京都と福井を結ぶ深い山あいにある、花折峠周辺に伝わる昔話を題材にしています。
群青の川を流れていく朱色の着物を着た娘。
その周りには草花が咲き乱れています。
気高くも切ない、儚くも美しい絵の背景に心が震えます。
それは、鎖骨腫瘍、右腕切断…35年の短い生涯を懸命に生き、描いた作品だったのです。
壮絶な日々の中で作品はいかにして誕生したのか?
その奇跡の物語に女優・奥貫薫さんが迫ります。
右腕を失っても絵を描き続けた主人公が重なります。「この世界の片隅に」ひょっとしたら三橋節子さんの生き方がもちーふになったのかもしれません。
新美の巨人たち 三橋節子『花折峠』
放送:2020年1月11日
福井と京都を結ぶ深い山間を抜ける若狭街道にちょっと切ない名前の峠があります。
花折峠と呼ばれたその場所に花が咲いています。
花が折れています。右手にそっと花を。
生きた。愛した。描いた。
シリーズ女の生き様第3弾はこの人三橋節子。
35年という生涯を懸命に生きた人です。
かけがえのない家族を愛した人です。何より懸命に描いた人でもありました。
花折峠というタイトルです。
娘が川を流れていく。その周りには咲き乱れる花々。
この絵の背景に心が震えます。
鎖骨腫瘍。右腕切断。そう彼女はこの絵を左手一本で描いたのです。
それはきっと奇跡の物語。
その町外れの長柄山の麓に小さな美術館が建っています。
三橋節子美術館。
縦130センチ横162センチの日本画です。
画面を横切る群青の川に朱色の着物を着た娘が流れています。
おろした長い黒髪。
目を閉じ穏やかな表情で。右手にはそっと添えられた野菊の花。
「この手がこの花を握っているようにも見えるし、同化しているようにも見えるし」
しみいるような色彩です。
幾重にも複雑に色が重なり合って。
その上に柔らかな白の筆跡。
「白い花が多いですよね。実際にはきっとピンクの花なんだろうけど白で描かれてるし」
ところがその花が
「折れて下を向いている花が多いのはなぜなんでしょう」
なぜ花たちの茎が折れているのか。
それこそがこの絵を描いた理由。
野に咲く花の画家
三橋節子は人生の多くを京都で過ごした人です。
京都大学農学部の教授をしていた父・時雄と母・珠の長女として生まれました。
節子が野に咲く花を愛したきっかけがあります。
3歳の時股関節脱臼を患い、1年間辛くて苦しいギプス生活を送ったのです。
友達と活発に遊べなかった節子は植物や虫たちに語りかけ、遊んでいました。
小学1年生の時には石灯籠の下敷きになり大怪我をしています。
「幼少の頃から肉体的苦痛を受け、受難の体験をしながらよくその苦痛に耐え、忍耐心と意思の強固のところがあった。そして時にはグズか大胆と思われるほど落ち着いていた」
こんなこともありました。
遠足の帰り道、節子の目に小さな虫が飛び込んできたのです。
虫は目に入ったら死ぬのにと、節子は自分の痛みより虫が死ぬことを哀れんでいました。
心の優しい無口な人です。
絵の好きだった節子は京都市立美術大学で日本画を学び、画家を目指しました。
描いたのは人知れず咲く野の草花。
三橋節子が暮らした家です。
昭和43年に19歳の節子は同じ日本画家の鈴木泰正さんと結婚しました。
「この壁に100号のキャンバスを立てかけて描いていました。
で、私は隣の部屋に立てかけて、この襖はなかったわけです。並んで描いていたような感じですね」
家の裏手には見事な竹林が広がっています。
「毎年100本から150本ぐらいタケノコが生えてくるんですよ。そして竹林だけじゃなしに畳を押し上げてですね、タケノコが上がってくるんですね。畳の下から生えてくるのは柔らかいので特に美味しかったしね。面白がってましたね」
二人の子どもにも恵まれます。
長男は草麻生。節子の好きな草花の名前からとりました。
クサマオは今週から南どこでも育つたくましい野草。
長女はなずなとつけました。
踏まれても可憐な花を咲かせる春の七草のひとつ。
節子の絵は徐々に評価を得。
新進気鋭の画家としてどうにか生活できるようになっていきました。
彼女の絵の特徴は独特の色彩にあります。
どう描くのか鈴木さんに再現していただきました。
ベニヤ板の上に和紙を貼って始めるのですが。
重要なのが下塗り。
最初に胡粉を筆で一面に塗り、ペインティングナイフで擦るように伸ばします。
すると表面に自然なムラができるのです。
さらにその上に朱を乗せて伸ばします。
続いて白群を。
さらに白緑という順に重ねていきます。
ペインティングナイフが生み出す鋭利な筆感。
こうやって下地を作っていました。
胡粉を含ませた細筆で花を描き、その上から粒子の粗い群青を掃くように塗ります。
こうすることで荒い粒子の隙間から下塗りのそれぞれの色が浮き上がります。
まるで生まれたての命を慈しむように。
どこにいくの
33歳の時に描いた節子の絵です。
愛する人がいる。愛する子供達がいる。満ち足りた日々を噛み締めて。
「穏やかなたおやかな日々が流れていましたからね」
でもタイトルは「どこにいくの」。
「描きたい絵を描いて、好きな人と一緒にいて、しかもご飯が食べられる。こんなに幸福で本当にいいやろか。なんかすまないような気がする」
なぜか漠然とした不安が宿っていたのです。
昭和48年1月のこと。以前から右肩に腫れと痛みを感じていた節子は病院へ。
すると右肩鎖骨腫瘍。
画家の命ともいうべき右腕。その付け根に悪性の腫瘍ができていたのです。
その時夫は「このままだったら半年以内で命が終わってしまう。だから右腕を離断しなくてはならないというふうな話をしました。
おまえの腕が一本取れたとしても俺の手とあわせたら三本になるじゃないかと」
そして右腕切断。
でもここから始まるのです。
奇跡の物語が。
右腕を失った節子はひるむことなくすぐさま左手を動かします。
手術後18日目のスケッチです。ふるえるような線で。
確かめるような線で描いていた菜の花。
翌日には字の練習も始めました。
ひらがな、漢字、カタカナ、アルファベット。一生懸命に。
節子と名前も書きました。
手術後のリハビリを担当した理学療法士の大谷淳さん。
「利き腕をなくしてしまった状態の人が左手でなにかしようとする場合、ものすごく時間がかかります。右手と同じようになることは不可能だと思います。私の心の中ではまさか画家として再出発されるとは思ってませんでしたので、趣味として残されたらいいのになという思いで練習を始めさせていただきました」
節子は左手で絵筆を持ちました。
描いたのは近江地方に伝わる昔話《三井の晩鐘》。
龍の化身である母親は夫と子どもと別れて湖へと戻ります。
母は泣きじゃくる子供に自分の目玉を与えます。
両目を失った母は方角が分からないので夫に毎晩子を抱いて三井寺の鐘を突いてください、その音で二人の無事を確認しますからと。
左手で描いた《三井の晩鐘》です。
めしいた母と、その目玉を持って泣いている子供。
背景には無事を確認する三井の鐘。
「きっと死を予感してただろうし、自分の子供に目じゃなくても何を残せるかなとこと考えながら描かれたんじゃないかなって気がするんですよね。鐘の音を聞かせてくださいっていうのも、いつか自分が空の上に行って星になった時にも何かその子供達が元気だよってこと誰かが知らせてくれたらいいなっていうような気持ちもあったんじゃないかなという気がして。私も今小さい子供がいるので母としての気持ちがちょっと近江の昔話にその時のご自身の気持ち重ねて書かれた絵なんじゃないかなって思います」
「右手で健康なときの絵よりもはるかに技術が優れているだけではなしに、絵の境地も明らかに深まったと思うんですよね」
昭和48年の暮れ、節子の肺にがんが転移していました。
でも生まれたのです。
あの一枚が。
幼い頃から三橋節子が大好きだった場所があります。
大正12年。植物の生態や分類の研究のために作られたこの場所には今も多彩な植物が共存しています。
「かわいい」
「普通だったら見落としてしまいそうな宝物みたいなものがいっぱいある場所で。ここで静かなゆっくりとした時間を過ごされていたのだろうなという気がします」
花折峠に咲く花
花折峠は福井の若狭から京都の八瀬大原を通る街道の滋賀との県境にある峠です。
そのほど近くに節子が愛した風景が広がっていました。
「静かでのどかでとてもいい場所です。優しい風景と言うか」
花折峠に伝わる昔話はこんな風に始まります。
「ある里に心根の優しい評判の良い娘と、心の醜い評判の悪い娘がいました。二人は峠を越えて遠くの里に花を売りに出かけますが、良い娘の花はよく売れ、悪い娘の花はあまり売れません。そこで悪い娘は嫉妬し、良い娘を激流に突き落としてしまいます」
節子の描いた花折峠。
群青の川を目を閉じ安らかな顔をした娘が流れています。
向こう岸にはもう一人の娘が。
流れる娘の周りにはたくさんの花たちが咲いています。
でもその茎はことごとく折れ曲がっていました。
昔話の結末は、花が自らの茎を折って命を絶ち、身代わりになることで娘の命を救ったのです。
「なでしこ。カスミソウ。ヒメジヨン。クサマオ。オミナエシ。この絵は悲しいと言うか。悲しみよりも穏やかさを私はこの絵から感じます」
それは白い花たちの野辺の送り。
子供達への手紙が残されています。
「今日はたくさん雪が降っていますね。どのくらい積もるかな。また雪だるまを作ったり、公園でそれができ、楽しみですね。ではさよなら三角またきて四角バイバイ。また病院にも来てね、」
「もうこのころ死が迫ってきてることを分かってたと思うんですけど、でもそれを子供には伝えないように、悲しませないようにしていう母親としての思いがこもっているなあと思って。
また病院にも来てねって最後まるじゃなくて点で終わってるんですよね。だからもしかしたらもう一言最後に書きたいことがあったのかなとも思うし」
病院にも来てね・・・そして絶筆。バイバイ
絶筆《余呉の天女》
琵琶湖の北にある余呉湖は節子にとって最後の家族旅行になりました。
絶筆《余呉の天女》はどこに伝わる伝説をもとに母と子の姿を描いています。
バイバイと手を振る天女と、悲しげな童女のまなざし。
「右手で握っていた筆を左手に持ち替えて、奇跡みたいなことですよね。それでも絵を描き続けて、その絵の中にお子さん達への想いとか愛とかの精一杯残されたんだろうなっていう気がすごくしました。母として画家としてそして妻として最後まで短い人生を懸命に生きた方なんだなっていう気がしましたね」
ノリウツギが娘の方に寄り添っています。
クサマオが何か話しかけています。
足元でうなだれるのはオミナエシ。
カスミソウが娘を揺すっています。
子供の頃から親しみ描き続けてきた野の花たちが慟哭しています。
生きた。愛した。描いた。
三ツ橋節子作《花折峠》白く咲いた花たちの野辺の送り。
日本画家・三橋節子(みつはし せつこ 1939~1975)昭和43年、結婚を機に長等山の麓に居をかまえ、地域の自然や歴史を題材として、「千団子さん」「鬼子母神」などの作品を発表した。昭和48年、右肩鎖骨腫瘍によって利き腕を切断、以後左手で「花折峠」「三井の晩鐘」など多くの代表作を生み、2年後の昭和50年、35歳の若さでこの世を去った。
三橋節子美術館は、遺族をはじめ多くの所蔵者から作品の寄贈を受けて開設された。
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