多くの庶民にとって富士山は憧れの的でした。そんな人々に、家にいながら富士山を楽しんでもらおうと葛飾北斎が描いたのが、日本各地から見える富士山を描いた浮世絵『富嶽三十六景』。元々の36枚に“裏富士”と呼ばれる10枚を追加発売し、合計46枚となった超大作です。生涯3万点もの絵を描き、名前も住まいも作風も別人のようにコロコロ変えた変幻自在の画狂・葛飾北斎が、90年の生涯で一貫して追い求めたテーマが富士山でした。そこには北斎が人生をかけた壮大なイリュージョンが仕掛けられていたのです。それは一体?
描かれた景色をよく見ると、違和感を覚えるものが多数あります。例えば無視された遠近法、デフォルメされた富士山…なぜそのまま描かなかったのか?現実と虚構が入り混じる北斎の作風はいかにして生まれたのか?北斎にとっての真実とは…?
新美の巨人たち 葛飾北斎の最高傑作!『富嶽三十六景』
放送:2020年8月29日
日本の霊峰富士山。
毎年20万人以上の人が訪れます。
でも今年の夏は新型コロナウイルスの影響で登山道は閉鎖。
こんな絶景もしばらくお預けです。
富士山を家で楽しむ方法ってないかな。
そんなのあったら私も試したいもんだよ
実はあります。
こんな時だからこそ「富嶽三十六景」を。
様々な富士の姿を描いた浮世絵の超大作です。
描いたのは江戸の絵師葛飾北斎。
その男名前を変えること30回。
住まいを変えること93回。
作風も別人のようにコロコロ変えた変幻自在の画狂です。
しかし北斎が生涯追い求めたテーマが富士山でした。
そこには数多くのイリュージョンが散りばめられていたのです。
謎を解き明かすのは気鋭のアーティスト。
そして写真家、研究者たち。
「気持ちよくだましてくれる」
天才絵師、北斎が作り出した幻想の富士山ツアー。いざ参りましょう。
東京上野に行ってきたシシドカフカさん。
現在浮世絵二百年の歴史を網羅した美術展が開催されています。
ここに世界の名画の中でもあのモナリザに次いで有名だと言われる傑作が。
「思っていた以上に色が鮮やか」
葛飾北斎作《富岳三十六景神奈川沖浪裏》
1830年頃に手がけた作品です。
大きさはA4用紙より一回り大きい程度。
江戸時代人々が手軽に手にとって見られるサイズでした。
その迫力は圧倒的で、高々と隆起した波が今まさに崩れ落ちる瞬間。
一面にほとばしる水しぶき。
荒波に翻弄される三隻の船は今にも転覆しそうです。
「ちょっと隠れてる人の頭が出てる人まで描いてある」
船にしがみつき命をつなぐ乗組員。
必死の様子が伝わってきませんか。
この波はグレートウェーブと呼ばれ、ゴッホやモネなど印象派の巨匠が絶賛しました。
でも今回の主役はダイナミックな波ではありません。
「静かに佇む富士山。手前にある海の荒れている状況とそういう状況でも変わらない姿でいてくれる安心できる存在っていうイメージです」
富岳三十六景は日本各地から見たという様々な富士を描いた連作の浮世絵です。
浮世絵はいわば江戸時代のポスターやブロマイド。
版画として大量生産され安く買える庶民の娯楽でした。
美人画、役者絵が人気で風景画は少なかったのですが。
富嶽三十六景で各地から眺める富士の姿を楽しんでいるようです。
こちらは今の東京隅田川沿いから見た一枚。
今の豊橋市付近にあった茶屋。
尾州、今の名古屋辺りから見た富士山だと北斎先生は言うんですが。
こんなにはっきり見えるのかね
日本橋からそんなに大きな富士みたことないよ。
解き明かしてくれるのは各地から富士山の姿を撮り続けてきた写真家のTAKASHIさん。
富士吉田市から見える富士山。
ナショナルジオグラフィックの表紙にも選ばれ世界の人に富士山の美しさを知らしめました。
江戸城と富士山の横並び。
日本橋からこんな風景も見えるんですか。
「結構江戸城が見えたと思うんですけど。ここに富士山がいますね。これ本当に写真で撮ったら富士山絶対この石が来ない」
さらにずっと先に視線を伸ばすと富士山は見えません。
どうも北斎は富士山の位置をしれっと横に移動していたんです。
もっと極端な例がこちら。
今の東京青山から見た一枚。
東京の中心からこんなに富士山が大きく見えるわけありませんよね。
さらにTAKASHIさんは富士の麓から見たこの一枚も奇妙だと指摘します。
「これも山の形はすごく不思議です」
凱風快晴。
通称赤富士と呼ばれる有名な一作なんですが。
TAKASHIさんが撮った写真と比べてみると稜線の角度が全然違います。
北斎は上下に2倍も引き伸ばし富士をより高く描いているんです。
「写真では絶対ありえないですね。現実的じゃない。富士してもそうですけどすごい神聖な信仰の山。そういう風なことを伝える一番いい手段だったからなんじゃないですかね」
もともと富士山は登るなど恐れ多い聖なる山。
不老長寿や一族繁栄などの祈りを捧げる対象でした。
ところが江戸時代後期になると富士山詣出をする富士講が大流行します。
当時庶民にとって富士山への旅費は高額でした。
そこで何人かが集まって積立を行い、くじで選ばれた者だけが富士山に登る仕組みにしたんです。
少しでもチャンスが巡ってくるように。
そんな富士山に憧れる人々に向け北斎が描いたのが富嶽三十六景でした。
本来は遠くにしか見えない富士の姿を迫力満点サービス精神旺盛に描いたことで狙い通り大ヒットしたのです。
浮世絵は売れてこそ価値がある。
「庶民たちの流行をうまく察知して北斎も江戸の人々に人気のある富士というものを題材にして風景を描こうと思ったんだなと考えられます。北斎のすごいところは絵を見た時に違和感というのを感じさせずに絵の迫力、面白さっていうのがまず先に感じられる」
あまりの人気に富嶽三十六景は元々の36枚から10枚が追加販売。46枚となりました.。
明治創業のアダチ版画研究所。
伝統的な浮世絵の技法を受け継ぐ版画工房です。
では北斎の神奈川沖浪裏ができるまで。
まずは彫絵師が描いた下絵を貼り付けた版木に小刀を入れていきます。
北斎の線を彫りで再現するには繊細な技術が必要です。
色をつけない部分は大胆に削り取る
「北斎は端から端までも絶対に自分の意図が絶対反映するような、気を張ったような線。北斎やるときは気持ちを引き締めてやらないと」
その版木がこちら。
神奈川沖浪裏では線を彫り出した主版に加えて、船・空・波など、七つの版木を作ります。
そして摺りです。
最初は最も重要な線を摺り剃り出す主版から。
摺り上がった一枚。
そこに次の版木をセットして、見当という目印を頼りに絵がずれないように紙を置きます。
そして船、空、波の陰影など色を重ねて擦っていくのです。
神奈川沖浪裏の釣りは合計8回。
これは他の絵師に比べておよそ半分。
北斎の作品は摺りの回数が少ないのでコストをかけず、短時間で完成させることができたそうです。
でも海はこんなに荒れているのに、嵐の気配がまるでない。
もっとおかしな一枚が、山梨県にある河口湖に姿を映す逆さ富士。
山の岩肌が見えた夏の富士。でも湖に映ってるのは雪をかぶった冬の富士なのよ。
こんな景色が拝めるのか。逆さ富士だけに季節も逆さっていうわけか
こちらは富士山のすぐ近くのようですが。
どこから見たのか分かっていません。
山下白雨。白雨ってことは夕立か。
頂上はカラッと晴れてるけど下の空は黒々としてて稲光まで。
こんな富士どっから見られるのかな
「北斎がヘリコプターに乗ってこの富士山の山頂にいたとしてもですね、こういう感じでは描けない。なぜならばこの晴れの部分と雨の部分はこれを同時に描いてるわけですから、北斎の頭の中でしか見ることができない風景だったと思います」
実は北斎40歳の頃までは相撲や美人画を描いていたごく普通の絵師でした。
ところが45歳を境にとんでもない絵を描くようになるのです。
いったい何があったのか。
奇想天外な富士山の絵で庶民の心をつかみ大ヒットしました。
実は北斎が枠にとらわれない画風を確立したのには一つの出会いがありました。
江戸時代のベストセラー作家滝沢馬琴です。
「椿説弓張月」は源為朝が琉球王国を再建する元祖冒険ファンタジー小説。
北斎、その挿絵を担当することになったのです。
馬琴の筆に負けじと描いた妖怪化け魑魅魍魎。
想像の限りを尽くし北斎の絵筆も走ります。
そんな挿絵の力と相まって調節は大ヒットしたのです。
馬琴との出会いが北斎を大きく変えた。
そう考える研究者がいます。
「目の前にある風景ではなく、様々なものを描いていく。これ描けるかというものを出していくと、北斎は描かなくてどうするんだって描いていく。一枚の絵の中でドラマを感じるようになっていく。北斎にとってもすっかりいろんなものを描く力が身についたと思います」
大嘘でも楽しませたら勝ち。
庶民の心をがっちり掴むにはエンターテインメント性こそが必要なのだと北斎は痛感したのかもしれません。
画家の石川真澄さん。
浮世絵の技法で今の時代を描き出し、現在の浮世絵師と高い評価を得ています。
石川さんの《冨撹三十六景心中しゅう然》。
北斎の富士山を再構築してみせた作品です。
それらを集めて見てみると、一つとして同じ富士山がないことに気づくでしょう。
「見る場所や、そこに暮らしてる人たちと調和してる富士山によって顔が違うのかなぁとか」
確かに富嶽三十六景の富士山は北斎流にデフォルメはされているものの、その土地に生きる人々の日常にすっかり馴染んでいるように見えます。
「事実を描きたいんじゃなく、真実を描きたいんだと思う。人それぞれの富士山っていうのが多分あるんだと思うんですけど、なんかそういった人の心象風景としての富士山を描きたかったというか」
北斎が日本人の誰もが知っている富士山をモチーフに選んだのは必然だったのです。
人々の心の中にある富士を描いて見せれば、時代を超えた傑作になる。
北斎はそう確信していたに違いありません。
富嶽三十六景を描き終えた北斎は75歳にして新たな富士山を追求します。
三十六景ならぬ富嶽百景。
それは北斎流エンターテインメントの到達点。
では早速見てみましょうか。
75歳の時新たな富士を描き上げます。
富嶽百景。
その通り富士山を百二枚も描いたのですが、
どこに富士があるのか。
見ているのは蜘蛛の巣の絵。皆さんわかりました。
「ここにうっすら富士があるように見えなくもない」
「富士山が隠れてるなーっていうですね発見の面白さっていうのがあるかと思うんですね。ただ単に富士山の姿を描くのではなくて見る人に富士山を想像させる」
北斎の絶筆もまた富士山でした。
日本一の霊峰を越え、北斎の魂が天へ昇っていくようです。
「絵を見ても分かりますけどきっとチャーミングな方だったんだろうなと思いながら
富士山のめでたいものだったりそこに変わらず今はいてくれる存在といったものをどう描くのか、絵の中にこう砕いて砕いて、乗っけて行ったんじゃないかなという想像しています」
富士山とはなにか。北斎は生涯答を追い求めました。
富士山は心の故郷。
人々の喜びも悲しみも幸せも別れも全部含んで黙って屹立しています。
あなたのための一枚もきっとある。
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