光や空気の細密表現で西洋中に影響を与えた「ヘントの祭壇画」。
制作当初に戻す修復の中、「神秘の子羊」が専門家も驚く顔に!直視するまなざしと聖書の教えの関係とは?
15世紀初頭ヤン・ファン・エイクの手で作られ、ナポレオンやヒトラーをはじめ、多くの人々を魅了してきた「ヘントの祭壇画」。
ベルギーの裕福な市民の注文で作られた。宝石に映りこむ反射や空気まで感じられる風景描写など、油絵の創成期に最高峰の技術で描けたのは、なぜなのか?どんな人物だったのか?
「ヘントの祭壇画」を愛する美術史家の小池寿子さん、漫画家のヤマザキマリさん、修復家の森直義さんが大胆に読み解く。
【ゲスト】美術史家 國學院大學教授…小池寿子,ヤマザキマリ,絵画修復家…森直義,【司会】小野正嗣,柴田祐規子
日曜美術館「光の探求者ヤン・ファン・エイク よみがえる“ヘントの祭壇画”」
放送日
2020年2月16日
プロローグ
その絵は600年もの間あらゆる者の目を釘付けにしてきました。
ベルギーの教会に飾られたヘントの祭壇画。
本物と見まごうばかりに輝く宝石や真珠。驚異的な細密技法。
そして遥か彼方に広がる大気まで捉えた描写。
この絵を書いたヤン・ファン・エイクは類まれな技で油絵を新しい次元に押し上げました。
ベルギーでは今この祭壇画の修復が進められています。
最新技術を用いた調査によって誰も予想しなかった製作当初の姿が現れました。
「今回の修復で最も画期的だったのは子羊の顔です。ヤンは人間味あふれる子羊を描いたのです。ヒューマニストであり数学や工学、地理学など全てに通じたまさにユニバーサルな人物でした」
神の手を持つと言われたヤン・ファン・エイク。
光を探求し油彩を改革したその姿に迫ります。
運河がめぐる街並みが貿易で栄えた中世の趣を残すベルギー・ヘント。
街の中心に建つ聖・バーフ大聖堂にヘントの祭壇画は飾られています。
15世紀富を蓄えた市民が教会に寄進したものです。
その制作を依頼されたのがファン・エイク兄弟。
フーベルトとヤンでした。
大小24枚の絵からなる開閉式のパネルにキリスト教にまつわる人物が油彩で描かれています。
8年前に始まった修復プロジェクトでは、最先端の科学調査が行われてきました。
例えば赤外線を照射することで表面の下に隠れた製作当時の姿を知ることができます。
人々を驚かせたのは多くの部分に後の時代の加筆や修正が施されていたことでした。
何もない空。
そこにはもともとは建物が。
子羊は全く異なる顔立ちでした。
後世に加えられた手は画面の7割にも及んでいたのです。
調査に当たったマクシミリアン・マルテンスさんです。
「これほど多くの手が加えられていたことは知られていなかったのでとても驚きました。絵が完成して100年ほど過ぎた16世紀半ばには、すでに加筆が始まっていたのです」
その背景にはこの絵が持つ流転の歴史があります。
ベルギーに侵攻したナポレオンは絵をフランスに持ち帰りルーヴル宮殿に作った美術館に飾りました。
その後、第二次世界大戦ではヒトラーに奪われ、オーストリアの岩塩坑に隠されていたところを救出されます。
度重なる略奪によって絵は激しく痛みました。
祭壇画の断面です。
元々の絵具の層の上に加筆や表面を保護するニスの層があり厚みの半分までを占めています。
「600年もの間、損傷箇所を隠すために今日とは全く異なる方法で繰り返し修復が行われました。それに時代の風潮にあわせてズノウまで変更されていったのです」
時を超えて現れた本来の姿。何を物語るのでしょうか。
スタジオ
今日は油絵を改革したといわれるヘントの祭壇画を見ていきます。
小池「大学院生の頃、1982年頃にはじめてヨーロッパを旅行したときにベルギーでヘントの祭壇画を見ました。昔はガラスケースに入っていなかったので衝撃的というか、細密描写。光り輝く画面に魅了されました。北方的という言葉を美術史では使っているんですが、イタリアに対して北の方の細密描写は色彩の豊かさにあるんです。それが一番よく現れている絵だと思うのです。特に私は子羊が大好きだったので、別名神秘の子羊の祭壇画と呼ばれていて、修復前だと神秘の子羊だなと思って田のですが修復後にあの顔を見たときにちょっと夢が崩れました」
森「小池さんの三年くらい後に私もベルギーで祭壇画を見ています。当時祭壇画の前にベンチがあって最初に閉めた面を見ていて、暗さに目が慣れてくると係の人が開けてくれたんです。その時の感動ってのはすごく強くて、初めて絵画を見てすごい喜びを覚えました。その後絵画を勉強して考える時に思いだされるのは決定的なものを僕に与えてくれたんだと思ってます」
ヤマザキ「今から35年くらい前に私はフィレンツェのアカデミア美術学校に入学したんですが、その時に油絵を専攻するための油絵を描くわけですけども、当時の先生が模写をして来いといって持ってきた絵の一つがヤン・ファン・エイクで、一番難しそうだったんで避けていたらそれをやれって言われたので、なぜ私はイタリアに来てこの北方ルネサンスの人の絵を描けるいけないのかなと思ったんですけど、赤いターバンの男。めちゃくちゃいやですよ。布の感じとか。私は18ぐらいで、構造と言うか全くわからないって先生に言ったら、だったらやれ。分かるためにやれ。そんな写実の油をやりたいんだったらヤン・ファン・エイクを外せないだろうと。イタリアに来たけども彼らは北方の作家についてリスペクトがあって、なぜこんなに思い入れが強いのだろうと、その時初めて知ったんですよ」
ヤン・ファン・エイクがヘントの祭壇にどんなものを描き込んでいたのか。その辺りを見ていきます。
ヤン・ファン・エイクという画家
ヤン・ファン・エイクは14世紀でベルギーに生まれました。
兄・フーベルトと共にヘントの祭壇画を描き始めますが途中で兄は亡くなり、ヤンは一人で完成させます。
それはヤンにとって記録に残る最初の油彩画でした。
閉じられた状態で見える絵は12枚。
その細部に様々な宗教的な意味を込めています。
キリストの出現を予言する巫女や預言者たち。
見守るのはマリアがキリストを身ごもったことを天使に告げられる受胎告知の場面です。
祝福する天使。
受け入れるマリアの言葉は聖霊である鳩に見えるよう上下逆さまに記されています。
白い布はマリアの純潔を表します。
窓辺にある水差しは壊れることのないマリアの子宮の象徴。
実はこの受胎告知に画家は特別な趣向を凝らしています。
教会など神聖な空間に描かれてきた受胎告知を、市民が暮らす部屋を舞台に描いたのです。
その理由は下の欄に伺うことができます。
両脇に祭壇画を寄進した夫婦の姿があります。
夫婦は当時ヘントで財をなした裕福な市民でした。
「場面は15世紀フランドルの普通の家屋に描かれています。祭壇画を見る人が馴染みのある生活空間での出来事としてこの絵を見ることができるようにしたのです」
ミサが行われる時、祭壇画は開かれます。
現れるのは まばゆい色彩の世界です。
最後の審判で聖母マリアと洗礼者ヨハネが信者に代わって神に願いを伝える姿。
手を掲げ祝福する神。
冠は無数の宝石で輝きます。
マリアの冠には純潔を表す白ゆりと愛の象徴赤いバラ。
粗末な毛皮を着て修行した聖ヨハネはここでは豪華なマントを羽織った姿で描かれています。
両脇には音楽を奏でる天使たち。
その音楽は神を礼賛するためのもの。
つまり上半分が天上の世界を表していると見られます。
さらにその横には楽園を追放されたアダムとイブ。
ここに二人が描かれた理由は祭壇画全体の構成と関係します。
父なる神の真下には神秘の子羊と呼ばれる一枚があります。
祭壇の上で胸から血を流す子羊は人類を救うために犠牲となるキリストの象徴。
精霊である鳩。子羊。その下には噴水が描かれています。
それは生命の泉。
やがて地上に現れる楽園を意味します。
アダムとイブの犯した罪を背負って生まれた人間。
キリストの犠牲によって魂が救済され約束された楽園が現れる。
そのことを祈りを捧げる者たちの目の前に表して見せたのです。
では修復によって現れた子羊の顔は何を物語るのでしょうか。
「子羊は私たちを直視しており迫力があります。それはキリストが人類を守るために死んだのだと祭壇画を見る人々に喚起しているのだと思います」
スタジオ
のちの世の人々を驚かせ続けるヤン・ファン・エイク。
その驚異の技とはどのようなものだったのでしょうか。
「 ヤン・ファン・エイクの革新性は直接、反射、屈折という三つの視覚表現を絵画に取り入れたことだと考えられます」
斬新な三つの表現のうち一つ目は空間をありのままにとらえる技。
遠くに山が霞んで見えます。レオナルド・ダ・ヴィンチが用いたことで知られる空気遠近法。
この絵はその80年以上前に風景の奥行きを捉えています。
次に金属や宝石など反射するものの描きかた。
騎士の甲冑には手に持つ赤い槍が見事に描き込まれています。
天使の胸元の宝石。わずか2セントの中に教会のステンドグラスを映しています。
そして水やガラスなど透明なものを通る光の描写。
外からの光はガラス瓶の中の水によって屈折し、柔らかな輝きを窓辺にこぼしています。
「ヤン・ファン・エイクは当時のほかの画家に比べて現実を観察する力がずば抜けていました。彼は視覚を駆使することによって聖なるものへの洞察力を得ることができる。神を理解することができると信じていたのです」
光を捉える技をどのように身につけたのか。
謎とされてきた経歴が少しずつ明らかになっています。
14世紀の末に製作が始まったトリノミラノ時祷書。
その一部が若き日のエイクのものと分かってきました。
幅20センチの小さな画面には後に繋がる光の描写が見て取れます。
机の上の金属の容器には女性の青い服やベッドの赤い布がかすかに映りこんでいます。
反射するものを見つめるまなざしです。
空気そのものを描くかのような技。それはすでにここにも息づいています。
小さな挿絵で培った光をとらえる力。それを巨大な油彩画でどのように発揮したのかはいまだに大きな謎です。
オランダの画家ヤン・ビュスティンさん。
ヤン・ファン・エイクの絵の再現を試み、技巧の秘密に迫ろうとしています。
「ヤン・ファン・エイクの絵に特徴的なのは油を塗り重ねる技法です。透明な絵の具の層が光を通すことで絵の内側から深みが生まれるのです」
油絵そのものはヤンが活躍する以前からありました。
顔料を油で薄く溶いて何層も塗り重ねる技法が用いられていました。
ヤンは様々な種類の油を混ぜ、より自在に描ける絵の具を作ろうと試みました。
どんな油を使ったのか。まだ特定は難しいと言います。
さらにビュスティンさんが注目するのは油絵の具を使いこなすヤンの描き方だと言います。
「 ルビーに入った光が反対側に反射する絵を描いています。ここはうまくいきませんでした。
実際に再現してみてわかったのですが、筆の方向や動かし方。力の入れ方ひとつでヤンの生んだ効果と全く変わってくるのです。そして重要なのはそういう効果は一気に描かなければ生まれないこと。一度きりのチャンスしかなく、やり直すと絵の説得力がなくなってしまうのです」
ヤン・ファン・エイクが油絵具をどのように用いたのかを物語る絵があります。
壁にかかるロザリオはこれまで緻密な輪郭線で描かれていると思われていました。
しかし特殊なカメラで撮影したところ、軽い筆さばきで色を乗せただけとわかりました。
さらにホウキは濡れた絵の具を筆の柄で引っかくことで表していました。
ヤンの絵の具と筆使いへのたゆまの探求は、油彩に光とリアリティーをもたらしたのです。
スタジオ
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