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新美の巨人たち 竹久夢二『港屋絵草紙店』

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竹久夢二は“大正ロマン”を創ったひとり。

夢二ブランド商品を売る『港屋絵草紙店』をオープンすると、その名を知らぬ者はいないほど日本を席巻。

今回の作品は開店時に広告として制作された木版画です。

マルチクリエイター夢二が、最も輝いていた時代の作品から見えてきたのは、生涯追い続けたデザインへの思い入れと、恋多き男ゆえの哀しき結末でした。

貫地谷しほりさんが、仕事と生活の両面から夢二の画家人生を探ります。

美術の窓 2021年 1月号

美術の窓 2021年 1月号

  • 発売日: 2020/12/19
  • メディア: 雑誌
 

美の巨人たち 竹久夢二『港屋絵草紙店』

放送:2021年3月13日

 

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東京駅のほど近く呉服橋。

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この地に百年前、日本で初めてかわいいをコンセプトに掲げたグッズショップがありました。

若い女性たちに絶大な人気を誇り、全国にその名が知られた店です。

今は跡地に記念碑があるだけ。

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その伝説の店は港屋と呼ばれていました。

人気を支えていたのはひとえにこの男のブランド力です。

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画家竹久夢二今に伝わる大正ロマンのイメージを絵筆で作り出しました。

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代表作《黒船屋》

夢二式美人という言葉が生まれるほど。

夢二といえば美人画で知られました。

 

そしてこの画家は数々の恋愛遍歴で知られます。

様々な俳優が演じ銀幕を飾ってきました。

港屋も度々物語の舞台になります。

なぜならこの店は夢二の人生を語る上で避けては通れない場所だったから。

港屋とは一体どんな店だったのでしょうか。

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群馬県立館林美術館では美しいものかわいいものをテーマに夢二の企画展が開催中。

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ここに港屋を象徴する作品が展示されています。

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今日の一枚。

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竹久夢二作《港屋絵草紙店》

店店を宣伝するための広告として描かれた木版画一枚絵の作品です。

華やかな着物に身を包み曲線を描く立ち姿。

夢二が好んで描いた三白眼の美女たちがこちらに向かって微笑んでいます。

くわえタバコで気取る男は夢二その人。

画面の奥には店のある場所呉服橋。

港をイメージする大きな提灯が店舗の目印でした。

絵の中には他にも男の姿があります。

一体何者なのでしょうか。

この謎解きはまた後ほど。

まずはこの店でどんなものが売られていたのか紐解いてまいりましょう。

 

 

 

港屋絵草紙店は大正三年10月、夢二が30歳の時に開いた店です。

開店を告げるチラシには店のコンセプトとして美しいものかわいいものと記されています。

販売されるものは全て夢二自身がデザインを手掛けました。

鳥とキノコがゆるい雰囲気で描かれたこちらは水彩画の作品。

店のショーウィンドーを飾っていた売り物です。

さらにこんな木版画も。

輪郭線のないモダンな柄が印象的ですが、メインの品物はこれではありません。

主力商品はまず千代紙。

折り紙として遊んだり箱に貼って小物入れを作ったりできます。

さらに色とりどりの絵封。筒ハガキも人気で4枚で1セットでした。

このモダンなものは何かというと実は浴衣のデザイン。

スタイリッシュなレタリングが目を引きます。

ファッションアイテムとしては半襟に特に力を入れていました。

店内の写真が一枚だけ存在します。

緑色のロシア紙が貼られた内装だったそうなので、こんな雰囲気だったかもしれません。

可愛いんですよね

私は間違いなく湊谷あったら花よ

買い漁ってると思うし

こちらを使っているって見て

ゆみさんにも

夢中になっていた可能性がありますね

女子の心をがっちりと掴んでいた

夢二の港屋それは今で言うとどんな店に当たるのでしょうか。

東京の竹久夢二美術館で学芸員の石川さんに伺いました。

「日本で初めてとも言えるファンシーショップ。可愛いというコンセプトで商品作りをしてお店を経営した日本で最初の人ですね」

今で横ディズニーとかサンリオとかそういったものにゴミになる感じ近いんですか

「そうですね。それの夢二番っていう時計

時代に先駆けて可愛いを商売にした夢二。

そこには夢二なりの勝算があったのです。

 

 

明治17年岡山県邑久郡で生まれた本名のジロー

17歳の夏家出同然に上京します。

私人を志し新聞配達などをしながら早稲田実業学校に通いました。

21歳の時、雑誌中学生会に投稿したお前が第一党に選ばれます

このとき初めて夢二を名乗りました。

それからとんとん拍子に雑誌に狛江が入選。

夢二はこうした挿絵や葉書を書く画家として期待の存在になっていきます。

これは当時の多くの画家がたどった道とは異なるものでした。

「夢二という人はいわゆる美術学校に進んだわけではなく、独学で画家になった人なんです」

美術教育を受けなかった夢二。

何から絵を学んだのでしょう。

竹久家に残されていたものがあります。

20代の頃から始めた絵のスクラップ。

街で手に入る雑誌や新聞の切り抜きが夢路のイメージの源泉となっていました。

西洋絵画やデザインの断片はかなりの数に上ります。

「繰り返し繰り返し見て頭の中に残るものがあるんじゃないかしらね。こういうのずっと見てるとなかなか人生勉強家だったんだと思うんですけどね」

23歳の時2歳年上のキス環と結婚。

二巻をモデルに生まれたのが夢二式美人です

これで一世を風靡26歳の時に初めての画集春の巻を出版すると、9千部を売り上げる大ベストセラーに。

街には夢二が描くような装いの女性たちが溢れました。

大正時代の初め

竹久夢二は社会現象と呼ぶべき存在になったのです。

そんな夢子が店を出すとなれば

流行に敏感な客が黙っていません。

店の成功は約束されたようなものでした。

ただし金儲けが目的ではなかったと言います。

夢二はこの頃新たな興味に突き動かされていたのです。

竹久夢二

港屋時代にある意外な仕事に携わっていました。

こうしてこの身少女という雑誌にも関わっていました。

大正四年4月創刊の少女向け雑誌神少女

夢二は港屋で商品を作る一方、絵画主任としてこの雑誌の編集部に入り表紙絵やさしえコーナー企画も手掛けるなど熱心な仕事を残しているのです。

少女のお部屋の飾り方そんなこともやってたんですね

生活スタイルまで提案されていたんですね。

この頃の特集は長女の部屋の飾り方。

これは夢二が提案する部屋のイメージ

あなたの部屋をどう飾りますかという題で文章も寄せています。

あなたにとって部屋や机の周りはあなたの納めていらっしゃる国のようなものです。机を国に例えると差し当たりあなたはこの国ようです。人気ツボはどこどこんはどこ食わ便はどこと一刻に運がや公園や軍港がそれぞれ適当なところにあるように。自分の持ち物はいつも定めたところへ大きいならねばなりません。

夢二の文章なかなかユニークです。

こちらの特集は手提げ袋の作り方

全国の少女がこうした図案から自分で刺繍をしたんですね。

変わった気の利いた模様があります。

これは通信販売。

港屋に来られなくても買うことができました。

生活を趣味よく美しくよ大切だというのをどんどん発信していきたかったのではないかと思います。

日々の暮らしを美しく彩って欲しい。

夢二はこの頃から生活に密着したデザインに高い関心を持つようになっていたのです。

港屋はそんな夢路の考えを反映させた店舗で新しいコンセプトあたり東京の新名所として知られるようになるのです。

ちなみに現在夢二の常設美術館が全国にご箇所もあります。

その一つ竹久夢二伊香保記念館には港屋の賑わいをマイクラで表現した掛け軸が所蔵されていました。

ここで開くのは5年ぶりという大作です。

江戸呉服橋の図

舞台は江戸に置き換え、続々と船から品物が運び込まれる様子が描写されています。

まさしく順風満帆の港屋。

しかしその隆盛は長くは続きませんでした。

店は開店からわずか2年あまりで消滅してしまうのです。

原因は女性問題でした。

夢二を取り巻く二人の女。

その事件の舞台もまた港屋だったのです。

 

 

港屋絵草紙店は竹久夢二が作った店ですが、店主は妻のたまきでした。

正確に言うなら元妻。

開店を告げる挨拶状も旧姓石巻ではされています。

実はこの二人結婚の2年後に協議離婚し歌詞その後も同居したり

子供が生まれたりと完全には切れない間柄でした。

二巻が自活できるようにそう願ってイメージが開いたのが

港屋だったのです。

港屋が開店するなり店に足繁く通い始めた若者たちがいます。

まずは夢二の大ファンでへの指導を願い出た破砕彦18歳。

端正な顔つきのこの男もゆめじろう大家寄ってきました

東郷青児です。

後に独特なスタイルの美人画を確立する巨匠になりますが、当時は17歳でした。

店のに階には夢二をしたってこうした画学生たちも集まっていたのです。

今日の一枚からはそんな開店直後の店の雰囲気を感じることができます。

帽子の男は夢二自身。

左の古風な着物の女は玉城。

中央で今日傘を持つのは葛西彦。

その奥にいるのは店に足繁く通う東郷青児のようにも見えて

大正三年秋。

店が開店したばかりの頃が一番幸せだったかもしれません。

四人の人間関係はこの後泥沼化してしまうのです。

一体何があったのか。

葛西彦の姪で夢二研究会代表作原さんに伺いました。

宇治市立北東郷青児さん美男子ですね。

いい男ですね。

本当にこの当時はまだ17歳たまきさんさんさんすいません

やっぱり魅力的だったんだと思います。

玉木さんはすごく整理さとお子さんをちょっと気に入って

可愛がってたけどね

そんなことでだんだん関係が深くなってで

もみなとやを始めたのは10月ですけど、12月にはもう非常に関係が深くなってるんです

二人の仲は夢二の知るところとなり夢二はそれに憤慨。

刃物でたまきを切りつける事件に発展してしまいます。

その時っていうのは夢子さんは玉木さんに

もうちょっと愛情が薄れているじゃない方なの

やっぱりそこは俺はやはりね

嫌な嫌なんでしょうね

たまきとの刃傷沙汰の後、夢二はが学生の火災彦と惹かれ合うようになります。

東京御茶ノ水にあるニコライ堂はそんな夢二と彦の思い出の場所。

人目を忍んで訪れ永遠の愛を誓いました。

それは二人だけの結婚式に古来のホールに入れて愛抱き

サンタマリアを折る紙にけり

そして夢二はたまきとの関係を完全に断ち切るべく、京都へ移り住み彦と暮らすようになり

夢路が店の商品を作らなくなると港屋は自然消滅。

男女関係のもつれによってわずか2年ほどで店は無くなってしまったのです。

新しい生活を始めた夢二。

しかし幸せは長くは続きませんでした。

そして。

 

 

 

衝撃の事実がありますってやつは

このソーセージと

彦と関係があったっていうことで

事故のが自ら打ち明けました

夢二と出会う前に東郷青児と交際していた過去があると

明日知らぬは本人ばかりなり

その後京都で夢路と暮らしたひこのですが、肺結核を患いこの世を去ってしまいます。

23歳。

早すぎる死でした。

男と女。愛と憎しみ。出会いと別れ。

全てがこの店に詰まっていました。

そして夢二はその後も港屋の影を追うことになります。

30代後半にはどんたくずわん社というデザインスタジオのすりーつの計画

しかし関東大震災によって頓挫してしまいます。

デザインの仕事は変わらず続けましたが昭和になると夢二ブームは過去のものに。

46歳の時、度々訪れた群馬県伊香保町で再起を図ります。

かなり生活に密着したものを作る場所ってことですか。

榛名山美術研究所の建設計画を発表。

それは自然から学んでデザインを行う芸術村のような場所を作る構想でした。

生活をデザインするって今では結構よく聞く言葉で当たり前としてある文化ですけど、すごく早くにそれをやろうとされてたってことですね

本当にもう一歩もに歩もさん歩も先入ってたんじゃないかなっていう

しかし念願だった欧米の外遊に旅立つこととなりこれも実現しませんでした。

夢二は旅先で体調を崩し帰国するや50歳を目前に帰らぬ人となってしまうのです。

東京浜町明治座の迎えには今夢二の想いを注ぐ同じ名前の店が存在します。

扱っているのは夢二グッズの数々クラシエの彩りを

より多くの人へ美術教育を受ける下段とは距離を取り

独学で自らの画風を極めた画家だからこそ自由な発想でこんな店を作ることができたのです。

竹久夢二の港屋絵草紙店。

時代を先取った男夢のあしあと。

 

 

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