気の遠くなるような細かさのペン画。
長さ15メートルの絵巻。
そして誰にもマネできない10冊の絵本。
その男、“聖なる野蛮人!”。謎多き絵本作家・秋野亥左牟に迫る。
辺境を旅しながら、異国の伝承や民話を、繊細な筆と鮮やかな色彩で描いた秋野亥左牟。
その男は、誰にもマネできない10冊の本をこの世に残した。
寡作で、商業的な成功とは無縁。
しかし敬愛される謎多き存在。
30年あまりの旅の先に、亥左牟は何を見つけたのか。
近年アトリエから発見された、膨大な手記と作品から、謎多き男の実像に迫る。
【出演】秋野和子,歌手…加藤登紀子,絵本作家…スズキコージ,【語り】柴田祐規子
日曜美術館「秋野亥左牟 辺境の向こう側を見た男」
放送日
2019年11月24日
プロローグ
50年前、無名の日本人が世界で最も歴史ある絵本原画の祭典で入選するという事件が起こりました。
それは当時30歳の男が初めて絵を描きたいと思い生み出した絵。
「色がきれいね」「知らなかったです。鳥だったら鳥じゃないものを描いている。木だったら気じゃないものを描いている」
男の名は秋野亥左牟。終生世界を巡り旅を続けた画家でした。同世代を生きた人は。
「ある種ヒッピー的だった。にんげんってどうやって地球の上に生きてきたか。それを求めて旅をしてきた」
世界を旅し、民話や伝承をもとに十冊の絵本を残しました。
インド、南米、沖縄。辺境の地に暮らしながら時折作品を生み出す謎多き画家。
「優しい人だった」「聖なる野蛮人だね」「世界人です」「限りなく大きいところを見ていた人」「自分の生き方したらいいんだ」
旅の前に何を求め何を見つけたのか。亥左牟の旅を辿ります。
亥左牟という画家
秋野和子さん。亥左牟と40年連れ添ってきました。
「亥左牟も私も都市に住めない。だから田舎は優しい」
兵庫県上郡。世界を旅した秋野亥左牟は最後の日々をこの静かな町で過ごしました。
「ここが我が家です」
築150年の古民家に自ら手を入れ、アトリエとして利用していました。
「ここが亥左牟が絵を描いていた場所」
8年前亥左牟が亡くなったままの状態で残されていました。
「これ全部絵です」「絵本の原画もあるし、タブローの一枚絵もある。いろいろなものを突っ込んでいる。去年くらいからわかりやすいように置いていっている」
黒一色の繊細なペン画。頭が目玉になった独特の姿は亥左牟がよく自画像として描いたもの。
「静かでしょ亥左牟の絵。ここの二階で描いていて、用事があるとだいたい音楽聞いていて、描いているその場の雰囲気はとても静か。その場は静か。音楽は鳴っているんだけれど静かなの」
アトリエには生前ほとんど知られることが無かった作品が200点以上。
世界を旅した亥左牟ならではの作品もありました。
「絵巻です。旅の絵巻」
「日本の障子紙。障子紙だったらくるくるっと巻いてリュックに入れていける」「自分の頭の中の。というか」
「何を考えていたんだろうね」
何を求めて亥左牟は旅を続けたのか。
手がかりが残されていました。
ノートの切れ端や原稿用紙に書き留められた回顧録です。
「なんで描き始めたんだろう。一つは自分を知ることだったかもしれない。人に伝えたかったこと。私は全部読み切れていないんだけど」
「自分の過去をいろいろ振り返ってみた。25歳だったけど気分はおじいのように暗い色で動きが鈍かった」
赤裸々に綴られた若き日の悩み。それは謎に包まれた亥左牟の旅の原点です。
京都。秋野亥左牟は1935年この町でに生まれ育ちます。
亥左牟をよく知る二人です。
「六人兄弟で五男一女。僕が末っ子なんですが
、首の細いのが亥左牟。ちょうど10歳違います。父親は沢宏靭で、母は秋野不矩なんです」
秋野不矩。亥左牟の母は新しい日本画を切り開き、後に文化勲章も受章した日本画家でした。
「戦前は軍国少年。飛行機が飛んでいてバンバンやるような。軍艦も描いていた」
10歳で迎えた終戦は亥左牟少年の心に大きな傷を残します。担任の先生はこれからの日本は軍事主義的な生き方を捨てて、民主主義的な社会を作っていくのですと言われた。では今までの日本は何だったのか。八紘一宇の理想は嘘だったのか。という疑問に答える言葉では亡かった。俺の中に大人社会への決定的な不信感を植え付けるだけのことになった」権力に居保管を覚えた亥左牟は次第に日本共産党に心を寄せていきます。そして高校二年の夏、ある事件を起こします。当時日本共産党は武装闘争の方針を打ち出し全国の若者に行動を呼びかけていました。下部組織の一員として方針に従い、警察署長の家に火焔瓶を投げ込んだのです。罪は免れたものの亥左牟は保護観察処分となりました。「こちらが秋野不矩さんの《青年》という作品です」その姿を母親の不矩が描いていました。かすかに見えるのは裸のまま立つ息子の姿です。「青年は本当にお母さんの悩みや憂いや」「何度も塗った痕跡があります」「お母さんにしてはめずらしい」「それは形になりにくい、白い残像し描けなかった不矩さんの煩悶の筆跡なのかなと思います」「亥左牟の運動には悲しみが肉体化していないねって言われたのをとてもよく覚えていて、頭でっかちな、権威にどうしても翻弄されてしまうみたいな。お母さんは自分の息子が死んでしまうかもしれないという思いも持っていたと思います。その距離感みたいなものがこの絵には刻み込まれているみたいな気がして」組織を信じ、事件を起こした亥左牟。しかし三年後、武装闘争は党の方針転換によって一部の暴走だったとして総括されます。いったい何を信じればよいのか。東京芸術大学の彫刻科に入学するものの、3年で中退。依然として学生運動や労働者たちの闘争は続いていました。東京オリンピック前夜。成長を急ぐ日本への違和感だけが募っていきました。「日本人はアメリカ的物質文明への道をまっしぐらに進んでいくことだろう。くそ食らえ。この繁栄の裏側で地獄へ落とされていく一群の人々がいる。人間は何によって生きるのか。自分とは何なのか。俺は俺の内側をのぞき見ようとあがいていた。現代の偽善性をさっぱり脱いで、赤裸々な原始の世界に帰りたかった」その時、母不矩から一本の電話が。インドの大学に教えに行くのでついてきてくれないか。この申し出を27歳の亥左牟は二つ返事で受け入れます。
取材先など
放送記録
書籍
展覧会
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