去年生誕600年を迎えた雪舟は、日本絵画史上ただ一人国宝6点を描き、“画聖(がせい)”と呼ばれた男。
その雪舟にかねてから惹かれているのが、現代美術のトップランナー、李禹煥(リ・ウファン)。
「雪舟の自然観に、呼びかけられている」と語る。
<絵を描くとはどのような行為なのか>、<現代において雪舟を見るとはいかなる体験なのか>。
李のまなざしを通して、時空を超え今、雪舟が語りかける!
【出演】【現代美術家】李禹煥,【学習院大学教授】島尾新,【司会】小野正嗣,柴田祐規子
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日曜美術館「李 禹煥(リ・ウファン) わたしと雪舟」
放送日
2021年1月10日
1969年発行の記念切手。
最初の国宝シリーズの一点です。
その国宝とは、雪舟作《秋冬山水図》。
水墨山水画の傑作です。
去年生誕600年を迎えた雪舟等楊。
日本絵画史上ただ一人、国宝6点を描き、画聖と呼ばれた男です。
ご存知、達磨大師。
国家「慧可断臂図」(えかだんぴず)です。
《天橋立図》またのぞきで有名な観光名所を、雪舟は不思議な山水画として描きました。
《破墨山水図》
絶筆と言われる《山水図》。
そして《四季山水図巻》。通称山水長巻。
全長16メートル超える雪舟の超大作です。
その雪舟に強く惹かれているアーティストがいます。
李禹煥さん。
パリ近郊ヴェルサイユ宮殿。
宮殿前の広場で巨大なアーチが建設されています。
2014年、フランスに招聘されたり李禹煥さん。
大規模な彫刻展が開かれました。
現代美術のトップランナー李さんがなぜ今、雪舟に惹かれているのでしょうか。
「雪舟の絵の呼びかけで、僕が振り向くようになったのは、雪舟が見た自然観っていうかですね、絵描きの行為っていうのはどういうものかっていうことを喚起させてくれるものとして雪舟は僕に非常に刺激的なアーティストだった」
秋、古都鎌倉にある李禹煥さんのアトリエを訪ねました。
「ここは、作品みたいなものが。作品ですね」
「こんにちは。ようこそ。今日はよろしくお願いいたします。素敵なんか李禹煥さんの作品」
「作品をつくるための模型です。捨てるのはもったいない。庭にちょっと並べてます」
「ここで作品の構想を練られることもあるんですか」
「そういうこともあるんですけど、何せ鉄板とか石は重くて運びにくいものなんですけれども、今みんな軽くて手軽なものの好きな時代で、僕はまるっきり反対を行ってるわけですけども、自然環境とやっぱり対峙するためにはある程度の強さが必要かなと思うんですね」
いつもこの空間でお描きになっているんですか。
「日本ではこれ狭いほうじゃないけども、ヨーロッパアメリカに行くとこの十倍ぐらいないと馬鹿にされるんだけど、外国から来るとお前の本当の仕事場はどこだって聞かれる。いやここだって言っても信用しない。でも日本ではこれ決して小さくないない」
「僕が今やってるのは、ご覧のようにこれは二つのストロークによってできてる単純なものなんですが、ただこれもですね、実を言えば子どもの頃習った点の付け方、線の付け方から学んで、神羅万象は点から始まって点に帰るっていう。これは中国の易の基本的な発想なんです。山水画といえどもこの発想の元は、一筆一角から始まるっていうことですね。まあいずれにしても、僕は自分で勝手にこしらえたんじゃなくて、それこそ基本的な要素。基本的なエレメントの点をを子供の時から学んだし、それが自然宇宙の最小限の要素である。でそれを拡大し、これが出発となって様々な自然のいろんな光景を形成したり、いろんなものを作ったりするような事なんで、その最小限の要素を作ってそれで画面構成する、そういう発想なんです」
《秋冬山水図》。
元々は春夏秋冬の風景を描いたものだったと言われています。
現在残されているのは2点。
右が秋、左が冬です。
雪の降り積もった木々や岩山。
手前には坂道を行く男。
家々。
天に突き抜けるように伸びる力強い線。
抽象画を思わせる大胆な描写です。
特にこの秋冬山水図がお気に入りの作品です。
「雪舟の無数の作品の中で、特に《秋冬山水図》の中のこれは冬の図なんですけれども、これは大変素晴らしい。雪舟のみならず水墨画の日本、韓国、中国を通してもこの絵はちょっと珍しい。しかも絵としてすごく面白い。そういう要素をたっぷり含んだ絵だと思います。皆さん見ると、ドキドキするような絵だけど、どうしてドキドキするかって言うと、下の情景って僕は言うんですけど、この下の物は普通山水にありがちな風景です。それでですね、真ん中の上からスパッと空間を断ち切るような形で、岩を描いて、
さらに向こうに何かおばけだか何だかわからないような異様な起伏の山を描く。これはやっぱりどうしたんだろうって思うんです。実はこれは僕の考えでは下の方のものは向こうの富士山のようなうっすらと陰が見えますけど、この雪をかぶったその木から富士山のようなそこで一旦筆を置いたと思うんです」
同じ画家として李禹煥さんは雪舟がどのような順序で筆を進めたのかに注目しました。
筆を置いた時点で右側の画面のように上部に空白が広がっていたのではないかと考えたのです。
「異常なそういう光景は外したらこうなります。やっぱりちょっとこれは、いくら冬の図といえども上が空きすぎ。なんかちょっとにしまりがないという方に色々考えてるうちにやっぱり狂気が走ったと思うんですね」
やっぱり足したくなった。
「画家は白い面を見るとやっぱり無意識が働くものなので、それで彼の中にいろんなものが去来して、スパッとなんか空間を割ってみたいっていう、そういう気持ちが走ったんじゃないか。(これは最終型ですよね)本来ならばこれをもっと誇張してボリュームをつけるはずなんですけど、ボリュームをわざとつけない。平板さを残しているんです。それでこの抑揚の効いた黒い線を生かしてるんです。そのために空間がスパッと割れてるようなそういう感じ。さらにそれからですね、その向こうにお化けみたいな、そういうものは現実的にありえないんです。険しい岩山が激しいってもこのようにはできてないので、これはほとんど想像の世界です。だからシュールレアリズムの時代だとまるっきり違うお化けを描いてあるもんじゃないしなんか全然違うんだけども、この時代はそんなになくて、ありえそうな、現実ではないけども現実に近いような想像力を働かせそこへきてると思うんですね。この上の二つが入ることによって、この上の絵は異形です。下は情景です。二つが重なって冬の図になったと僕はと考えるんです」
ここにある想像力の産物もやはり自然となるかも対話してる。
「創造の源は必ずあるということです。自分勝手なもんじゃ」
李さんがこの秋冬山水図に心惹かれるっていうのは、雪舟の心の動きというかその軌跡が見えるようなところに。
「現実と非現実のものの組み合わせ方。そういう両面性があるって言うことがやっぱりその時代性と同時に雪舟の偉大さだと思うんです」
その生涯には未だに多くの謎があります。
10代半ばで故郷を離れ、雪舟は京に向かいました。
京都、相国寺。
この寺で高名な画僧周文に、山水を中心とした水墨画を学んだと言われます。
しかし才能はなかなか認められず、雪舟は三十代半ばで周防国山口へと旅立ちます。
当時、周防国の守護職で有力大名だった大内氏の庇護を受け、10年以上この地で過ごしました。
38歳の時、それまで名乗っていた拙宗から雪舟へと改名します。
山口で描かれた山水図。
山や木々は輪郭線を使わず墨を注ぐだけで表現されています。
雪舟ならではの奔放で大胆な画風が伺える作品です。
この地で自らの行くべき道を模索していたのかもしれません。
1467年、雪舟はついに遣明船で中国に渡ります。
すでに48歳になっていました。
足掛け3年。
港町寧波、首都北京など中国各地で本場の水墨画に学び、また風物や自然を体感することで独自の画境を切り開いていきます。
「山水画は中国で唐の時代にほぼ完成された絵なんですけども、農耕社会が生み出した絵の様式なんですね。しかも水墨で描く山水画が定型化されてくるんですが、その農耕時代は知識人、文人たちの考えた山水って自然の原型なわけです。それで自然の原型をそれはさらに伸ばせば宇宙のその原型でもあるような、そういう遙かなものとして山水っていうものを考えてた。狩猟時代は人間は自然の中にいるわけですからそれほど退治できないんですけども、農耕社会になると、人間と自然がある程度距離ができた。距離ができる中で自然体するその恐れと憧れとそういうような面をもって自然が浮かび上がってきた」
国宝《破墨山水図》。
はるかに霞む山。
手前にはぼんやりと何かが浮かんでいます。
ぼかしにじみの茫洋とした画面。
もはや現実を超えた遥かな世界に見るものを誘います。
この作品を見ると、自然との呼吸。会話のようなものがこの絵の中から感じられる。
「そうですね。日本は湿気の多い国です。蒸気が多くてその霞とか霧だとかそういうも深くて物事がはっきり見えにくい。等伯も霧深いところの松林図を描いてますね。これは日本のその地政学的な、島国ならばならではのそういう光景なわけです。それを雪舟はいろんな人から影響を受けてますけれども、彼独特な陰影を持ってすばらしい破墨山水を結構描いてるんですね。そのアクセントとか、引くところとか出すとか、これはマイナス部分がある絵なんですね。大半の絵っていうものはプラスばっかり描く。生産するような方向でばっかり考えるけども、描かない部分。引く部分を実に上手く引き出してるのが雪舟の破墨山水ですね。描いてないような周りの空白の部分とか、空白に溶けていく部分とか、それを現れる部分とか、そういう両面性が生きてる絵なんです。これが最も大事で、やっぱり自分のエゴだけ自分の自我だけ自分で考えたものだけじゃなくて、それを考えてことを経験して考えてない部分との兼ね合いとか、その対話の中で表現ができるともっと大きな宇宙が出てくるんじゃないかっていうことになって、この絵はほんとそういう典型と言っていいんじゃないか」
3年に及ぶ中国滞在を終え、雪舟が帰国した1469年。
日本は戦乱のさなかにありました。
応仁の乱は京の町を焼き尽くします。
戦火を避けるよう各地を漂白する雪舟。
その後再び、庇護者である大内氏の山口に戻ります。
以後絵筆を休めることなく雪舟は制作を続けます。
雪舟の傑作はほとんどが60歳を過ぎてから。
大器晩成の画家でした。
67歳の雪舟が全力を傾けて描いた《四季山水図巻》通称山水長巻。
季節の移ろいが全長16メートルにわたって展開する空前絶後の大作です。
庇護者である大名、大内雅弘に献上されたと伝えられます。
さて季節は春。
画面は険しい山道を登る男の姿から始まります。
ゴツゴツとした岩山。
ダイナミックな造形です。
夏、水辺の風景が広がります。
うっすらと藍色に彩色された水面。
洗濯物が翻る船の上。
のどかな人々の暮らしのスケッチは雪舟がかつて中国で見た風景なのでしょうか。
こちらは一転、荒々しい岩場。
秋、山中の村の一角。
行き交う人々の賑わいの様子が生き生きと描かれています。
カラフルで楽しい画面です。
さていよいよ冬です。
雪山を背景にした城壁と家々。
このシーンで大作山水長巻は幕を下ろします。
雪舟研究40年。
日本美術史家で学習院大学教授、島尾新さんです。
「やっぱ絵が面白いですよね。雪舟は国宝6点ありますけど全部タイプ違う。雪舟は一家芸じゃなくていろんなタイプの絵描いている。それでいながらやっぱり見るとあこいつ雪舟だってのが分かる。それが雪舟の絵であるってのが明らかなんです。その絵ごとにきっといろんなことを考えてやっていて、そしてその絵が出来る背景ってのはまたいろいろなんです。これ見るのが面白い。これが一つ。もう一つはやっぱり人生が面白い。室町時代これだけ動きまわった画家っていません。生まれが岡山で、京都へ行って山口。山口から中国へ行き、帰ってきて今度は大分に行き、その後も最後が天橋立なりますけれども色々旅をしている。もう一つはやはりその社会と関わってると思う。アトリエの中でずっと絵だけ描いている。工房にこもってているタイプじゃないので、基本的にはそれで歴史とか変わっちゃってるんですね。ですから私がもうちょっと魅力に感じるのは雪舟の目を通してその時代の歴史が見える」
大作《天橋立図》
82歳の雪舟が実際に現地を訪れスケッチして描いたと言われています。
しかし天橋立がこのように見える場所は地上には存在しません。
一体雪舟はどのようにしてこの絵を描いたのでしょうか。
今から16年前。
NHKの番組で島尾さんが天橋立を描いた雪舟の視点を検証しました。
実際の風景と雪舟の絵を見くらべます。
「500メートルですね。まだちょっとイメージから低いですね。もう少し上げていただけますか。900メートルです。山も下に海がとてもよく見えますね。内海全体が見えてきてますね。山は500から700。橋立と向こうの海は900くぐらいがいいかもしれません」
高度900メートルだから見た絶景と天橋立つを比較します。
山の姿はデフォルメされているものの全体としてかなりよく似ています。
「天橋立。雪舟研究をやってるとやっぱり天橋立でヘリコプターっていうのはこれはひとつの夢で、私実は高所恐怖症なんですけど、橋立を飛べるというのにつられてお引き受けしてしまったんですが、絵見ながらヘリコプターに乗ってるってまだないことですから。これと同じ所を雪舟は飛んだわけじゃないので、飛んだわけない人の絵と減りで見ているのを合わせるって作業はやらないことなのでおもしろかった。根本的なのは地上にはな視点から、いかにも見ているような風景を作り上げたっていうことですよね。今で言えば当たり前ですけれども当時としては奇跡的な絵ですよね」
国宝《慧可断臂図》。
禅宗の始祖達磨と弟子入りを申し出る慧可が描かれています。
日本で描かれた数多くのだるま図の中でもかなりユニークなだるまです。
「これは素晴らしい絵なんですけれども、非常に圧倒する絵です。見てると人間が岩に向かって大きく目をぱっちり開いて座ってるかと思うと、後ろでいわくありげな人がなんかその腕を切り落としてそれを持ってなんか願ってるっている。しかも後ろを見ると岩の上に目玉みたいな大きな穴が空いていて、こちらを睨んでるのかあるいはのこの人を睨んでるのかわからないけども、非常に気迫に満ちたそういう絵なんですね。すごい傑作だと思うんです」
破墨山水図に比べますとね、筆の感じとか墨のにじみ具合とか同じ人が描いたのってぐらいずいぶん違いがありますでしょう
「この絵は間違いなく絵描きの感覚からすると、下書きがあって下書きを下に引いて上でなぞったのか、あるいは薄いものでデッサンしてそれをなぞったのか。これ殴り書きです。ほとんど徹底したデッサンの上にそれをそのまんまなぞった絵であって自分の気の思うまま描いた絵ではありません。まずこの顔を見ると西洋の人なのか中近東の人なのかわかりませんけれども、そういう絵の中にね、この顔の色を塗っている。塗り方だとかこのヒゲの描き方。これはねほとんどテンペラの技法です。それでこの絵の具もほとんど僕の見るところ水墨で淡彩で使ってるような絵の具とちょっと違うんです。しかもこのヒゲを描くこの黒いヒゲはですね。これ普通の筆ではダメで、テンペラだとか洋画を描くような毛の強張った硬い毛じゃないとこういう風になりませんし、もしかしたらこれはすごく水墨じゃない別な筆かもしれません。それからこの衣の周りをぐるっと回ってるような、これもですね、普通の筆だと抑揚が出ちゃうんで、そういう筆じゃなくて細い平筆です。細いしかも硬い平筆でもって、抑揚や幅が出ないそのままなぞれるような筆に墨をつけて描いてあるんですね。しかし全体にしてもあの構図といい描き方といい、ちょっとこれは普通じゃない。すごい気迫もあり綿密であり、非常にその格好たるそういうようなあらゆるコンセプトから描き方から、そのあらゆるものが非常に格好とした組み立てできてる恐るべき絵だと思うんです」
「でもなぜそこまで惹かれるんですか」
「すごい絵だから。雪舟であろうと無かろうとすごい絵はすごい」
「あそこで雪舟がやってることっていうのは、何ていっても特徴はあのだるまの衣の線ですよね。マーカーで引いたような。ほとんど太細がない。それをつぎながら描いてるんですけど、そしてその周りがまたボカしてあるんですね。それで達磨の形が不思議なものになってるんですよ。その線の周りをちょっとボカしたんですね。それでそのだるまの存在っていうのが非常に不思議なものになっている。水墨画のルールからいったら普通、衣の線は
花書いてあるやん基本はこれも露店は太くして細くしてっているんで送ってくるよで立体化もされたしたからねそうじゃなくてあのグラフィックデザインみたいなことも絶対なことやこれはあのあえて言えばそのそういう水墨の常識に対する反逆なんですね。いくら単純に行ったら中国であの星はあり得ないと思います。それに対して雪舟はあの実験をやった。あれで一つ、水墨の線というものに今までなかった、そこで中国に反逆するという意識があったかどうか分かりません。分かりませんけれども、結果的にそういうものになった。慧可という弟子ができます。弟子ができたので、私の役割は終わったんだと言って消えていくみたいなイメージじゃないかと思っていますがまあこれはあろうかという解釈ですかわかりません」
去年、東京六本木の森美術館で開かれた話題の展覧会設営会場に李禹煥さんの姿がありました。
自身が半世紀以上前に発表した作品の再現です。
60年代から現在まで彫刻絵画と幅広い分野で現代美術を牽引してきた李禹煥さん。
晩年も一作ごとに新たな挑戦を続けた雪舟の世界と重なります。
縦笛でごストロークオイルを使って口角とアリは点をつけるって言うと、それはあのその書いた人の考え方だとか好意の質だとかそのあるいはそのそこのキャンバスのその白さだとかいろんなものとの兼ね合いで何かが出てくるわけです。そうそう僕が一番大事にしてるのはまず各前は猿だってことですかこれ一つの前提ですけども真っ白な紙でやろうとキャンバスであろうとそこへ何か筆を下ろす何かタッチをするっていうこととタッチしない前とタッチした後どのその間は本当にこの単純でもうほんと一緒のことであってもそこでも計り知れない。何かの出来事が起こってる出来事でもその雪舟になぜかしら引かれてしまうっていうのはその近代以前を生きた接心に何か
その共通点のようなものをお感じになる
あの雪舟の時代は農耕社会になってかなり定着した時期なんですね。それでソースと自然との距離はほどほどでそこでまぁ西洋風に言うと棒人間の近くみたいなものが芽生えるそういう時期なんですね。近代的な人間になる前に姉さん数人みたいに
自然と人間の調和とかいろんなものですごく人間が美味しくなるそういう時代なの
で雪舟の絵にもそういう美味しさがあるんです。だから僕は自分が関西系じゃなくてとりあえずでも出発ラインに立ってるっていうふうに思うんです。今ようやく抽象絵画やいろんなものが一旦バラされて終わってふでこれから新しい介護がどうなるか分かりません。とりあえず僕はその出発のラインに立とうというそこへたどり着いたっていう気持ちが強いです。今ですか今。今までのキャリアを振り返って振り返っている
やってる家に納豆ですね。出発点に着いたのかな。そういう感じです
自分自分のみならず自分じゃないあの騒動っていうか
代謝っていうかそういうものとの関連の中で
何かがその新しく行動やって形成されるのか表現されるのかっていうことに僕は足を踏み込んだのかなという気がするので
70代で李禹煥さんはベルサイユ宮殿の巨大アートプロジェクトに挑みました。
大作を次々と描いたのも60を過ぎてからのことです。
白い砂利を敷き詰め、七つの石を並べました。
北斗七星をイメージしたと言います。
星座に行に並べてそれでそこにいろんな思いがそれぞれの思いを抱えながらしかも石たちが語り合ってるっていうそういう広場を演出してみたいな事やってみたんです
30メートルのステンレスの鉢。
太陽の光を受け真珠色に輝きます。
アーチは日本の裏側に出ると長芋の肉を使っててこういうイメージをしてみたいなって思った時に売ってるようなそういうヴェルサイユの空にかけられたルパンのアートのにじですベルサイユのお祭りにそのオブジェおま昨夜送って行くことによってこの周辺の空間の質が変わるとそこにそのためおいたことによるその波動ですかねそのバイブレーションというものが必ずその見る側にも何かしら無意識のうちに影響を与える近くにありを変えていくって言っパリミキの開発っていうか啓発って言うかそういうものになると思うんです。だからそれはそのそこにある風景を邪魔しないでだからそのずっとあったような感じでなんかこの光景が変わってくるって変わって見えるって言うそういうことは僕の頭くるってことは他社に働きかけるっていう事だと思うんですけどもその今井さんの話を伺っておりさんはその働きかけっていうことは決して押し付けがましくないな形であれ自分がある職を少しコアの身を引く飛鳥小スペースを作るような形ででもあのなんとか働きかけるっていうかその通りでそれの方が自分もより1日空いてもいいし
もっと大きい方がよりずっと大きいと僕もその接種の家はあの人物がから
そのそのさんスイカから色々な課長がいろんなものがありますけども
特に彼のその本分をな絵の描き方行為性あり別れのその非常に自由ないろんなその自然に対するその思い出のてん回しかだ
それを見てますとやりその時代その時代が大変羨ましい大変ねすごく彼はその時代にお聞きしてておいしい空気を吸ってたのかなっていう気がするのでやっぱり中央そのミルクで今の時代の人間からもっともっと自分を遠いところまで食べさせてそこで見つめる接種を通して逆に施主の方から今日の文明とかそのこの社会を見直すようなそういうようなことにもなるんじゃないかと思うのでそういうその行き来するようなそういうスパンとしては摂取が最もいいのかなとも思う
お兄さんがその下で作業をした時と思ったのかその見た時にそしてに呼びかけられたって呼びかけられのカンジタって押しちゃったよだから今ちょっと僕たちもまあ僕なんかねなんか鍋呼びかけてもらえないですけど見ると2/3-その話を手がかりに雪舟を見ると僕もその上からの呼びかけをホッとした感じと目の前にあるただの風景って言う風景をはるかに超えた何かがそこにあることに気がついて欲しいなと思います」
真っ白な紙にあるいはキャンバスに筆を下ろす瞬間まさにその一瞬に計り知れない何かが起こると李禹煥さんは言います。
遥かなる無限の宇宙に向かって今李さんの一瞬が雪舟の一瞬と響き合います。
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