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響くアートの愛好家

新美の巨人たち 谷内六郎「上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」



 

谷内六郎「上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」

一枚の絵

25年間、一度も休むことなく『週刊新潮』の表紙を描き続きた、空想の詩人と呼ばれた天才画家・谷内六郎

温かく、懐かしいメルヘンの世界は、いつ見ても飽きない不思議な魅力があります。

その創刊号を飾ったのが、今回の作品『上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある』。

雑誌はB5版ですが、原画は縦34cmあまり、横24.5cmの水彩画です。

舞台は千葉の外房、御宿の朝の海。貝の煙を吹き出しながら走る、貨車に見立てた古い商家の家並。砂浜では和傘を持った女の子が風に吹き飛ばされそうになっています。

谷内六郎が生涯描き続けた女の子の顔です。この子は誰?

幼少の頃の谷内は体が弱く、ささやかな楽しみが、空想し絵を描くことでした。

転機が訪れたのは34歳の時。

第一回文芸春秋漫画賞を受賞したのです。

そこで舞い込んだ仕事が『週刊新潮』の表紙でした。

その創刊号の表紙の舞台になぜ上総御宿を選んだのか。

創刊から25年、画家を駆り立てた“ある存在”とは?
今回、谷内六郎のメルヘンの世界を旅するのは、女優・水野美紀さん。創作の原点をひも解きます。

美の巨人たち 谷内六郎「上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」

放送:2019年10月19日

 

アバン

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もうずいぶん昔のことです。時折ラジオから女の子の声が聞こえてきました。

週刊新潮は明日発売です」翌日本屋さんの店先をこの表紙が飾ったのです。

暖かく懐かしく不思議なメルヘンの世界。

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表紙の絵は昭和31年から25年間一度も休むことなく毎週私たちに届けられました。その数は1300枚にものぼりました。いつ見ても懐かしい。

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いつ見ても飽きない心にぐっとくる。

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「この絵好きです」

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画家の名は谷内六郎。空想の詩人と呼ばれた天才です。

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ご本人曰く、日本中で毎週展覧会をやっている。こんなすごいことはないと思ってやってきました」

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谷内六郎の空は空想のスクリーン。

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遠い日の懐かしい夢がほら。

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青い空に、青い夜に。

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「面白くて優しい人だったんじゃないかな」本日は女優の水野美紀さんが谷内六郎メルヘンの世界を旅します。

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いつもいつもそこにいる。女の子を探しに。この子は誰。

この子は一体誰なのか

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観音崎灯台が見渡しているのは東京湾を往来する船の大通り。

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浦賀水道。この海辺に美しい美術館があります。「海から道を挟んですぐだ」

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横須賀美術館

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この美術館に併設されているのが谷内六郎館です。

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男の子の視線の先には星空にぶら下がっている釣り糸の浮き。じっと眺めていると中からひょっこり宇宙飛行士が。

「可愛らしいんですよね。

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宇宙空間と寝室が合体し。宇宙船いっぱい飛んでる。これ一枚でもなんか絵本一冊読んだぐらいの気分」

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雲の流れが早い風の夜。月を見上げれば。

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「月に車輪がついていて。正直自分が親になるまで絵に惹かれたことはなかったね。自分の子供もこの絵の子供に重ねて見るんですよね。だからすごいあったかい気持ちになる」

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まるで夜は静かな海の底のように。

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「優しい人だったんじゃないかな」

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創刊号の表紙はどんなのか。それこそが始まり。向かった先は収蔵庫。

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昭和31年3月週刊新潮創刊号の表紙の原画を特別に出していただきました。今日の一枚です。谷内六郎作《上総の街は貨車の列火の見の高さに海がある》週刊誌のサイズは B 5判ですが、原画は縦34.3センチ 横24.5センチ。 紙に水彩絵の具で描かれています。千葉外房御宿の朝の海です。盛り上がった海に浮かんでいるのは貨車の列。でもよく見れば古い商家の家並みです。貨車の列に見立てられているのです。煙突から吹き上がるのはヒトデ、二枚貝サザエ。「ここから毎週毎週描くぞと思って書いてるわけですね。最初の一発目から想像力かっ飛ばしてますね。海とか光とか自然なものから着想を得て、いろんなアイデアを生み出してらっしゃいませんよね。やっぱり子供が書かれてるんですね。傘が二つ」砂浜には和傘を持った女の子。風に吹き飛ばされそうです。谷内六郎が生涯描き続けた女の子の顔です。この子は一体誰なのか。谷内六郎はなぜこの一枚を描いたのか。

少年の日々

谷内六郎は大正10年9人兄弟の6男として東京で生まれています。父親は獣医学校の寄宿舎で働いていました。どんな子供だったのか。六郎自身が書いた漫画によれば「雑木林の中の牧畜学校。その宿舎をやっていた僕の家。乳牛の白と黒のまだらを見て、僕は世界地図に見立てておりました。明日実験用にカイボウされる病んだ犬を遠い遠い目黒の方まで逃しに行った僕。あれきり犬は帰りません。それっきりでありました」体の弱い子供でした。厄介な小児喘息に苦しんだのです。何かを見れば何かを空想する子供。ささやかな楽しみが薬の袋やマッチのラベルに絵を描くことでした。小学校出ると働きに出ました。父親が亡くなってしまったからです。勤めたのは電球の工場。でも喘息のために長く働けません。いろんな工場を転々としました。六郎は十代の頃から漫画を投稿していました。懸賞金が入ると画用紙と絵の具の分を差し引き、造花の内職をしていた母親に渡すのです。戦争がありました。体の弱い六郎は徴兵検査で落とされ、軍需工場に働きに出ました。戦争が終わっても病は去ってくれません。谷内六郎の長女広美さんに若き日の父親の作品を見せていただきました。「これですね落書き。本当は病院には居たくなかったんでしょうけど、入院する時間を楽しんでると言うか、自身で病気があったから描いたと言うか、ま病気で辛い思いをしているそういう中から生まれてきたものもあるのかなという風に思います。お家ではとてもひょうきんな人変したので病院に入院してた時にお風呂の時間になるとすごく混むんですと。お風呂わざとゆっくりでみんながお体を洗ってるからその間をつるつるつるつるっていうのに抜けてもみんなの石鹸がくっついて肌が綺麗になって」34歳の時に人生が変わります。描きためていた絵を発表すると、第1回文藝春秋漫画賞を受賞したのです。東京の片隅でひっそりと描いていた六郎の絵が多くの人達の胸を打ったのです。翌年思わの仕事が舞い込みます。それが、初めて出版社が出す週刊誌。週刊新潮の表紙の絵でした。六郎は断れない人です。2、3回でもいいからと言われて、思いをめぐらした時。頭に浮かんだのが千葉御宿の海でした。昭和19年。22歳の時に描いた絵があったからです。16歳の時に医者から転地療養をすすめられ兄が借りていた船大工の家で一年暮らした土地でした。古い商家が連なる町並みにあの女の子も描かれています。「小さな風景の中に人物が描かれていて、それとは別にわざわざ四角く描かれた枠の中に少女が出てくるわけです。少女増というのは谷内にとって重要なモチーフであった。で、それは週刊新潮創刊号より以前に確立されていた」昭和31年。週刊新潮創刊号の表紙に再び御宿の海を描いたのです。寄せては返す波のように。蘇る少年の日々を。この表紙に六郎自信が添えた言葉があります。「乳色の夜明けドロドロドロりん海鳴りは低音。鶏はソプラノ雨戸の節穴がレンズになって丸八の土蔵が逆さに映る幻灯。兄ちゃん浜井くべ、早よう起きねえと、地引きに遅れるよ、上総の海に陽が昇ると、街には海藻の匂いが広がって、タバコ屋の婆様が、不景気でおいねえこったなあと言いました。房州御宿にて」この一枚から始まったのです。日本で最も愛された画家の伝説が。5年10年20年と、表紙の絵だけでも1300枚を超えて行きます。その長い長い旅に駆り立てていたものこそ、この子かもしれません。 

週刊新潮創刊号の表紙絵です。毎週続く表紙の仕事は画家自身の歳時記を描くことでもありました。でも。「一番苦労したのはこれからもやはり表紙の絵の要素になる案です。案の下絵ができますと後は割と楽にかけます」トンボが、風車が、風船が舞い上がる。澄んだ大気と輝く秋の光。電線が揺れているのは冬の始まりの鼓笛隊の到来です。冷たい冷たい木枯らしを連れて。海辺の菜の花畑です。白いリボンをつけた女の子。モンシロチョウがリボンを仲間だと思ってついていきます。砂浜に書いた絵を波の消しゴムが消していく。青い空が夏を呼んでいる。「この絵すごい好きです。この地球全体がこのものすごいスケールの大きな劇場みたいに感じられるし、わくわくと想像を掻き立てられるような絵で、すごくグッときました。一枚一枚に思うと目を引くような面白い発想とアイデアが込められてて、シュールなんだけどそれだけじゃなくてその時代の空気感とか懐かしさだったり寂しさだったり冷たい空気とか強い風とか。週刊誌の表紙に使われてることをそっちが贅沢に感じますね。たくさん見れば見るほどファンになっちゃう」画家の成瀬正浩さんは現在の週刊新潮の表紙を描いている方です。「絵描きさんは自分のなじんだ色で絵を描く方が多いのですが、そうなると編集部としては色のバラエティが少ないので、パッと目で新しい号が出たんだなーっていうのが目につくように寒色の後は暖色だとかそういう変化を求められますね」谷内六郎の魅力については。「自然の風景ものを見ている中で、ふっと谷内さんの想像力がそこに入って、あっと思うような絵の世界が出てくるっていうのがいっぱいあるんですよ」きっと谷内六郎には力を与えてくれた人がいたのです。こんな文章が残されています。「何か神様の命令のようなものが僕の背中の後ろにいるようで、自然に夢中の内に絵を描いたり文を書いたりします。もしかすると、戦時中に十五、六の少女のうちに昇天してしまった、僕のたった一人の妹が僕に絵を書かせてくれるのかと思っています」仲の良い家族でした。みんなで助け合いながら暮らしていました。谷内六郎は九人兄弟の下から3番目。すぐ下の妹は純子さんと言いました。六郎が御宿での転地療養から戻った数年後のことです。六郎には友達がいなかったので小さい頃から妹と一緒に遊んでいたそうです。「よく妹と二人で母におにぎりを作ってもらって歩いて多摩川までハイキングしました。それで妹に多摩川の橋の上にいてもらって、僕が河原の砂の上に大きな漫画のミッキーマウスなどを書いたのを見てもらった」ある日六郎は渋谷に出かけました。病気で寝ている妹に大好きな浜辺の歌のレコードを聞かせようと思ったのです。でも。「夕方妹は昇天してしまっていました。妹よ許しておくれ。僕は意地悪もしたね。妹よ。いつまでも僕の絵を描く手伝いをしておくれ。橋の上から僕が砂の上に書いた漫画を見ていてくれたように。天の上から僕が絵を描くのをいつまでも見ていておくれ。妹よ」「父は喘息があったり、学校にはそれが原因で行かれなかったり、いろんな工場に行っても発作が起こって続かなくなったり。そういうところを支えてくれたのはその亡くなった妹への想いとか、あとやっぱり兄弟かなって思ってます」六郎の世界には、いつもいつも女の子が暮らしているのです。ずっと、ずっと。水野さん何してるの。

谷内六郎の言葉です。「砂浜ほど大きな画用紙はない。もったいない。この際、描けるだけ落書きしよう」つらい時代、楽しい時代、激しい時代。週刊誌はそんな時代をセンセーショナルに映し出します。でも六郎の絵は柔らかく包み込んでいくのです。夢見る子供たちの世界が懐かしい走馬灯のように巡っていきます。年が明けても。季節が変わっても。時代が変わっても。変わらなかった絵の中の子どもたち。昭和56年最後の表紙です。25年の歳月をかけてたどり着いた1303枚目の絵。59歳の若さでした。「谷内六郎さんという人は想像の中で羽ばたいて、宇宙まで飛んでってみたりとか海の向こうまで泳いでみたりとか。いっぱい想像の中で自分を救ってきたのかなとちょっと勝手に思っちゃいました」御宿の朝です。古い商家の家並みが列車となって進んで行きます。貝の煙を吹き出して。谷内六郎作《上総の街は貨車の列火の見の高さに海がある》始まりの歌。浜辺の歌。

 

 

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