚の間に横たわる波乱の人生とは?
身も心も焼き尽くすような愛の嵐の中で、妻として、母として、男社会の画壇という逆境の中で戦い続けた炎の生涯――そんな三岸節子の世界を旅するのは、番組初登場となるフリーアナウンサーの近藤サトさん。生家跡に建てられた三岸節子記念美術館にも足を運び、今回の作品と対峙します。
新美の巨人たち 三岸節子「自画像」「さいたさいたさくらがさいた」
放送:2019年9月14日
プロローグ
その生涯を三つの言葉で表した人です。生きた、愛した、描いた。人生100年。女の生き様。
この目です。やがて始まる壮絶な人生の予感に震えている。
二十歳自画像。
それから70年余りを経て93歳の時に描いた最後の大作です。みなぎる生命力。
怪しく激しい満開の桜です。
描いたのは三岸節子。明治から平成。
100年近い歳月を生き抜いた日本を代表する洋画家です。
この2枚の間に横たわる日々は血のにじむような貧困。身も心も焼き尽くすような恋愛、結婚、別れ。
そして69歳の時にフランス移住という決断。妻として母として画家として生き抜いた強靭な魂。
その炎のような生涯を。
「私に絵を書かせてくださいませ。私は才能も何もございませんが芸術家になれなければ、せめて職業画家でも結構です」
「端々にまで命を込めるわけですから、自分の命をここに移していくわけですから」
そのアトリエに残されていたものは画家の鎧。
三岸節子とは
画家の夫婦です。夫曰く「俺は桜の花のようにパッと咲いてパッと散る。しかし妻は長く生きて成熟した作品を描くことこそ本領である」
ではどんな人生の道のりを辿ったのか。
家は大地主で織物工場を経営していました。
生い立ちについてこう語っています。「私は生まれた時すでに先天性股関節脱臼という十字架を負っている。これが私の将来の運命の指向を決定的なものにしている」
生きることは苦しいこと。そう悟っていたのです。
15歳の時画家を志した節子は東京の女子美術学校で絵を学び、首席で卒業します。
その頃猛烈な恋のアピールをしたのが村山槐多、関根正二の再来と謳われた新進気鋭の画家三岸好太郎でした。
鋭利な刃物のような感性です。
野生児のような奔放さと、次々と作風を変えていく天才的な絵の才能に惚れ込んだ節子は身も心も捧げていくのです。
愛知県一宮市にある三岸節子記念美術館。1998年に彼女の生家跡に建てられた個人美術館です。
近藤サトさんが訪ねました。
最初に出迎えてくれるのが。
「鳥肌立つ。いいじゃないですか。ふてぶてしいよ。私はこの絵はすごい好きですね」この自画像は美術学校を卒業した節子が展覧会で初入選した二十歳の時の記念碑的な作品です。
「目ですよ。大丈夫っていいたくなるの。近寄りがたいし。氷のようなんだけど燃えているの。なんかすごく燃えるような闘志って言うかねそれを感じる」
一晩泣きはらしたような目です。まだあどけなさを残す面影。不安戸惑い。しかし吹っ切れたような強い眼差し。この時節子は好太郎の子供を宿していました。節子の人生を巡るように作品を見ていくと。
今日の作品《さいたさいたさくらがさいた》
最後に待ち受けているのが。今日の作品《さいたさいたさくらがさいた》93歳で描いた100号の大作です。
満開の桜の老木が叫ぶように泣いています。
もう歩くこともできなかった節子が命を燃やした1枚。花の美しさも儚さも越えて、妖気さえ漂う老木の圧倒的な生命力。誰も描けない節子のさくらです。「桜っていうとすごく素敵なイメージだけれども、迫り来るさくらですよ。ちょっとね圧迫感があるんです。思いが強すぎて。桜じゃなくてねに節子そのものって感じですね。執念ですね多分」節子が亡くなる前に描いた大作。なぜ桜だったのか。
若い画家同士の結婚は貧困を極めました。しかし貧乏何か聖なるものと考える性分の節子はつらい方苦しい方へと歩いていくのです。
好太郎との間には3人の子が生まれました。節子は家事と子育てに追われ絵を描くことが出来なくなってしまいます。絵を描く時間が欲しい時間が欲しい。
初期の作品はほとんど室内画です。寸暇を惜しんで描いた花とリンゴ。
なにより苦しんだのは好太郎の女性関係でした。作品を生み出すためにと夫は自由奔放に恋愛を繰り返すのです。
「3人の子供を抱え、好太郎のお母さんですとか妹さんも狭い家に同居してたんですけども、そのような状況下で好太郎があの見境なく浪費をしたり外で女遊びを繰り返したりするもんですから、節子さんとしてはもう本当にどん底の貧乏生活を味わっていたようです」
その好太郎が旅先の旅館で突然吐血し亡くなってしまいます。桜がパッと散るように。31歳の若さで。好太郎シス。電報を受け取った節子はこう思います。
「ああこれで私が生きていかれる」
節子は3人の子供を背負いながら歩み出していくのです。宿命に従うように。辛い方へ、苦しい方へと。
神奈川県大磯町。
海を望む丘の上に三岸節子が晩年を過ごした家があります。
「こちらが節子が最後に使ってたアトリエです」
「節子は一点ずつ描くのではなく、同時に進行していく描き方でしたので、未完成のものが難点か。
こちらが絵を描くときに着ていたものになります。
節子が亡くなったのは1999年。その直前まで筆を取っていたアトリエは当時のまま時を止めています。
100号のキャンバスが置かれたイーゼル。
最後のパレット。近藤さんは雑草の生い茂る庭に出てみました。見たいものがあったからです。
そう。この桜にたどり着くまで三岸節子は更なる波乱と試練の日々を過ごすのです。その壮絶な戦いの生涯とは。
壮絶な戦い
東京中野区上鷺宮に三岸節子のアトリエ兼住居が残されています。
築80年あまり。
ル・コルビジェに心酔していた三岸好太郎が設計した昭和初期のモダンな建築。
しかし夫の好太郎は完成を見る間もなく亡くなってしまいます。この家の莫大な借金だけを残して。節子に残したのはこんな言葉です。
「三岸が亡くなる少し前、絵は魅力がなくちゃだめだと言うんです。そのためには恋愛することだ。俺が死んだら運と恋愛しろよって言ったんですね。遺言みたいに」
そして節子は。好太郎の死により描く自由を得た節子の前にはもう一つ大きな壁が立ちはだかっていました。
画壇という男社会です。職業画家と認められるには美術団体の会員にならなければなりませんでした。
しかし入選を重ね、実力を認められた節子でさえ、女性というだけで会員にはなれなかったのです。
逆境になればなるほど強くなる人です。
節子は仲間の女性達と美術団体を結成し
女流画家の存在を世間に訴えていきます。
30代の節子の作品。世の中は戦争へと向かっていました。そんな時代の暗さも生活の苦しさも寄せ付けない強靭な色彩の輝き。
節子は天井のカラリストでした。食べたがりの子供たちを抱えた節子は挿絵や座談会。講演や随筆とあらゆる仕事で生計を立てていきます。それが血みどろの戦いと読んだ生きる道でした。そんな厳しい暮らしの中で藁をもすがる思いで掴んだ恋。
相手は4才年下の画家*1しかも貧乏、子連れという相手です。決闘のような恋愛でした。求め合い、反発し、裏切り、憎しみ、激しい恋情に焼かれ、傷つき、疲れ果て、一方が逃げれば一方が追いかける。二人の関係は戦前から戦後にかけて続きました。
出口のない愛の牢獄のように。
「彼には連れ子がいまして、奥さんなる人にお母さん的な立場を求めていたようですね。で節子はやはり一人の画家として絵を書き続けたいという思いがあったので、そこが直接の破綻の原因かと思います」
恋人との関係を清算し、3人の子供たちは巣立っていきます。
向き合う相手は自分だけ。なぜ絵を描くのか。私とは何者か。自問自答した格闘の痕跡。
節子が一人大磯で暮らし始めたのは59歳の時です。
「私は今や全く孤独である。相手は周囲の自然だけとなった。雨や風や海の波が私の友である」
10年後の69歳の時。節子は一つの決断を下します。フランスへの移住でした。
田舎町の農家を買い取り一人、絵に向かい続けたのです。
静かに祈るように。誰にも邪魔をされず。誰にも苦にされず。
一人キャンバスと対話するように。
年を重ねていくほどに節子の絵は息をのむような鮮やかさが増していきます。
一筆一筆に生きてきた歳月の力。生前彼女はこう語っています。
「自分の絵でしたら、これ一寸角取ってもわかります。
端々にまで命を込めるわけですから。自分の命を移していったわけですから」
節子が大磯に帰ってきたのは84歳の時です。
キャンバスの前が生きていく場所、戦う場所。
「朝、アトリエに入りまして画架の上にキャンバスを乗せましても形も色も何も浮かんでこないことがあるんです。そういう時しばらくお祈りしてるんです。私に絵を描かせてくださいませ。私は才能も何もございませんが芸術家になれなければせめて職業画家でも結構です」
その庭に今でも。「相当な老木ですね」この老木こそ。《さいたさいたさくらがさいた》
モチーフとなったヤマザクラ
三岸節子の大磯のアトリエの庭には咲いた咲いた桜が咲いたのモチーフとなったヤマザクラの老木が今も静かに佇んでいます。1998年の春。いつか描きたいと思っていた93歳の節子は桜の老木に挑んだのです。
100号の大きなキャンバスを前に。87歳の時に脳梗塞を患った節子の体は思い通りには動いてくれません。それでも懸命に絵筆を握りしめキャンバスに命を移し込んで行ったのです。
「桜の花は命が短いからむしろ命への執着執念はただ事ではありません。今の私なら描くことができます。美しさと怖さと」
桜のようにパット散りたいいと言った亡き夫に答えを返すように。満開の桜に我が命を写す自画像。
「桜ってこうじゃないよねと思うので、節子をさくらに置き換えたらこうなりましたって。彼女の強い魂っていうかみたいなものに私たちは一瞬ひれ伏すんですよ。キャッチボールじゃなくて直球で。いい絵とはそうじゃないか。まだ描きたかったでしょ。もっともっと描きたかったでしょうね」
二十歳の直感は正しかったのです。運命のすべてを予見するようなその眼差し。
長く生きて成熟した作品を描くことこそ本領であると強く誓った人です。その言葉を証明しようと必死になって生きてきました。
自らの命そのものを描くために。節子の桜が叫んでいます。泣いています。三岸節子。生きた、愛した、描いた。戦った。
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*1:1948年、洋画家の菅野圭介と別居で再婚しましたが、5年後に解消