チャンスはピンチだ。

響くアートの愛好家

日曜美術館「“楽園”を求めて~モネとマティス 知られざる横顔~」

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印象派の巨匠モネと色彩の魔術師マティス

作風が対照的な二人だが、ともに後半生、人工の「楽園」を作り、その中に籠って絵を描き続けた。

時代は近代化による社会の転換期。

人々は相次ぐ戦争やスペイン風邪などの疫病にさいなまれ、「ここではないどこか」にあるものを求め続けた。

二人はなぜ「楽園」にこもったのか?

そこで描く作品に何を託そうとしたのか?

二人の巨匠の人と作品を新たな視点から読み直し、知られざる横顔に迫る

【出演】【ポーラ美術館学芸員】工藤弘二

【司会】小野正嗣,柴田祐規子

  

モネとマティス もうひとつの楽園

モネとマティス もうひとつの楽園

 

 

日曜美術館「“楽園”を求めて~モネとマティス 知られざる横顔~」

放送日

2020年9月6日

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印象派の巨匠。クロード・モネ

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そのおよそ30歳年下。

色彩の魔術師と呼ばれたアンリ・マティス

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作風が対照的な二人の巨匠に共通点を見出そうという展覧会が開かれています。

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それは今まで注目されることのなかった新しい視点だと言います。

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「この二人ってのは自分で環境を作っちゃう。自分の好きな環境を。でそれを眺めてるだけじゃなくてそこで実際に生活をして、それを作品にするという共通点がね」

二人は共に自らの好みを反映した理想の空間を作り上げ、そこで絵を描いたというのです。

 

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モネは農村地帯のジヴェルニーで、川の流れを変える大工事を行って池を造成。

そこに睡蓮などの植物を配しました。

ここは人工的に作り上げたアトリエでした。

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マティスは南仏のアトリエを、異国情緒豊かな調度品で飾り立てます。

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そこでモデルに自ら縫った服を着せ、くつろいだポーズを取らせました。

ここは演劇の舞台さながらのお気に入りの空間でした。

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二人の活躍したのは19世紀後半から20世紀にかけての激動の時代。

産業革命を経て、技術革新が進み、人々の生活や価値観が大きく変わりつつありました。

ヨーロッパを苦しめたのは度重なる戦争。

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さらに疫病・スペイン風邪が流行。

おびただしい数の人が命を落としました。

そんな時代に芸術家たちの共感を呼んだ詩があります。

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生きるとは病院に入っているようなものだ

ここではないどこかへ

困難な時代の中。

理想の空間・いわば楽園の中で創作を続けたモネとマティス

ふたりはそこでどのような芸術を創造しようとしたのか。

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楽園という視点を通して二人の巨匠の知られざる横顔を紐解きます。

日曜美術館です。

今日はフランスの二人の巨匠モネとマティスを取り上げます。

この二人には今までは美術史上では語られてこなかった共通点はあるということ

「ふつうモネというと野外の風景で、光の変化、その上に描かれててあまり人が絵の中にいない。いっぽうマティスは室内の絵というイメージがあるので共通点はあるのかと思いました」

二人の共通点。実は楽園を作り上げたということなんですが、一体どんな楽園なのか。それぞれの生涯をたどりながら見ていきます。

 

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1840年。パリに生まれたクロード・モネ

印象派と呼ばれるグループの中心的な存在として知られています。

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30代のモネが描いた作品《印象・日の出》。

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印象派という名称はこの絵の題名から生まれました。

作品が発表されたのは権威あるサロンに反発して仲間とともに開催した展覧会。

新しい表現を求めたモネは伝統的な絵画とは異なり、光の効果を強調しています。

モネが生きた19世紀後半。

パリの街は大きな変貌を遂げていました。

パリ大改造と呼ばれる都市計画が実行されたのです。

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治安や衛生面での問題を抱えていた貧民窟など多くの古い家屋が取り壊されました。

狭く入り組んだ路地は都市の近代化を支える広い街路に整備されました。

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パリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔は世界初の鉄の高層建築として注目を集めました。

パリから各地へと広がる鉄道網は人や物の流通を活性化し、生活を大きく変えました。

モネは新しい時代の姿を積極的に描いています。

 

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サン=ラザール駅の線路。パリに初めてできた駅舎の光景です。

汽車の吐き出す煙がたなびく様子をキャンバスに映し取りました。

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セーヌ川の中州。グランド・ジャット島はパリの人々に人気の憩いの場でした。

遠景には煙を吐き出す工場が描かれています。

手前の島を散歩するのはブルジョワジーと呼ばれる資本家階級の人々。

当時のパリでは貴族たちに変わり、ブルジョワジーが次代の担い手になっていました。

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モネが40代半ばを過ぎた頃。

作品に大きな変化が訪れます。

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それまで描いてきたパリの街や旅先の風景ではなく、水辺の風景。

とりわけ睡蓮がもっぱら作品の主題になるのです。

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実は有名な睡蓮はほとんどがひとつの場所で描かれたものです。

その場所こそモネが作り上げた理想の空間でした。

理想の空間を求めてモネはパリを離れセーヌ川沿いに点々と住まいを移していきます。

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アルジャントゥイユ。さらにセーヌ川を下ったヴェトゥイユ。

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そして最後にたどり着いたのがパリからおよそ70キロ北西に位置するジヴェルニーでした。

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モネはこの小さな農村に邸宅を購入し制作の場にしました。

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村を流れるセーヌ川の支流にモネは水を描くことへの意欲をかきたてられました。

水面下に揺らぐ水草を描いた小舟。

一時として同じ表情に止まらない水の情景はモネにとって欠かせないテーマとなっていきます。

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ジヴェルニーに移った3年後。

モネは自宅の周りの広大な土地を購入します。

自ら土地を開墾し庭を造成しました。

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完成したジヴェルニーの庭は大きく二つの区画に分かれています。

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季節の花が咲き乱れる花の庭。

画家のパレットのように色とりどりの花が配置されています。

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そしてもう一つが大きな池を中心とした水の庭です。

中でもモネが情熱を注いだのはこの池の造成でした。

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セーヌ川の支流の流れを変える大規模な工事を行い、庭に水を引き込んだのです。

どのような庭を作るのか。

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モネのイメージの源泉となったのは愛する日本の浮世絵でした。

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池には絵と同じ形の太鼓橋をかけ、周囲には柳の木を植え、藤棚を作りました。

モネがこの庭で特にこだわりを見せたのが睡蓮でした。

 

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睡蓮との出会いはエッフェル塔が注目を集めたパリ万国博覧会

会場には東洋風の庭が作られ、様々な種類の睡蓮が展示されていました。

モネは当時のフランスにはない熱帯原産の睡蓮や、品種改良で生まれた新しいものなどに魅せられました。

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庭園を手掛けた水生植物の専門家にいくつもの睡蓮の苗を注文します。

池に植える時にはそれぞれの品種の配置にも吟味を重ねました。

モネは毎朝庭師に命じ、睡蓮が同じ位置から動かないようにしていたといいます。

それは作品のためでした。

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モネは時間や季節を変えて同じ構図を何度も描いています。

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右が日中の光景。

左の作品では上部に紫がまじり夕空の反映であることがわかります。

こうした連作を描くために睡蓮の位置はいつも同じでなければいけなかったのです。

「モネは理想の風景を作って、つまり人工の風景だよね。それだけじゃなくてそこで生活した。生活の中で自分のテーマを見つけて絵を描いていった」

ジヴェルニーの庭はモネが自ら手をかけて作り上げた理想の空間でした。

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とりわけ好んだのは太鼓橋の下に睡蓮が咲き誇る光景です。

人工的に作られた。いわば楽園とも呼べる空間。

モネはその後半生。この楽園の中で睡蓮を描き続けたのです。 

図説 モネ「睡蓮」の世界

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  • 作者:安井 裕雄
  • 発売日: 2020/04/24
  • メディア: 単行本
 
ジヴェルニーの食卓 (集英社文庫)

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アンリマティスは1869年北フランスに生まれました。

独自の色彩表現を追い求め、色彩の魔術師として知られています。

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30代で発表した作品はフォーヴィスムと呼ばれる大胆な色彩表現でパリの美術界に衝撃を与えました。

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妻を描いた《帽子の女》は原色で鮮やかに塗り分けられ、独特な立体感を生み出しています。

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マティスもまた40代後半になってパリを離れ、南仏のニースに制作の拠点を移します。

ホテルなどの一室を借り上げ、アトリエを構えました。

「この光が毎朝見られるという幸福が信じられなかった」

マティスは全てを透明に照らし出すニースの光に魅せられたのです。

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抜けるような青空と地中海を臨むアトリエ。

大都会パリとは異なる静かな環境で、マティスもモネと同じように理想の空間を作り上げていきます。

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マティスはアトリエを自分好みに飾り立てました。

壁面を覆う布の数々は自ら買い求めたものです。

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特にマティスが好んだのは中東やアフリカなどのエキゾティックなテキスタイルでした。

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マティスはこうしたテキスタイルのコレクションも仕事の図書館と呼び、制作のヒントやひらめきを得ていたと言います。

アトリエは様々なテキスタイルで溢れました。

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マティスがそういったテキスタイルをたくさん用いて何をしようとしてたか言うと、一つはエキゾチックな異国情緒溢れる空間を作り出すそういう演出っていうのもあったんですけれども、

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もう一つ重要なこととしては空間表現そのものに直結するんですけれども、複雑な模様をたくさんレイヤーのようにして重ねて絵画の画面の中に再構成することによって、現実とはまた違うもっと曖昧で重層的でどこまで奥行きがあるのかわからないようなそういうその現実よりもすごく深くて広い空間でものを作り出そうとした考えています」

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アトリエのマティスを記録した映像が残されています。

マティスの理想の空間にはモデルも欠かせませんでした。

衣装にもこだわり、時に自ら縫った服を着せたといいます。

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この写真に登場するのはお気に入りのモデル・ジダ。

時代はモデルにくつろいだポーズをとらせることで安らぎを感じる空間を作り出そうとしました。

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ゆったりとしたポーズでトルコの椅子にもたれるジダ。

エキゾティックな衣装が安らぎの空間に独特の魅力を加えています。

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青いドレスでくつろぐリリア。

彼女は制作の助手でしたがやがてマティスのお気に入りとなりモデルを務めました。

マティスにとってモデルはエネルギーの源という風に自分でもいっているような存在で、モデルもたくさん来てもらっても自分の本当に心動かされるモデルを選んで、描いてもらったりとか、モデルもすごく選んでますし、本当にモデルも含めて自分の理想的な情景というものを作り上げて、それを描いていったという楽園の構成になっている」

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トルコの火鉢などエキゾティックな調度品。

そこでお気に入りのモデルがくつろぐ。

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演劇の舞台さながらの空間。

マティスが作り上げた理想の楽園でした。 

 

 

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今日はスタジオにこの展覧会を担当されたポーラ美術館学芸員の工藤弘二さんにお越しいただいてます。宜しくお願い致します。まずふたりの楽園のディティールをそれぞれに見て行きたいんですがモネから行きましょうか。

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「モネの広い邸宅なんですけれども、敷地内には制作年に合わせてアトリエが増築されています。

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芸術家にとって絵画を制作しやすい楽園という意味合いもあったのかなという風に思います。ジヴェルニーに落ち着いた頃から連作っていうものに集中して描くようになります。連作って何かと言いますと、

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同じような絵でも、その1日の時間が違ったり季節が違ったりするわけです。ですから同じように見えても光の具合で描き分けをしていったりするんですけれども、池の前でも描くんです。それをアトリエの中に持って行って全体の調和っていうのを描いたりもしたんですね」

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それにしてもですよセーヌ川を自宅に引き込むとか。

「違う水を入れると水質汚染が起こるんじゃないかとかっていう形で、実は地元住民の反対も受けてるんですけれども、そこを乗り切ってモネは引き込むことに成功したりとか。興味深いのはモネはずっとセーヌ川沿いをその拠点として描いてきたんですけれども、最終的にプライベートな空間にセーヌ川の水を引き込んでしまった。私有したっていうことなんです。モネはセーヌ川を転々としてきたという歴史を考えますと、睡蓮の池は水の庭ですね。この造成ってのは本当に凄い出来事だったと感じます」

一方マティスは自分のプライベート空間なんだけれども非常にコンパクト。

「描く前に、いかに描くべき空間。自分の生きる環境を生み出していたかと言うことを写真を見ていただくとよく分かる。モデルも霊感を与えるような女性であったり。女性の衣装。足にアクセサリーをつけてますよね。マティスが自分で買い求めていたって話もあります。この写真だけでいったい何枚の装飾的な布が登場するか。装飾の限りを尽くして舞台の演劇。虚構の空間のように自分の描く環境っていうのを演出していたんですね」

好きなものを詰め込んだ場所っていう楽園だったんですね。 

モネとマティス もうひとつの楽園

モネとマティス もうひとつの楽園

 

 

 

 

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二人が楽園を作り上げた背景には何があったのでしょうか。

19世紀後半から20世紀初頭。

近代化とともに産業の構造が大きく転換。

ブルジョワジーと呼ばれる資本家階層が台頭していました。

豊かなブルジョワジーたちは芸術の需要層でもありました。

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ブルジョワジーは経済中心。功利主義的な価値観が社会の中に行き渡って、芸術というのはもうそういった精神的なもの文化的な物っていうのは必ずしもお金に還元できない部分もあり。そこに矛盾も起こってくる」

この時代のもうひとつの特徴は戦争が相次いだこと。

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1870年普仏戦争が勃発します。

モネの画家仲間も次々に従軍。

モネの親しい友人バジールが戦死しました。

第一次世界大戦が開戦。

人々の苦しみに追い討ちをかけたのがスペイン風邪の世界的流行でした。

戦時中の劣悪な医療環境の中でおびただしい数の人が命を落としました。

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マティスの友人だった詩人アポリネールもその一人でした。

社会の価値観の変化。

そして戦争と疫病。

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こうした時代の中で芸術家たちの共感を呼んだのがシャルル・ボードレールの作品です。

詩人であり美術評論家でもあったボードレールは近代化で変貌する時代を生きる苦悩を詩の中に吐露しました。

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詩集「パリの憂鬱」にはこうあります。 

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

巴里の憂鬱 (新潮文庫)

 

生きるとは病院に入っているようなものだ

どこへでもいいここではないどこかへ

そして不条理な現実の中にあるはずの真実を探し求めるのです。

「近代化に伴って産業中止の社会が成立し、ブルジョワジー中心の市民社会が勃興し、そして戦争という背景があるということを考えてみると、これはいかにも芸術家にとって生きにくい環境、歴史状況だったなっていう感じがするんですね。その中で芸術家たちが自らの芸術の理想あるいは美の王国。まさに楽園をどうやって維持維持していくのか。どうやって自分の技術を生き延びさせることができるのかというのは大変困難な重要な問題だったと思います」

ボードレールと同じ時代を生きたモネが作り上げた理想の楽園。

ここでどのような芸術を生み出そうとしたのでしょうか。

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その心情を伺わせる作品がパリのオランジュリー美術館にあります。

横6メートルを超える大画面に描かれた睡蓮の連作です。

モネは第一次世界大戦終結の年。

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この連作を国家に寄贈したいと申し出ました。

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モネは睡蓮の連作についてこう語っています。

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「仕事に疲れた神経は静かな水の広がりに従って解き放たれる。この部屋を訪れる人々に花咲く水槽に囲まれて穏やかに瞑想する安らぎの場を提供できるだろう」

 

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「戦争で心身ともに傷ついた人々に安らぎの場を提供する。そういうものを作り出したいっていうことだったと思うんで、あの部屋を訪れると睡蓮が水面の広がりにつつまれるような感じを多くの人が受けると思うんですけども、まさに空間として循環する時間というものが実感できるそういう場所かなという風に思いますね」

描かれているのはジヴェルニーの楽園で毎日繰り返される風景の変化です。

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1日の始まりは朝の情景。

明け方の柔らかな光に色づく水面です。

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日没は夕闇に沈む画面の中で鮮やかな金色と紅が燃え立つようです。

繰り返す時の流れに身を委ね、静かに包み込まれるような空間です。

晩年、モネは白内障を患います。

視力をほとんど失いましたがそれでも睡蓮を描くことはやめませんでした。

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モネが特に好み何度も描いたのは日本風の太鼓橋のある風景でした。

判然としない形。

しかし黄色や緑の力強い色彩は自然の息吹をとらえているようです。

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背景は空なのか水なのか。

その青から浮かび上がる藤の花。

モネの記憶の中の楽園は穏やかな命の光に満ちています。

「晩年の抽象的なものでは決して自然から離れていくという抽象ではなくって、描くって言う身体的な行為の中で自然の息づかいと呼応してると言うのですかね。そういうものさえ感じさせる側面があるように思うんですけど」

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モネはこのジヴェルニーの楽園で86歳の生涯を閉じました。

 

マティスも自ら築いた楽園の中でキャンバスに向かい続けました。

作品について手記にこう記しています。

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「私が夢見るのは心配や気がかりの種のない実業家にとっての精神安定剤。肉体の疲れを癒す良い肘掛け椅子のような芸術である」

この時代。新たに事業を起こす実業家たちが増えてきました。

マティスは自らの作品は忙しく働く彼らの肘掛け椅子でありたいと考えたのです。

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「肘掛け椅子としての絵画という考え方はマティスが生涯ずっと追い求めていった方向性だと思います。19世紀に印象派が歴史画と呼ばれる、貴族とか王侯のために描かれた絵画という、宗教とか国家の理念を表すものでした。それに対しブルジョワの慰安のため、心地よさのようなそれ自体美的価値に他ならないような主題というものをメインに据えました。近代における絵画の役割、社会的な意義をマティスは意識していたと思います」

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ヨーロッパの古楽器リュートを手にくつろぐ女性を描いた一枚。

鮮やかな赤の背景に映える白いドレス。

ドレスの印象的な模様が独特のリズムを生み出しています。

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マティスがこの作品でモデルに着せたというドレスが保存されています。

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作品にも書き込まれた繊細な刺繍からはマティスの模様へのこだわりが伺えます。

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絨毯や壁紙にはオリエント風の模様が描かれ、当時フランスの人々が憧れた異国の地を連想させます。

リュートの音色が響くくつろぎの空間です。

やがてマチスに試練が訪れます。

第二次世界大戦が勃発。

フランスはナチスドイツに占領されることになりました。

 

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その頃マチスは癌にかかります。

手術を受けたものの体力は弱り外出も困難になりました。

しかしマティスの楽園だったアトリエはインスピレーションの源であり続けました。

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マティスは制作への情熱を失わず、絵画に変わって切り紙絵を手がけるようになりました。

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切り紙絵の代表作《ジャズ》

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これはサーカスの一場面。

緑は道化師の衣装です。

馬はまるで音楽に合わせ跳ねているように見えます。

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イカロスはギリシャ神話に登場する人物。

星空に向かって登っているのか。それとも翼を失って落ちているのか。

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見るものが自由に想像し楽しむことのできる仕掛けをマティスは散りばめています。

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このシルクスクリーンはアトリエの壁に貼られていた切り紙絵を元に製作されました。

切り紙絵は元々は壁のシミを隠すためのもの。

アトリエの飾りが作品となり人々を楽しませるものになりました

モチーフは南の島の生き物たち。

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サメのような魚。

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そしてサンゴ。

簡略化された造形は自由で伸びやかな生命力を感じさせます。

マティスはこの時期に苦悩をそのまま表現するというのことがなかった。だからそれは非常に珍しいある意味では特異なことですね。マティスの作品は肘掛椅子のような心地よさを人々に与えるということを目的とするということは貫いたってことでしょうね」

 

マティスは亡くなるまで制作の拠点を南仏に置き続けました。

最晩年。戦火に崩れた礼拝堂の再建を依頼されます。

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聖ドミニコ修道会ロザリオ礼拝堂です。

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建物の設計から内部の装飾のデザインまで全てを自ら手掛けました。

マティスはこの礼拝堂が画訪れる人々を癒し幸せや安らぎをもたらすことを願いました。

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この礼拝堂完成の3年後。

キスは84歳で世を去りました。

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19世紀の後半から20世紀にかけての戦争の世紀。芸術家たちは生きにくい状態であったというお話が出てきます。どうしてなんですか

「環境そのものが大きく変化したってことがありありますよね。社会の中、信仰もそうですけども聖なるものが失われていく。それまでの理念が揺さぶられていく時代っていう中で、画家や芸術家達っていうのは一から価値を創出しなくちゃいけなくてまならない」

人間性が疎外されたと感じる人が多かったと思うんですね」

「ボードレーヌの詩、この世界の外ならどこでもいい。だからこそエキゾティズム。ゴーギャンの楽園は地理的な外だった。自分たちの住んでる世界の外側に行く。異国趣味ってのも発展していく。だけどそうじゃない外もあるはずで、それをどうやって作り出すかっていうこと。だからモネとマティスはそれぞれのこの世界の外側を自分の生活環境中に作作った」

「モネは人工的な庭を作る自分だけの庭を。マティスはニースのアトリエの中で自分だけの空間を作る。ここではないどこか。現実ではないどこかかっていうところにパラレルな気がしますね」

自分の楽園を自分のものだけで閉じ込めておくのではなく、モネの場合だと睡蓮を皆でシェアするような。

 

「鑑賞者のその神経を休ませるような表現になるといいなっていう話もモネはしていたわけなんですね。いろんな季節の睡蓮があることになるじゃないですか。全体の調和っていうのは自然の循環を見せたかったっていうところがモネの胸の最終到達点かなと思うです」

あらゆる時間、時期が絵の中にあるとすればユートピア。全ての時間があるって言うね

超おもしろ時間制が絵の中で作られてるんだなと」

最終的には肘掛け椅子になりたいっていう言葉はありますね。

印象派の時代から市民階級が台頭し、レジャーとしての旅行やレクリエーションとしての行為がどんどん描かれ始めた。象徴的に肘掛け椅子っていう言葉が椅子に座ってゆったりとするような気持ちですね。作品を見てもらいたいっていうことを生涯意識していたんだと思います」

 

「ふたりは自分のために楽園を作ったかもしれないですけど、万人に開かれたね楽園になってる僕たちも自由に入れる」

「そうした彼らが描いていた楽園がですね。没入していくというか今の時代でも見れるって事は本当に幸運な事ですよね」

今日はどうもありがとうございました

 

 

取材先など

 

放送記録

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書籍

 

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

芸術新潮 2020年 01月号 東京のミュージアム100

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/25
  • メディア: 雑誌
 

 

展覧会

 

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