無機質な鉄骨が繋がり、交差し、編み込まれた高さ333m…圧倒的な存在感と造形美を誇る『東京タワー』。
設計したのは、塔博士と呼ばれた天才建築家・内藤多仲。
『東京タワー』の設計図は、たったひとつの小さな計算尺によって生み出されました。
『東京タワー』の美の秘密に迫るのは俳優・井浦新さん。
なぜ333mなのか?なぜ赤と白という配色なのか?
『東京タワー』という名前はどうやって決まったのか?
知られざる物語もひも解きます。
新美の巨人たち 昭和の金字塔!東京タワー
放送:2019年12月14日
そこに当たり前のように東京タワーが立っています。
怒るでもなく。恥じらうわけでもなく。あるがままに。
東京の夜の真ん中で。
その槌音に誰もが心躍らせたのです。
何ができるのだろうか。どんなものが現れるのだろうかと。
遥か高みで軽やかに。鮮やかに。
男たちは黙々とやり遂げたのです。
降り積もった歳月は60年を超えました。
無機質な鉄骨がつながり、交差し、編み込まれ、上へ上へと組み上がっています。
繊細でありながらも実に力強い美しきタワーです。
本日は井浦新さんがおそらく日本で一番有名な建造物東京タワーの美の秘密に迫ります。
設計したのは内藤多仲。
塔博士と呼ばれた男です。
彼はこの小さな道具一つで東京タワーを作り上げました。
多仲の言葉です。
「いわば、数字の作った美しさともいえましょう」
果たしてその意味とは。
令和元年11月7日。東京タワーは最も新しい装いに包まれました。
手掛けたのはこれまでも東京タワーの光の演出を担当してきた照明デザイナーの石井幹子さんです。
「光の技術が進歩しましたのです。それをできるだけフルに使いながらですね綺麗な光を出してきたいということで、今回のライトアップは60色と、60周年にちなみました」
その姿はまるで時代の移ろいをまとった貴婦人のごとく。
港区芝公園四丁目。 今日の作品。昭和33年竣工。内藤多仲設計。東京タワー。
高さ333 M。 完成当時は世界一高い自立電波塔でした。
横から見ればてっぺんから地上へとシャープな末広がりの形です。
真上から見れば一辺が80 M の正方形。
使われている鉄骨の重さはおよそ3600トン。
展望台は二つ。高さ150 m のメインデッキと、250 m のトップデッキ。その上に80メートルのアンテナが備え付けられています。
「近くで見ると華奢に見えます。一つ一つのパーツが細い女性的な繊細さ。緩やかに曲線があるからなんかどこかちょっと優しさみたいなものを感じるんでしょうかね」
なぜ333メートルだったのか。なぜ赤と白という配色だったのか。
そもそも東京タワーという名前ではなかった。
ではその誕生の物語を。
昭和28年テレビ放送が始まりました。
新しい娯楽に人々を熱狂し、興奮し、テレビ局も次々と開脚していたのです。
当時テレビ局はそれぞれ自前の電波塔を持っていました。
このままいけば東京が塔だらけになってしまう。
そこで放送事業の監督官庁である郵政省は電波塔の一本化に動き出したのです。
目指したのは、どうせ作るなら世界一を。
エフェルトを凌ぐものでなければ意味がない。
318 M のフェル塔を超える。前代未聞の塔の設計を任されたのが内藤多仲。
この時71歳。一体どんな建築家だったのか。
新宿のとある場所を井浦さんが訪ねました。
「どうぞ宜しくお願いします」
「こちらは早稲田大学。今は内藤多仲記念館という名前になっておりますが、旧内藤多仲の自宅になります」
その自宅の作りは画期的です。
はりと柱ではなく耐震壁によって建物を支える壁式構造の日本初の住宅でした。
2階にあるこの書斎で東京タワーの設計図が生み出されたのです。
たったひとつの計算尺によって。
大正14年。内藤多仲は日本最初のラジオ局の電波塔を設計します。
これを皮切りに鉄塔建設の依頼が殺到し、生涯に60余りの塔を設計することになります。
代表作はタワー六兄弟。戦後彼が設計した六つの塔です。
長男は昭和29年生まれの名古屋テレビ塔。次男は浪花のシンボル通天閣。三男別府タワー。四男札幌テレビ塔。そして五男は東京タワーです。
コンピューターはおろか電卓すらなかった時代東京タワーを設計するにあたり、大いに活躍したのがこの小さな計算尺でした。
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